第十九話 夏の帰り道
一年前の夏。
放課後のチャイムが鳴った。
教室の中にいた生徒たちが、一斉に帰り支度を始める。
悠真も鞄に教科書を詰め込み、席を立とうとした。
「悠真、待って」
後ろから声がした。
振り返る。
蛍が、自分の席からこちらを見ている。
「何?」
「今日、暇?」
「暇だけど」
「じゃあ、付き合って」
「……どこに?」
「秘密」
「またそれ?」
蛍は楽しそうに笑った。
「いいから。早く」
「なんだよ」
悠真が鞄を肩に掛ける。
蛍は先に教室を出ていった。
「置いてくなよ」
「悠真が遅いんじゃん」
「お前が勝手に行くからだろ」
「じゃあ、早く来ればいいのに」
「はいはい」
廊下に二人の声が響く。
その頃は。
そんな放課後が、当たり前だった。
◇
校門を出る。
いつもの帰り道とは違う方向へ、蛍は迷うことなく歩いていく。
「なあ」
「なに?」
「どこ行くんだよ」
「まだ秘密」
「ここまで来ても?」
「うん」
「教えてくれてもいいだろ」
「楽しみがなくなるから」
蛍は振り返って笑った。
その笑顔を見て。
悠真は、それ以上聞くのをやめた。
◇
しばらく歩いた先に、小さな店があった。
夏らしい小物やアクセサリーが並んでいる。
蛍は店の前で立ち止まった。
「ここ?」
「うん」
「何買うの?」
「ちょっと見たいだけ」
蛍が店の中へ入っていく。
悠真も後ろからついていった。
店内には、色とりどりの小さなアクセサリーが並んでいる。
蛍は一つずつ手に取って眺めていた。
「これ、かわいい」
「そう?」
「うん」
「じゃあ買えば?」
「うーん……」
蛍は少し迷った。
そして。
棚から二つの小さなアクセサリーを手に取った。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「どっちがいいと思う?」
「俺に聞くの?」
「聞いてるじゃん」
「……こっち」
悠真が片方を指差す。
蛍はしばらくそれを見つめた。
「じゃあ、こっちにする」
「そんな簡単に決めていいの?」
「うん」
「俺が選んだだけだぞ」
「だからいいの」
蛍は笑った。
悠真は少しだけ首を傾げた。
けれど。
そのときは、それ以上考えなかった。
◇
店を出る。
蛍は買ったものを大事そうに袋へ入れた。
「満足した?」
「うん」
「じゃあ帰るか」
「ちょっと待って」
蛍が近くの自動販売機を指差した。
「ラムネ飲みたい」
「また?」
「夏だから」
「理由になってないだろ」
「いいじゃん」
蛍は笑いながら財布を取り出した。
二人でラムネを買う。
瓶を受け取った蛍が、悠真を見る。
「開けて」
「自分で開けろよ」
「お願い」
「……はいはい」
悠真が瓶の栓を開ける。
ビー玉が落ちる。
ころん、と小さな音がした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
蛍が一口飲む。
「冷たい」
「そりゃラムネだからな」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「……なんでもない」
蛍は笑った。
◇
二人は並んで歩き始めた。
夕方の道。
強い日差しが少しずつ傾いている。
手にしたラムネの瓶だけが、冷たかった。
しばらく無言で歩く。
やがて。
蛍が口を開いた。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「来年も、こうして一緒に歩いてるかな」
悠真は蛍を見る。
「……歩いてるだろ」
「……そっか」
蛍はそれだけ言って、前を向いた。
悠真も前を見る。
それ以上、その言葉について考えることはなかった。
◇
少し歩いたところで。
蛍が買った袋を覗き込む。
「見たい?」
「別に」
「じゃあ見せない」
「なんで聞いたんだよ」
「なんとなく」
「変なの」
蛍は笑った。
「じゃあ、まだ秘密」
「好きにしろよ」
蛍は袋を胸元に抱えた。
その表情は。
どこか嬉しそうだった。
◇
しばらくして。
二人は小さな公園に着いた。
ベンチに並んで座る。
蛍はラムネを飲みながら、空を見上げた。
