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第十五話 残るもの

 翌朝。


 浅野悠真は、いつもの道を歩いていた。


 いつもの時間。


 いつもの交差点。


 いつものコンビニ。


 昨日までと、何も変わらない。


 けれど。


 悠真自身は、少しだけ違っていた。


 胸の奥には、まだ痛みが残っている。


 昨日のことを思い出せば、今でも苦しくなる。


 それでも。


 もう、その痛みから逃げようとは思わなかった。


 交差点を渡る。


 人の流れに合わせて、ゆっくりと歩いていく。


 そして。


 いつもの自動販売機が見えてきた。


 ガラスの向こうに、青いラムネが並んでいる。


「……」


 悠真の足が、ほんの少しだけ遅くなった。


 昨日のことが浮かぶ。


 冷たい瓶。


 ビー玉の音。


 そして。


 止まらなかった涙。


 胸の奥が、ほんの少しだけ痛む。


 悠真は自動販売機の前で、二秒だけ立ち止まった。


 財布には手を伸ばさない。


 そのまま歩き出す。


 今日は、買わなかった。



 学校に着く。


 昇降口を抜け、階段を上がる。


 教室に入る。


 いつもの席。


 いつもの机。


 いつもの窓。


 悠真は鞄を置いて、椅子に座った。


 周りでは、いつものように生徒たちが話している。


「昨日の宿題、終わった?」


「ギリギリ」


「俺、まだ半分」


「それでよく学校来たな」


 くだらない会話。


 笑い声。


 机を動かす音。


 そんな日常を、悠真は静かに聞いていた。


 誰かが窓の外を見ながら言う。


「まだ暑いな」


「もう九月なのにな」


「今年、夏長すぎだろ」


 その言葉に。


 悠真の手が一瞬だけ止まる。


 頭の中に、夏の景色が浮かんだ。


 青い空。


 風に揺れる髪。


 笑っている蛍。


 ラムネの瓶。


 ほんの短い記憶。


 以前なら。


 思い出した瞬間に、無理やり別のことを考えていた。


 けれど。


 今日は、そうしなかった。


 ただ数秒。


 その記憶を受け止める。


 そして、教科書を開いた。


 チャイムが鳴る。


 先生が教室に入ってくる。


「はい、席につけー」


 いつもの授業が始まった。



 午前の授業が終わる。


 昼休み。


 教室が一気に騒がしくなる。


 椅子を引く音。


 友達を呼ぶ声。


 廊下を歩く足音。


 悠真は昼食を持って教室を出た。


 向かったのは。


 昨日と同じ場所だった。


 人の少ない廊下。


 窓から差し込む昼の光。


 悠真は窓の前に立つ。


 ここで、昨日泣いた。


 ラムネを握ったまま。


 どうしようもなくなって。


 止めようと思っても、涙が止まらなかった。


 悠真は窓の外を見る。


 しばらく何も言わない。


 今日は、泣かなかった。


 胸の奥には、まだ痛みがある。


 でも。


 その痛みを無理に消そうとは思わなかった。


 風が吹く。


 カーテンが揺れる。


 その瞬間。


『悠真』


 そんな声が聞こえた気がした。


 悠真は振り返る。


 誰もいない。


 分かっていた。


 それでも。


 ほんの少しだけ笑った。


「……忘れたくないな」


 小さく呟く。


 それ以上は、何も言わなかった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


 悠真は窓から離れた。


「……戻るか」


 そう呟いて、教室へ戻った。



 午後の授業。


 黒板に書かれる文字。


 ノートを取る音。


 先生の声。


 窓の外の景色。


 何度か、蛍のことを思い出した。


 そのたびに。


 胸の奥が、少しだけ痛む。


 でも。


 もう、追い払おうとはしなかった。


 思い出す。


 少し痛む。


 それから。


 目の前を見る。


 ただ、それだけ。


 それだけでいい。


 悠真は少しずつ、そう思えるようになっていた。



 放課後。


 授業が終わり、生徒たちが教室を出ていく。


 悠真も鞄を持った。


 そのまま帰るつもりだった。


 けれど。


 校門を出たところで、足が止まる。


 少しだけ考える。


 そして。


 いつもの道を外れた。



 桜の木の下。


 春には花を咲かせていた木も、今は濃い緑の葉を広げている。


 悠真は木の下で立ち止まった。


 ポケットから写真を取り出す。


 写真の中には、自分と蛍が写っている。


 二人とも笑っている。


 あの頃は。


 この先に何が待っているのかなんて、何も知らなかった。


 ただ、一緒にいた。


 それだけだった。


 悠真は写真を見つめる。


 しばらく黙っていた。


 そして。


「……今日も来た」


 小さく呟いた。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 写真の中の蛍だけが、変わらず笑っている。


「……まだ」


 悠真は少しだけ言葉を探した。


「まだ、ちゃんと平気じゃないけど」


 少し笑う。


「たぶん、それでいいんだよな」


 返事はない。


 でも。


 今日は、その静けさを寂しいとは思わなかった。


 悠真は写真をしまう。


 空を見上げる。


 夕方の空が、少しずつ赤く染まっている。


「……また来るよ」


 そう言って。


 悠真は歩き出した。



 夜。


 悠真の部屋。


 机の上には、写真とアクセサリーが並んでいる。


 悠真は椅子に座り、その二つをしばらく見つめていた。


 悲しみが消えたわけではない。


 蛍を忘れたわけでもない。


 むしろ。


 これからも忘れたくないと思っている。


 ただ。


 昨日より少しだけ、その痛みと一緒にいられるようになった。


 悠真は写真を手に取る。


「……蛍」


 少しだけ間を置く。


「おやすみ、蛍」


 写真を机に戻す。


 部屋の明かりを消す。


 窓を少しだけ開ける。


 夜の風が、静かに部屋へ入ってくる。


 悠真はベッドに横になった。


 目を閉じる。


 今日一日を思い返す。


 ラムネ。


 教室。


 あの廊下。


 桜の木。


 写真。


 どれも特別な出来事ではない。


 ただの一日だった。


 それでも。


 その一日の中に、蛍がいた。


 記憶の中に。


 何気ない瞬間に。


 胸の奥に。


 悠真は静かに息を吐いた。


 もう、何かを忘れようとはしなかった。


 無理に前を向こうともしなかった。


 ただ。


 残っているものを、そのまま残しておく。


 それでいいと思った。



 夜が深くなる。


 窓の外は静かだった。


 夏は、まだ終わっていない。


 けれど。


 少しずつ、季節は次へ向かっている。


 それでも。


 あの夏に残ったものは、消えない。


 笑ったこと。


 泣いたこと。


 一緒に過ごした時間。


 そして。


 蛍のこと。


 悠真は目を閉じた。


 静かな夜の中で。


 最後にもう一度だけ、その名前を思った。


 ――残るものは、きっと忘れない。


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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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