第二十話 言えなかったこと
それから、しばらく経った夜。
悠真は机の前に座っていた。
窓の外は静かだった。
昼間ほどではないけれど、まだ夏の気配が残っている。
少し開けた窓から風が入るたび、机の上に置いた紙の端がわずかに揺れた。
その紙を。
悠真はじっと見つめていた。
――夏祭りのあと、また行こう。
――忘れないこと。
去年の夏。
蛍と一緒に書いた紙だった。
何度も見た。
何度も折った。
それでも。
まだ、見落としていたものがある気がしていた。
◇
悠真は紙を手に取った。
表には、二行だけ。
裏には何もない。
そう思っていた。
けれど。
指が紙の中央に触れたとき。
少しだけ違和感があった。
「……?」
折り目が妙に深い。
何度も同じ場所で折ったせいだと思っていた。
けれど。
指先でなぞると。
そこだけ紙の表面がわずかに荒れている。
悠真は紙を机のライトの下へ移動させた。
角度を変える。
少し傾ける。
何もない。
もう一度。
反対側から光を当てる。
そのときだった。
「……これ」
薄い跡が浮かんだ。
文字。
消されている。
けれど。
完全には消えていない。
◇
悠真は息を止めた。
紙を両手で持ち直す。
ゆっくり読む。
残っていたのは。
――ちゃんと、伝えられたら。
そこまでだった。
続きはない。
途中で終わっている。
「……」
悠真は何も言えなかった。
◇
どうして。
こんな文字が残っているのか。
いつ書いたのか。
どうして消したのか。
分からない。
ただ。
その一行を見た瞬間。
記憶の中から。
一つの場面が浮かび上がった。
◇
あの紙を書いた日の少し前。
去年の夏。
二人で坂道を上った。
夕方だった。
街を見下ろせる小さな場所。
古いベンチ。
蛍はそこで空を眺めていた。
「ここ、好きなんだ」
そう言って。
悠真は。
「何もないけどな」
と返した。
蛍は笑った。
「何もないからいいの」
そのときの笑顔。
悠真は。
今になって思い出していた。
◇
その日。
蛍は少しだけ変だった。
いつもより静かだった。
何かを話そうとして。
途中でやめる。
そんなことが何度かあった。
けれど。
当時の悠真は。
それを気にしなかった。
夏だったから。
暑かったから。
疲れていたから。
きっと。
そんな理由だと思っていた。
◇
帰り道。
蛍が突然。
足を止めた。
「悠真」
「ん?」
蛍は何か言おうとして。
少しだけ黙った。
「……もしさ」
「何?」
「私が、ずっと一緒にいたいって言ったら」
そこで。
言葉が途切れた。
「……どうする?」
悠真は。
少し考えて。
「一緒にいればいいんじゃない?」
そう答えた。
蛍は。
一瞬だけ驚いた顔をして。
それから。
「……そっか」
小さく笑った。
◇
悠真は目を開けた。
机の上には。
今も紙がある。
――ちゃんと、伝えられたら。
あのときの蛍。
そして。
今残っている言葉。
別々のものだと思っていた。
でも。
もしかしたら。
つながっていたのかもしれない。
◇
悠真はすぐに首を振った。
「……決めつけるな」
小さく呟く。
蛍が何を言いたかったのか。
それを。
今の自分が勝手に決めてしまうのは違う。
好きだったのかもしれない。
そうじゃなかったのかもしれない。
もう。
確かめる方法はない。
◇
それでも。
蛍が何かを伝えようとしていた。
そのことだけは。
確かだった。
◇
悠真は。
紙をもう一度折った。
そのとき。
机の横に置いていた古いノートが目に入った。
去年使っていたもの。
何となく。
手に取る。
ページをめくる。
授業のメモ。
落書き。
どうでもいいこと。
その中に。
夏の日付が並んでいる。
◇
悠真は指を止めた。