「もうすぐ夏祭りだね」
「そうだな」
「今年も行こうよ」
「去年も行ったじゃん」
「だから?」
蛍が笑う。
「今年も行きたい」
「分かった」
「ほんと?」
「うん」
蛍は満足そうに笑った。
◇
帰る前。
蛍が鞄から一枚の紙を取り出した。
「これ使っていい?」
「何に?」
「約束書くの」
「わざわざ?」
「うん」
悠真は苦笑した。
「忘れないだろ、そんなの」
「……そうかな」
蛍は紙を差し出した。
悠真は少し考えてから、そこに書いた。
――夏祭りのあと、また行こう。
「ほら」
蛍が紙を覗き込む。
そして。
悠真の書いた文字の下に、自分の字で短く書き足した。
――忘れないこと。
悠真は眉を寄せた。
「なんでそれ?」
「大事だから」
「大げさじゃない?」
「大げさじゃないよ」
蛍は紙を丁寧に折った。
そして。
悠真に返す。
「なくさないでね」
「分かったよ」
悠真は紙を鞄の中へしまった。
◇
公園を出る。
夕方の道を二人で歩く。
蛍は鞄から、昼間買ったものを取り出した。
「見たい?」
「結局見せるのかよ」
「うん」
悠真が覗き込む。
昼間、二人で選んだ小さなアクセサリーだった。
「これ?」
「うん」
「気に入った?」
「すごく」
蛍はそれを手のひらに乗せた。
夕日を受けて、小さく光っている。
「これね」
「ん?」
「大事にする」
「アクセサリーなんだから、普通そうだろ」
「そうじゃなくて」
蛍は少しだけ笑った。
「悠真が選んでくれたから」
「……そっか」
悠真は、それだけ答えた。
◇
帰り道。
しばらく二人とも黙って歩いていた。
遠くで自転車のベルが鳴る。
風に揺れた木の葉が、道路に影を落としている。
蛍がふと足を緩めた。
「ねえ」
「ん?」
「悠真は、私のことどう思ってる?」
悠真は足を止めた。
「……どうって?」
「だから」
蛍も立ち止まる。
「どういう人だと思ってる?」
「なんだ、それ」
「いいから答えて」
悠真は少し考えた。
「うるさい」
「ひどい」
「あと、勝手」
「もっとひどい」
蛍が頬を膨らませる。
悠真は笑った。
「でも」
少しだけ間を置く。
「一緒にいると楽しい」
蛍が黙った。
夕日の中で。
その横顔が少しだけ赤く見えた。
「……そっか」
小さな声だった。
「それなら、いいや」
「何が?」
「なんでもない」
蛍は前を向いた。
「帰ろ」
「ああ」
二人はまた歩き出した。
◇
あの頃の悠真は。
その会話の意味を考えなかった。
ただ。
蛍が少し嬉しそうだったことだけは覚えていた。
◇
そして。
今。
◇
悠真は目を開けた。
机の上に置いた写真を見つめる。
部屋は静かだった。
いつの間にか。
あの頃の記憶に入り込んでいたらしい。
悠真はしばらく動かなかった。
◇
来年のこと。
夏祭りのこと。
忘れないこと。
そして。
あの質問。
以前なら。
全部、ただの会話だと思っていた。
今も。
それが何だったのか。
確かなことは分からない。
蛍に直接聞くことはできない。
だから。
勝手に答えを決めるつもりもなかった。
◇
ただ。
一つだけ。
今なら分かる。
あの夏。
蛍と過ごした時間は。
自分が思っていたより。
ずっと大切なものだった。
◇
悠真は写真を手に取った。
そこには。
あの日と同じように笑っている蛍がいる。
「……あのとき」
悠真は小さく呟いた。
「ちゃんと答えてればよかったのかな」
返事はない。
当然だった。
◇
けれど。
不思議と。
前ほど苦しくはなかった。
今すぐ答えを出す必要はない。
ただ。
あの頃の自分が見落としていたものを。
少しずつ拾っていけばいい。
◇
机の上には。
写真と。
あの紙がある。
――夏祭りのあと、また行こう。
――忘れないこと。
悠真は紙を指先でなぞった。
あの夏。
自分の隣には。
いつも蛍がいた。
その時間が。
当たり前すぎたから。
見えなかったものがあった。
◇
窓の外から。
夏の夜の風が入ってくる。
悠真は写真を伏せた。
そして。
静かに目を閉じる。
あの夏の帰り道。
隣を歩いていた蛍の足音を。
今度は。
忘れないように。




