第十八話 もう一度
放課後。
教室に残っている生徒は、もうほとんどいなかった。
窓の外から、運動部の声が聞こえている。
悠真は自分の席に座ったまま、鞄に教科書をしまっていた。
ノート。
教科書。
筆箱。
いつものように一つずつ片づけていく。
最後に、机の中を覗いた。
プリントをまとめようと、奥まで手を伸ばす。
そのとき。
指先に、何かが触れた。
「……ん?」
取り出してみる。
小さく折り畳まれた、一枚の紙だった。
紙の端は少し擦れている。
何度も折ったり開いたりした跡が残っていた。
悠真は眉を寄せる。
自分のものなのは分かる。
けれど。
こんなものを入れた覚えはなかった。
紙を開く。
そこに書かれていた文字を見た瞬間。
悠真の手が止まった。
――夏祭りのあと、また行こう。
「……」
見覚えのある字だった。
自分の字。
そして、その下には。
もう一行だけ書かれていた。
――忘れないこと。
悠真はしばらく、その二行を見つめていた。
◇
どこで書いたものだったか。
最初は思い出せなかった。
けれど。
文字を眺めているうちに、少しずつ記憶の奥から景色が浮かんできた。
去年の夏。
放課後の帰り道。
今より少しだけ暑かった。
蝉の声が響く道を、悠真と蛍は並んで歩いていた。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「今年の夏祭り、行かない?」
「また?」
「またって何」
「去年も行っただろ」
「だから今年も行くの」
蛍は笑っていた。
「夏祭りって、何回行っても楽しいじゃん」
「人、多いぞ」
「じゃあ、嫌なの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ決まり」
「勝手に決めるなよ」
「ふふっ」
蛍は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、約束ね」
「はいはい」
「ちゃんと覚えててよ?」
「覚えてるって」
そんな会話だった。
◇
夏祭りの日。
二人で待ち合わせをして。
屋台を見て回った。
人混みの中ではぐれそうになって。
蛍が悠真の袖を掴んだ。
花火が始まると、二人並んで夜空を見上げた。
帰り道には、ラムネを飲んだ。
そして。
蛍が言った。
「来年も来ようね」
「うん」
悠真は、何も考えずに答えた。
来年も。
また会える。
それは当たり前のことだと思っていた。
◇
帰り際。
蛍が紙を一枚取り出した。
「これ、何?」
「忘れそうだから」
「何を?」
「来年も夏祭りに来ること」
「そんなの忘れないでしょ」
「俺は忘れるかもしれない」
「もう」
蛍は笑った。
悠真は紙に書いた。
――夏祭りのあと、また行こう。
そして。
蛍が、その下に書き足した。
――忘れないこと。
「なんだよ、それ」
「大事だから」
「大げさ」
「大げさじゃないよ」
蛍はそう言った。
◇
悠真は教室に戻った。
手の中の紙を見る。
「……去年の夏」
一年前。
たった一年しか経っていない。
それなのに。
ずいぶん遠い昔のことのように感じた。
◇
悠真は紙を折ろうとした。
けれど。
手が止まる。
――忘れないこと。
この言葉が。
妙に引っかかった。
夏祭りにまた行く。
それだけなら。
わざわざ「忘れないこと」と書く必要なんてない。
もちろん。
それだけの意味だったのかもしれない。
蛍が何を考えていたのか。
今の悠真には分からない。
ただ。
昔なら気にもしなかったことが。
今は少しだけ気になった。
◇
自分は。
あの頃の蛍を。
ちゃんと見ていたんだろうか。
そう思った。
今まで。
思い出すことばかり考えていた。
失ったこと。
言えなかったこと。
後悔したこと。
けれど。
それだけじゃない。
蛍と過ごしていた頃。
自分は何を見ていたのか。
蛍は何を話していたのか。
何を大切にしていたのか。
まだ思い出せていないことがある気がした。
◇
悠真は窓の外を見る。
夕方の光が、校庭を赤く染めていた。
もう帰る時間だった。
紙を鞄にしまう。
そして。
少し迷ったあと。
席を立った。
◇
学校を出る。
いつもの帰り道とは違う方向へ歩いた。
駅とは反対の道。
昔、蛍と歩いた道だった。
交差点を渡る。
細い道へ入る。
記憶の中では。
何度も歩いた道だった。
今は。
一人で歩いている。
◇
途中の自動販売機の前を通った。
青いラムネが並んでいる。
悠真は一瞬だけ足を止めた。
去年の夏。
蛍とここでラムネを買った。
「これ、冷たい」
「当たり前だろ」
「じゃあ、飲んでみて」
「なんで俺が」
「いいから」
そんな。
どうでもいい会話。
悠真は小さく笑った。
「……くだらないな」
けれど。
今は。
そのくだらなさが大切だった。
