第二十一話 もう一度、あの場所へ
夜。
部屋の明かりだけが、机の上を照らしていた。
悠真は、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、古い写真だった。
去年の夏。
夏祭りの日に撮った一枚。
花火が上がる少し前。
人の波から少し離れた場所で撮った写真だった。
何度も見たはずの写真。
それなのに。
今日は、いつもと違って見えた。
机の上には、昨日見つけた紙がある。
そこに残っていた文字。
――ちゃんと、伝えられたら。
たった一言。
けれど。
その一言を見つけてから、悠真の中で何かが変わっていた。
◇
写真を閉じる。
今度はメッセージアプリを開いた。
過去のトーク履歴。
ずっと下へ。
指を滑らせる。
今のメッセージ。
少し前のメッセージ。
さらに前。
スクロールするたびに。
忘れていた名前や言葉が画面に現れた。
どうでもいい話。
学校の話。
宿題の話。
暑いという話。
そんなものばかりだった。
けれど。
その中に。
蛍とのやり取りが残っている。
◇
悠真は指を止めた。
蛍。
その名前を見ただけで。
胸の奥が、ほんの少しだけ重くなる。
それでも。
画面を閉じなかった。
前なら。
ここでスマートフォンを伏せていたかもしれない。
今は違う。
ちゃんと見ようと思った。
◇
メッセージを一つずつ遡っていく。
『明日、学校終わったらどうする?』
『特に決めてない』
『じゃあ、ちょっと寄り道しようよ』
『どこ?』
『内緒』
そのあと。
蛍から送られてきた小さなスタンプ。
悠真は、思わず笑った。
「……変わってないな」
あの頃の蛍らしい。
何かを隠して。
でも。
結局すぐに顔に出てしまう。
◇
さらに遡る。
そして。
ある日付のところで。
悠真の指が止まった。
去年の夏。
夏祭りの少し前。
画面には。
蛍からのメッセージが残っていた。
『明日、少しだけ話したいことがある』
◇
「……」
悠真は。
しばらく動かなかった。
何度も。
その文章を読む。
短い。
ただ、それだけ。
でも。
今見ると。
あまりにも意味深に見えた。
◇
その下に。
自分の返信がある。
『分かった』
たったそれだけだった。
◇
悠真は。
画面から目を離した。
「……これだけ?」
自分でも驚いた。
どうして。
もっと聞かなかったんだろう。
何を話すのか。
どうして明日なのか。
どうして「少しだけ」なのか。
何も聞かなかった。
◇
当時の自分にとって。
明日は。
当たり前に来るものだった。
だから。
蛍が何かを言おうとしていても。
その続きを。
聞こうとしなかった。
◇
悠真は。
もう一度画面を見る。
その下には。
蛍からのメッセージが続いていた。
『忘れないでね』
『何を?』
『明日のこと』
そして。
『じゃあ、また明日』
◇
悠真は。
その文字を見つめた。
「……また明日」
小さく口にする。
あの頃。
何度も言っていた言葉。
特別な意味なんてないと思っていた。
今日会った。
だから。
明日も会う。
それだけ。
◇
でも。
今は。
違って見えた。
◇
悠真はスマートフォンを机の上に置いた。
昨日見つけた紙を見る。
――ちゃんと、伝えられたら。
そして。
画面に残った言葉。
――明日、少しだけ話したいことがある。
偶然なのかもしれない。
ただの話だったのかもしれない。
それでも。
あの日の蛍が。
何かを伝えようとしていたことだけは。
少しずつ。
確かなものになっていった。
◇
悠真は。
椅子から立ち上がった。
窓を開ける。
夜風が入ってくる。
昼間の暑さは残っている。
でも。
少しだけ涼しかった。
◇
スマートフォンをもう一度手に取る。
今度は。
写真を開いた。
夏祭りの日。
花火。
人混み。
そして。
蛍。
◇
悠真は。
写真を拡大した。
蛍の横顔。
浴衣の袖。
髪に揺れる小さな飾り。
その向こうに。
ぼんやりとした灯り。
◇
「……」
そこで。
悠真は気づいた。
写真の端。
人の流れの向こうに。
小さな看板が写っている。
見覚えがあった。
◇
去年。
蛍と一緒に歩いた場所。
夏祭りの会場から少し離れたところにある。
小さな公園。
その近くに。
坂道がある。
そして。
その坂の上から。
花火を見ることができた。
◇
悠真は。
写真を閉じた。
そのまま。
机の上に置いていた鍵を手に取る。
◇
時計を見る。
夜の九時を少し過ぎていた。
今から行っても。
何かが見つかるわけじゃない。
それでも。
行ってみたかった。
◇
理由は。
自分でも分からない。
ただ。
あの日の蛍が。
何を考えていたのか。
少しだけ。
知りたかった。
◇
玄関を出る。
夜の街は静かだった。
昼間とは違う道に見える。
コンビニの明かり。
遠くを走る車。
住宅街の窓。
そのどれも。
去年と同じではない。
◇
歩きながら。
悠真は。
スマートフォンを握りしめていた。
画面には。
さっきのメッセージが残っている。
『明日、少しだけ話したいことがある』
◇
もし。
あの日。
ちゃんと聞いていたら。
蛍は。
何を話していたんだろう。
◇
答えは。
分からない。
でも。
今までなら。
そこで考えるのをやめていた。
今は。
その先まで。
考えてみようと思った。
◇
坂道が見えてきた。
悠真は。
足を止めなかった。
そのまま。
ゆっくりと上っていく。
◇
去年。
蛍と歩いた道。
何度も。
くだらない話をした。
暑いと言って。
疲れたと言って。
途中で自動販売機に寄って。
