第十七話 伝えたかった
それから、少し時間が経った。
朝の空気には、ほんの少しだけ秋の気配が混じるようになっていた。
夏の暑さはまだ残っている。
けれど、家を出たときに頬を撫でる風は、以前より少しだけ涼しかった。
悠真はいつもの道を歩いていた。
駅へ向かう人。
信号を待つ学生。
道路を走っていく車。
何も変わらない朝。
それでも。
以前とは、少しだけ違う気持ちで歩いていた。
蛍のことを思い出しても、もう無理に別のことを考えようとはしない。
思い出したなら。
そのまま少しだけ、思い出してみる。
それでいい。
そう思えるようになっていた。
◇
教室に入る。
「おはよう」
「おう、おはよ」
いつもの挨拶を交わし、悠真は自分の席に座った。
鞄を机の横に掛ける。
窓の外を見る。
校庭には朝の光が落ちていた。
しばらくすると、後ろの席から声をかけられた。
「なあ、浅野」
「ん?」
「この前の話なんだけど」
「……まだ覚えてたのかよ」
「そりゃ気になるだろ」
相手が笑う。
「結局、好きな人いるの?」
悠真は少し黙った。
以前なら、きっと「いない」と答えていた。
けれど。
今は、その言葉を選べなかった。
「……いたよ」
「え?」
「昔」
「どんな子?」
悠真は少し考えた。
頭の中に、蛍の顔が浮かぶ。
笑った顔。
少し拗ねた顔。
何でもないことで笑う声。
そして。
自分の名前を呼ぶ声。
「……よく笑う子」
「それだけ?」
「それだけ」
「なんだよ、それ」
二人で笑った。
それ以上は聞かれなかった。
悠真は前を向く。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
けれど。
その痛みから、目を逸らすことはなかった。
◇
昼休み。
悠真は弁当を食べ終え、窓際の席で外を眺めていた。
廊下から、何人かの生徒の話し声が聞こえる。
「今年の夏祭り、楽しかったな」
「来年も行こうぜ」
「いいね」
「絶対な」
悠真の視線が止まった。
来年。
また。
その言葉が、胸の奥に残った。
◇
――夏が終わっても、また会えるよね?
花火大会の夜。
夜空いっぱいに花火が上がっていた。
屋台の明かり。
遠くから聞こえる笑い声。
その中で。
悠真と蛍は並んで座っていた。
「綺麗だね」
「うん」
大きな花火が夜空に広がる。
蛍はしばらく空を見上げていた。
そして。
ふいに悠真を見る。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「夏が終わっても……また会えるよね?」
悠真は笑った。
「当たり前だろ」
「……そっか」
蛍も笑った。
そして。
また空を見上げた。
◇
悠真は窓の外へ視線を戻した。
あのときは。
何も思わなかった。
ただの会話だと思っていた。
でも。
今になって考えると。
少しだけ不思議だった。
どうして、蛍はあんなことを聞いたんだろう。
学校が始まれば、また会える。
そんなことは、二人とも分かっていたはずなのに。
それでも。
蛍は聞いた。
悠真は机に頬杖をつく。
「……あのとき、何を考えてたんだろうな」
誰に聞くわけでもなく呟いた。
もちろん。
答えは返ってこない。
◇
放課後。
悠真は一人で学校を出た。
夕方の光が、道路を長く照らしている。
少し歩いたところで。
いつもの自動販売機が見えてきた。
青いラムネが並んでいる。
悠真は足を止めた。
以前なら。
そこを見るだけで、胸の奥が締めつけられていた。
今も痛い。
でも。
今日、最初に浮かんだのは涙ではなかった。
ラムネを手に持って笑う蛍だった。
「これ、美味しいよ」
「知ってる」
「じゃあ飲んでみて」
「なんで俺が」
「いいから」
そんな、どうでもいい会話。
悠真は小さく笑った。
「……本当に、くだらないな」
でも。
そのくだらなさが。
今は、たまらなく大切だった。
◇
悠真は歩き出した。
夕方の風が吹いている。
家へ向かう道を歩きながら。
ふと、足を止めた。
頭に浮かんだのは。
過去に戻りたい、ということではなかった。
ただ。
あの頃の自分が、どんな言葉を選べばよかったのか。
それだけだった。
もっと特別なことをする必要なんてなかった。
大げさな言葉も。
特別な場所も。
必要なかった。
ただ。
自分の気持ちを、そのまま言えばよかった。
――伝えたかった。
それだけが。
今になって、はっきりと残っていた。
◇
夜。
悠真の部屋。
机の上には、一枚の写真が置かれている。
悠真は椅子に座り、写真を手に取った。
蛍が笑っている。
その隣に、自分がいる。
写真の中の二人は。
何も知らない。
この時間がいつか終わることも。
未来がどうなるのかも。
何も知らないまま。
ただ笑っている。
悠真は、しばらく写真を見つめていた。
◇
「……蛍」
返事はない。
それでも。
今日は、少しだけ話したかった。
「俺さ」
言葉を探す。
「ずっと、言えなかったことがある」
悠真は写真を見る。
「……ちゃんと、伝えたかった」
少しだけ間を置く。
「もっと早く言えばよかった、って思う」
そこで言葉を止めた。
これ以上、自分を責めても意味がない。
だから。
最後に一つだけ。
「……ありがとう」
写真の中の蛍は。
何も言わずに笑っている。
◇
悠真は写真を机に戻した。
静かな部屋。
時計の針だけが動いている。
今まで。
言えなかったことを、ずっと後悔していた。
でも。
少しだけ分かった気がする。
あの頃の自分は。
明日も会えると思っていた。
また話せると思っていた。
だから。
大切な言葉を、後回しにした。
それは。
あの頃の自分にとって、きっと当たり前だった。
だから。
もう、自分を責め続ける必要はない。
ただ。
忘れないでいたい。
あの時間を。
あの笑顔を。
そして。
言えなかった言葉を。
◇
ベッドに横になる。
目を閉じる。
また、花火の記憶が浮かんだ。
夜空。
蛍の横顔。
そして。
あの言葉。
「夏が終わっても……また会えるよね?」
悠真は、心の中で答えた。
会えると思っていた。
ずっと。
当たり前に。
だから。
あのときは、何も考えなかった。
◇
けれど。
今になって、一つだけ気になることがある。
どうして。
蛍は、あのときあんなことを聞いたんだろう。
ただ、夏が終わるのが寂しかっただけなのか。
それとも。
自分に何かを伝えようとしていたのか。
悠真は暗い天井を見つめる。
「……分からないな」
小さく呟いた。
◇
窓の外。
夜空には、星がいくつか浮かんでいた。
夏は、少しずつ終わりへ向かっている。
けれど。
あの夏に残された言葉は。
まだ、悠真の中に残っていた。
もし。
あのとき。
蛍も同じ気持ちだったとしたら。
その答えだけは。
まだ、分からなかった。