あの坂に行った日。
ページの端に。
小さな文字が残っている。
――明日、夏祭り。
「……」
悠真はしばらく見つめた。
そうだった。
あの頃。
夏祭りは。
もっと先のことだと思っていた。
だから。
蛍が何度も話していたことも。
特別な意味なんてないと思っていた。
◇
ページをめくる。
そのとき。
一枚の写真が。
ノートの間から滑り落ちた。
床に落ちる。
悠真は拾い上げた。
「……これ」
夕方の街。
坂の上から見た景色。
赤く染まった空。
写真の端には。
蛍が写っている。
こちらを向いていない。
ただ。
遠くを見ている。
◇
悠真は写真を裏返した。
短い文字。
蛍の字だった。
――ここ、好き。
その下に。
日付。
悠真は紙を見る。
そして。
写真を見る。
同じ日付だった。
「……同じ日だ」
それだけ呟いた。
◇
その瞬間。
頭の中で。
あの日の景色が少しだけ鮮明になった。
夕焼け。
坂道。
蛍の声。
そして。
途中で止まった言葉。
――ちゃんと、伝えられたら。
◇
悠真は写真を机の上に置いた。
まだ。
分からない。
この一行が。
何を意味していたのか。
蛍が。
誰に。
何を伝えたかったのか。
全部。
分からない。
◇
それでも。
今までとは違う。
これまでは。
蛍との思い出を。
ただ思い出していただけだった。
楽しかったこと。
悲しかったこと。
最後の時間。
けれど。
今は。
その中に。
まだ見つけていないものがある。
そう思うようになった。
◇
悠真は。
写真を手に取った。
蛍は笑っていない。
ただ。
夕焼けを見ている。
それなのに。
なぜか。
その横顔を見ていると。
蛍が何かを言おうとしているように感じた。
◇
「……何だったんだよ」
悠真は。
小さく呟いた。
返事はない。
当然だった。
◇
以前なら。
ここで。
また自分を責めていた。
どうして気づかなかった。
どうして聞かなかった。
どうして。
でも。
今は。
少しだけ違う。
過去を責めても。
何も変わらない。
だったら。
残っているものを。
一つずつ見ていけばいい。
◇
悠真は引き出しを開けた。
古い写真。
ノート。
夏祭りのチケット。
そして。
蛍からもらった小さなもの。
机の上に。
一つずつ並べていく。
◇
写真。
紙。
アクセサリー。
どれも。
大したものではない。
でも。
全部。
あの夏に。
二人の間にあったものだった。
◇
悠真は。
紙に残った文字を見る。
――ちゃんと、伝えられたら。
続きを。
自分で書くつもりはない。
蛍が言いたかったことを。
勝手に決めるつもりもない。
ただ。
知りたい。
それだけだった。
◇
悠真は。
ノートを閉じた。
そして。
写真を一枚だけ残す。
夕焼けの坂。
蛍の横顔。
あの日。
二人が歩いた場所。
◇
「……もう少しだけ」
悠真は言った。
誰に聞かせるわけでもない。
「ちゃんと探してみる」
◇
窓の外。
風が吹いた。
少し涼しい。
けれど。
まだ夏の匂いがする。
◇
悠真は。
写真を机の上に置いた。
蛍は。
あの夏。
何かを伝えようとしていた。
自分も。
伝えられなかったことがある。
だから。
今度は。
逃げずに。
思い出してみようと思った。
◇
悠真は。
まだ開いていないノートを一冊。
引き出しの奥から取り出した。
表紙には。
去年の夏の日付。
そのノートを。
しばらく見つめる。
そして。
ゆっくりと。
最初のページを開いた。
◇
あの夏には。
まだ。
思い出していないことがある。
それが。
蛍が最後まで言えなかった言葉につながっているのかは。
まだ分からない。
それでも。
悠真は。
ページをめくった。
◇
あの夏の続きを。
探してみるために。