悠真は自動販売機を離れた。
◇
少し歩くと。
小さな公園が見えてきた。
去年の夏。
二人で何度か立ち寄った場所。
悠真は入口で足を止めた。
遊具。
ベンチ。
木。
どれも、ほとんど変わっていない。
変わったのは。
自分のほうだった。
◇
ベンチに座る。
鞄から紙を取り出した。
もう一度。
そこに書かれた文字を見る。
――夏祭りのあと、また行こう。
――忘れないこと。
悠真は紙を膝の上に置いた。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
しばらく。
何も考えずに座っていた。
◇
すると。
一つの記憶が浮かんだ。
去年の夏。
同じベンチに座っていた蛍。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私といるとき、楽しい?」
「……何それ」
「いいから」
悠真は少し考えた。
「まあ、楽しいけど」
「ほんと?」
「ほんと」
蛍は笑った。
「そっか」
それだけだった。
当時の悠真は。
それ以上、何も考えなかった。
◇
今になって。
その会話が気になった。
どうして。
蛍はそんなことを聞いたんだろう。
普通なら。
わざわざ確認するようなことでもない。
けれど。
だからといって。
それだけで何かを決めつけることもできない。
蛍が何を思っていたのか。
悠真には、もう聞けない。
だから。
今はまだ。
分からないままでいい。
◇
悠真は空を見上げた。
夕方の空。
雲がゆっくり流れている。
去年も。
同じような空を見た。
同じ道を歩いて。
同じ場所に座って。
同じように蛍と話していた。
ただ。
あの頃の自分は。
それが特別な時間だとは思っていなかった。
◇
毎日会えると思っていた。
また話せると思っていた。
また一緒に帰れると思っていた。
だから。
何気ない会話を。
何気ないまま終わらせた。
それが悪かったのか。
それとも。
あの頃の自分にとっては、それが普通だったのか。
悠真には分からない。
◇
ベンチから立ち上がる。
公園を出ようとした。
けれど。
入口で一度だけ振り返る。
誰もいない。
蛍もいない。
当然だった。
それでも。
この場所には。
確かに二人で過ごした時間が残っている。
「……来たよ」
小さく呟く。
少しだけ間を置いて。
「約束、今さらだけど」
悠真は笑った。
「覚えてた」
◇
帰り道。
空は少しずつ暗くなっていた。
悠真は歩きながら考えていた。
ここへ来れば。
何か答えが見つかると思っていたのかもしれない。
けれど。
何も見つからなかった。
蛍の気持ちも。
あの頃の本当の意味も。
まだ分からない。
ただ。
今まで何とも思わなかった言葉が。
少しだけ気になるようになった。
◇
家に着く。
夕食を済ませ。
自分の部屋へ戻る。
机の上に写真を置く。
その隣に。
今日見つけた紙を置いた。
写真の中で。
蛍は笑っている。
紙には。
去年の自分たちの字が残っている。
悠真は二つを並べて眺めた。
◇
「……あのとき」
言葉が止まる。
蛍は。
何を考えていたんだろう。
どうして。
「忘れないこと」と書いたんだろう。
どうして。
あんなことを聞いたんだろう。
そして。
自分は。
どうして何も気づかなかったんだろう。
◇
悠真は写真を手に取る。
蛍の笑顔を見る。
今までなら。
そこに悲しさしか感じなかった。
けれど。
今日は少し違った。
悲しい。
もちろん。
それでも。
知りたいと思った。
あの夏に。
自分が見落としていたものを。
◇
「……まだ、何かあるのかもな」
誰に言うでもなく呟く。
写真を机に戻す。
そして。
紙の最後に書かれた文字を見る。
――忘れないこと。
「うん」
小さく返す。
「忘れないよ」
◇
夜。
ベッドに横になる。
部屋の明かりを消す。
窓の外は静かだった。
悠真は目を閉じる。
すると。
去年の夏の景色が浮かんでくる。
ラムネ。
夏祭り。
花火。
帰り道。
蛍の笑顔。
何でもない会話。
その中に。
まだ自分が気づいていない何かがある気がした。
◇
悠真は目を開けた。
暗い天井を見つめる。
すぐに答えを出す必要はない。
過去を変えることもできない。
それでも。
忘れていたものを。
そのままにしたくはなかった。
だから。
これから少しずつ。
あの頃のことを思い出してみようと思った。
◇
去年の夏。
自分の隣には。
いつも蛍がいた。
その時間が。
当たり前すぎたから。
見えなかったものがあった。
悠真は目を閉じる。
次に思い出すのは。
どんな記憶だろう。
◇
夜は静かに過ぎていく。
夏の終わりは。
少しずつ近づいていた。
けれど。
あの夏に残されたものは。
まだ、すべて思い出されてはいなかった。




