表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/24

第十七話 伝えたかった

 それから、少し時間が経った。


 朝の空気には、ほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。


 夏の暑さはまだ残っている。


 けれど、家を出たときに頬を撫でる風は、以前より少しだけ涼しかった。


 悠真はいつもの道を歩いていた。


 駅へ向かう人。


 信号を待つ学生。


 道路を走っていく車。


 何も変わらない朝。


 それでも。


 以前とは、少しだけ違う気持ちで歩いていた。


 蛍のことを思い出しても、もう無理に別のことを考えようとはしない。


 思い出したなら。


 そのまま少しだけ、思い出してみる。


 それでいい。


 そう思えるようになっていた。



 教室に入る。


「おはよう」


「おう、おはよ」


 いつもの挨拶を交わし、悠真は自分の席に座った。


 鞄を机の横に掛ける。


 窓の外を見る。


 校庭には朝の光が落ちていた。


 しばらくすると、後ろの席から声をかけられた。


「なあ、浅野」


「ん?」


「この前の話なんだけど」


「……まだ覚えてたのかよ」


「そりゃ気になるだろ」


 相手が笑う。


「結局、好きな人いるの?」


 悠真は少し黙った。


 以前なら、きっと「いない」と答えていた。


 けれど。


 今は、その言葉を選べなかった。


「……いたよ」


「え?」


「昔」


「どんな子?」


 悠真は少し考えた。


 頭の中に、蛍の顔が浮かぶ。


 笑った顔。


 少し拗ねた顔。


 何でもないことで笑う声。


 そして。


 自分の名前を呼ぶ声。


「……よく笑う子」


「それだけ?」


「それだけ」


「なんだよ、それ」


 二人で笑った。


 それ以上は聞かれなかった。


 悠真は前を向く。


 胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


 けれど。


 その痛みから、目を逸らすことはなかった。



 昼休み。


 悠真は弁当を食べ終え、窓際の席で外を眺めていた。


 廊下から、何人かの生徒の話し声が聞こえる。


「今年の夏祭り、楽しかったな」


「来年も行こうぜ」


「いいね」


「絶対な」


 悠真の視線が止まった。


 来年。


 また。


 その言葉が、胸の奥に残った。



 ――夏が終わっても、また会えるよね?


 花火大会の夜。


 夜空いっぱいに花火が上がっていた。


 屋台の明かり。


 遠くから聞こえる笑い声。


 その中で。


 悠真と蛍は並んで座っていた。


「綺麗だね」


「うん」


 大きな花火が夜空に広がる。


 蛍はしばらく空を見上げていた。


 そして。


 ふいに悠真を見る。


「ねえ、悠真」


「ん?」


「夏が終わっても……また会えるよね?」


 悠真は笑った。


「当たり前だろ」


「……そっか」


 蛍も笑った。


 そして。


 また空を見上げた。



 悠真は窓の外へ視線を戻した。


 あのときは。


 何も思わなかった。


 ただの会話だと思っていた。


 でも。


 今になって考えると。


 少しだけ不思議だった。


 どうして、蛍はあんなことを聞いたんだろう。


 学校が始まれば、また会える。


 そんなことは、二人とも分かっていたはずなのに。


 それでも。


 蛍は聞いた。


 悠真は机に頬杖をつく。


「……あのとき、何を考えてたんだろうな」


 誰に聞くわけでもなく呟いた。


 もちろん。


 答えは返ってこない。



 放課後。


 悠真は一人で学校を出た。


 夕方の光が、道路を長く照らしている。


 少し歩いたところで。


 いつもの自動販売機が見えてきた。


 青いラムネが並んでいる。


 悠真は足を止めた。


 以前なら。


 そこを見るだけで、胸の奥が締めつけられていた。


 今も痛い。


 でも。


 今日、最初に浮かんだのは涙ではなかった。


 ラムネを手に持って笑う蛍だった。


「これ、美味しいよ」


「知ってる」


「じゃあ飲んでみて」


「なんで俺が」


「いいから」


 そんな、どうでもいい会話。


 悠真は小さく笑った。


「……本当に、くだらないな」


 でも。


 そのくだらなさが。


 今は、たまらなく大切だった。



 悠真は歩き出した。


 夕方の風が吹いている。


 家へ向かう道を歩きながら。


 ふと、足を止めた。


 頭に浮かんだのは。


 過去に戻りたい、ということではなかった。


 ただ。


 あの頃の自分が、どんな言葉を選べばよかったのか。


 それだけだった。


 もっと特別なことをする必要なんてなかった。


 大げさな言葉も。


 特別な場所も。


 必要なかった。


 ただ。


 自分の気持ちを、そのまま言えばよかった。


 ――伝えたかった。


 それだけが。


 今になって、はっきりと残っていた。



 夜。


 悠真の部屋。


 机の上には、一枚の写真が置かれている。


 悠真は椅子に座り、写真を手に取った。


 蛍が笑っている。


 その隣に、自分がいる。


 写真の中の二人は。


 何も知らない。


 この時間がいつか終わることも。


 未来がどうなるのかも。


 何も知らないまま。


 ただ笑っている。


 悠真は、しばらく写真を見つめていた。



「……蛍」


 返事はない。


 それでも。


 今日は、少しだけ話したかった。


「俺さ」


 言葉を探す。


「ずっと、言えなかったことがある」


 悠真は写真を見る。


「……ちゃんと、伝えたかった」


 少しだけ間を置く。


「もっと早く言えばよかった、って思う」


 そこで言葉を止めた。


 これ以上、自分を責めても意味がない。


 だから。


 最後に一つだけ。


「……ありがとう」


 写真の中の蛍は。


 何も言わずに笑っている。



 悠真は写真を机に戻した。


 静かな部屋。


 時計の針だけが動いている。


 今まで。


 言えなかったことを、ずっと後悔していた。


 でも。


 少しだけ分かった気がする。


 あの頃の自分は。


 明日も会えると思っていた。


 また話せると思っていた。


 だから。


 大切な言葉を、後回しにした。


 それは。


 あの頃の自分にとって、きっと当たり前だった。


 だから。


 もう、自分を責め続ける必要はない。


 ただ。


 忘れないでいたい。


 あの時間を。


 あの笑顔を。


 そして。


 言えなかった言葉を。



 ベッドに横になる。


 目を閉じる。


 また、花火の記憶が浮かんだ。


 夜空。


 蛍の横顔。


 そして。


 あの言葉。


「夏が終わっても……また会えるよね?」


 悠真は、心の中で答えた。


 会えると思っていた。


 ずっと。


 当たり前に。


 だから。


 あのときは、何も考えなかった。



 けれど。


 今になって、一つだけ気になることがある。


 どうして。


 蛍は、あのときあんなことを聞いたんだろう。


 ただ、夏が終わるのが寂しかっただけなのか。


 それとも。


 自分に何かを伝えようとしていたのか。


 悠真は暗い天井を見つめる。


「……分からないな」


 小さく呟いた。



 窓の外。


 夜空には、星がいくつか浮かんでいた。


 夏は、少しずつ終わりへ向かっている。


 けれど。


 あの夏に残された言葉は。


 まだ、悠真の中に残っていた。


 もし。


 あのとき。


 蛍も同じ気持ちだったとしたら。


 その答えだけは。


 まだ、分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