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第十六話 好きだった

 昼休み。


 窓の外から、運動部の声が聞こえていた。


 教室の中では、何人かの男子が机を囲んで話している。


「なあ、浅野」


「ん?」


「お前ってさ、好きな人とかいないの?」


 悠真は箸を止めた。


「……急に何?」


「いや、なんとなく」


「そうそう。浅野って、そういう話全然しないじゃん」


「彼女いたことないの?」


「ないけど」


「じゃあ好きな人は?」


「……」


 悠真は答えようとした。


 けれど。


 言葉が出てこなかった。


 頭の中に浮かんだのは、一人の少女だった。


 笑った顔。


 少し拗ねたときの表情。


 自分の名前を呼ぶ声。


 並んで歩いた帰り道。


 夏祭りの夜。


 花火を見上げていた横顔。


 悠真は視線を落とした。


「……いない」


 ようやく出した答えは、それだった。


「本当に?」


「本当」


「怪しいなあ」


「何がだよ」


 笑い声が起こる。


 話題はすぐに別のことへ移っていった。


 悠真も笑って聞き流した。


 けれど。


 胸の奥には、さっき浮かんだ顔が残っていた。



 午後の授業。


 黒板に書かれた文字を写しながら、悠真はぼんやりと考えていた。


 好きな人。


 その言葉を、何度も頭の中で繰り返す。


 どうして。


 あの質問に答えられなかったんだろう。


 いない、と言えばいいだけだった。


 実際。


 さっき自分でそう答えた。


 それなのに。


 どうして、あの瞬間に蛍の顔が浮かんだんだろう。


 悠真はペンを止めた。


 窓の外を見る。


 校庭では、何人かの生徒が走っている。


 いつもの景色。


 何も変わらない。


 なのに。


 自分の中だけが、少し落ち着かなかった。



 ふと。


 昔の記憶が浮かんだ。


「悠真って、好きな子いるの?」


 蛍にそう聞かれたことがある。


 どこだったか。


 帰り道だった気がする。


 夕方だった。


 蛍は前を歩きながら、振り返って笑っていた。


「いないよ」


 悠真は、そう答えた。


「本当に?」


「本当」


「ふーん」


 蛍は少しだけ目を細めた。


「じゃあ、私が誰か好きになったらどうする?」


「……なんで俺に聞くんだよ」


「なんとなく」


 蛍は笑った。


 あのとき。


 悠真は何も考えなかった。


 ただの冗談だと思った。


 だから。


 何も言わなかった。


 何も聞き返さなかった。



 チャイムが鳴った。


 悠真は我に返った。


 先生が黒板を消している。


「ここ、次のテストに出すからな」


 教室に小さなざわめきが起こる。


 悠真はノートに目を戻した。


 けれど。


 もう、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。



 放課後。


 悠真は一人で帰っていた。


 空は夕方の色に変わり始めている。


 校門を出て。


 いつもの道を歩く。


 交差点を渡る。


 コンビニの前を通る。


 その先に。


 自動販売機が見えた。


 青いラムネが並んでいる。


 悠真は足を止めた。


 ガラスの向こうにある青を、しばらく見つめる。


 思い出したのは。


 涙を流した自分ではなかった。


 その隣にいた蛍だった。


 ラムネを持って笑っていた。


 何でもない話をしていた。


 楽しそうに笑っていた。


 悠真は、ふと気づく。


 自分が覚えているのは。


 悲しい記憶だけじゃない。


 蛍と一緒にいた時間のほとんどが。


 今でも、鮮明に残っている。



「……なんでだろうな」


 誰に言うでもなく呟いた。


 答えは返ってこない。


 悠真は自動販売機から目を離す。


 歩き出そうとして。


 また、足を止めた。


 頭の中に浮かんだ。


 蛍が笑っている。


 自分の隣にいる。


 名前を呼ぶ。


 少し近い距離で話す。


 くだらないことで笑う。


 その一つ一つを。


 悠真は、ずっと大切にしていた。


 それがただの友情だったのなら。


 どうして今でも、こんなにも鮮明なんだろう。


 悠真は少しだけ俯いた。


「……俺」


 声が小さくなる。


「蛍のこと……」


 そこから先が言えない。


 けれど。


 もう、分かっていた。


 悠真は目を閉じる。


 そして。


「……好きだったんだな」


 静かな声だった。



 言葉にした瞬間。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 けれど。


 昨日までの痛みとは違っていた。


 悲しいだけじゃない。


 懐かしい。


 寂しい。


 少しだけ恥ずかしい。


 そして。


 ほんの少しだけ、温かい。


 そんな感情が一緒になっていた。


 悠真は小さく笑った。


「……遅すぎるだろ」


 夕方の風が吹く。


 悠真は空を見上げた。


 返事をしてくれる人はいない。


 それでも。


 今まで言えなかった言葉を、ようやく自分自身には言えた気がした。



 夜。


 悠真の部屋。


 机の上には、一枚の写真が置かれている。


 悠真は椅子に座り、写真を手に取った。


 蛍が笑っている。


 その隣に、自分がいる。


 写真の中の二人は。


 何も知らない。


 この時間が終わることも。


 いつか、離れてしまうことも。


 ただ。


 その瞬間を楽しんでいる。


 悠真は写真を見つめた。


「……蛍」


 静かな部屋。


 返事はない。


 それでも。


 今日は、少しだけ話したかった。


「俺さ」


 言葉を探す。


「ずっと、分かってなかった」


 写真の中の蛍を見る。


「なんで、こんなにお前のこと覚えてるんだろうって」


 少し笑う。


「なんで、いなくなってからも……こんなに考えるんだろうって」


 悠真は写真を握りしめる。


 そして。


 小さく息を吐いた。


「……好きだったんだな」


 今度は、泣かなかった。



 写真を机に戻す。


 悠真は椅子にもたれた。


 しばらく天井を見つめる。


 今日まで。


 自分は、悲しみばかりを見ていた。


 失ったこと。


 戻れないこと。


 言えなかったこと。


 でも。


 それだけじゃなかった。


 蛍と過ごした時間には。


 ちゃんと楽しかった瞬間があった。


 嬉しかった瞬間があった。


 胸が高鳴った瞬間も。


 きっと、あった。


 ただ。


 そのときの自分は。


 それを特別なものだとは思っていなかった。


 隣にいることが当たり前だったから。


 明日も会えると思っていたから。


 また話せると思っていたから。


 だから。


 気づかなかった。


 その時間が。


 自分にとって、どれほど大切だったのか。



 悠真はベッドに横になった。


 目を閉じる。


 蛍の笑顔が浮かぶ。


 今度は。


 無理に消そうとはしなかった。


 胸は少し痛い。


 けれど。


 その痛みを抱えたままでも、眠れそうな気がした。


 今日。


 自分の気持ちに、初めてちゃんと名前をつけた。


 それだけだった。


 何かが変わったわけじゃない。


 過去が戻るわけでもない。


 それでも。


 少しだけ。


 蛍との時間を、違う形で見られるようになった気がした。


 悠真は目を閉じた。


「……おやすみ、蛍」



 部屋の明かりが消える。


 窓の外には、静かな夜が広がっていた。


 夏は、まだ終わっていない。


 そして。


 あの夏に置いてきた気持ちも。


 まだ、悠真の中に残っていた。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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