ラムネを買って。
また歩いた。
◇
そんなこと。
本当に。
何でもない時間だった。
でも。
今思えば。
あの時間こそが。
一番大切だったのかもしれない。
◇
坂の上に着く。
ベンチ。
街の明かり。
遠くの建物。
そして。
少しだけ開けた空。
◇
悠真は。
ベンチに座った。
スマートフォンを開く。
写真を表示する。
同じ場所。
同じ景色。
ただ。
写真の中には。
蛍がいる。
◇
「……ここだったんだ」
悠真は。
小さく呟いた。
◇
すると。
記憶が。
少しずつ戻ってきた。
◇
去年の夏。
ここで。
二人で並んでいた。
蛍は。
ずっと街を見ていた。
「きれいだね」
「そう?」
「うん」
「毎日見てる街とそんなに変わらないけど」
「だからいいんじゃない?」
蛍は笑った。
◇
そのあと。
しばらく。
何も話さなかった。
気まずいわけではない。
ただ。
隣にいることが自然だった。
◇
そして。
蛍が突然。
口を開いた。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私といるの、嫌じゃない?」
悠真は。
少し驚いた。
「なんで?」
「なんとなく」
「嫌なら一緒に来てないだろ」
「……そっか」
蛍は笑った。
でも。
その笑顔は。
いつものものより。
少しだけ小さかった。
◇
悠真は。
今になって。
その表情を思い出した。
「……あのとき」
何かを言いかけていた。
でも。
言わなかった。
◇
蛍は。
そのあと。
「明日も晴れるかな」
と聞いた。
「天気予報では晴れ」
「そっか」
「夏祭り、楽しみ?」
「……うん」
蛍は。
少しだけ笑った。
「楽しみ」
◇
悠真は。
目を閉じた。
当時は。
それだけだった。
夏祭りを楽しみにしている。
それだけだと思っていた。
◇
でも。
今なら。
少しだけ分かる。
蛍は。
夏祭りそのものを楽しみにしていたのか。
それとも。
その日に。
何かを伝えることを楽しみにしていたのか。
◇
どちらかは。
分からない。
◇
悠真は。
目を開けた。
「……決めつけるな」
小さく呟く。
蛍が何を考えていたのか。
自分の都合のいいように。
決めることはできない。
◇
それでも。
あの日。
蛍が何かを伝えようとしていた。
その可能性は。
もう。
無視できなくなっていた。
◇
悠真は。
スマートフォンを閉じた。
しばらく。
街を眺める。
夜の街は。
静かだった。
◇
ふと。
ポケットの中に。
小さなものが触れた。
取り出す。
昨日の紙。
そこに残された。
――ちゃんと、伝えられたら。
◇
悠真は。
その文字を見つめた。
そして。
ふと思う。
蛍は。
あの日。
自分と同じように。
怖かったのかもしれない。
◇
言葉にしたら。
今までの関係が変わる。
もし。
同じ気持ちじゃなかったら。
今までみたいには。
いられなくなる。
だから。
言えなかった。
◇
それは。
悠真にも。
覚えがあった。
◇
自分も。
ずっと。
言えなかった。
◇
好きだということ。
大切だということ。
もっと一緒にいたいということ。
どれも。
口にしなかった。
◇
明日があると思っていたから。
◇
悠真は。
苦笑した。
「……似た者同士だったのかもな」
◇
その言葉が。
少しだけ。
悲しかった。
◇
坂道を下りる。
公園の前を通る。
遊具。
ベンチ。
街灯。
去年とほとんど変わっていない。
◇
悠真は。
公園の前で。
少しだけ足を止めた。
ここで。
蛍とラムネを飲んだ。
ここで。
くだらない話をした。
◇
でも。
今日は。
中へ入らなかった。
まだ。
ここで何かを探す必要はないと思った。
◇
必要なのは。
物ではなく。
記憶だった。
◇
悠真は。
歩き出した。
◇
家に帰る。
部屋に戻る。
机の上に。
スマートフォンを置く。
もう一度。
メッセージ画面を開く。
◇
最後の方まで。
ゆっくりスクロールする。
◇
そして。
最後のメッセージ。
『また明日』
◇
悠真は。
その文字を。
しばらく見つめた。
◇
あのときは。
何も思わなかった。
ただ。
また明日。
そう思った。
◇
でも。
今なら。
その言葉の重さが分かる。
◇
明日は。
必ず来るわけじゃない。
約束したからといって。
必ず会えるわけじゃない。
伝えたいと思ったときに。
伝えられるとは限らない。
◇
だから。
もし。
あの夏をやり直せるなら。
もっと早く。
気づきたかった。
◇
でも。
過去には戻れない。
◇
悠真は。
スマートフォンを伏せた。
そして。
机の上に置かれた写真を見る。
蛍が写っている。
花火の光。
笑っている横顔。
◇
「……蛍」
名前を呼ぶ。
それだけで。
胸の奥が少し痛む。
◇
でも。
今日は。
その痛みから。
目を逸らさなかった。
◇
「何を言いたかったんだ?」
返事はない。
それでも。
悠真は。
もう一度。
写真を見る。
◇
蛍は。
あの夏。
何かを伝えようとしていた。
そして。
自分も。
伝えられなかった。
◇
だったら。
せめて。
今度は。
最後まで。
思い出してみよう。
◇
悠真は。
引き出しを開けた。
古いノートを取り出す。
去年の夏。
学校で使っていたもの。
ページをめくる。
◇
授業のメモ。
落書き。
日付。
くだらない記録。
その中に。
夏祭りの前日のページがある。
◇
悠真の指が止まる。
そこには。
自分の字で。
短く書かれていた。
――明日は蛍と行く。
◇
それだけ。
◇
悠真は。
しばらく。
その文字を見ていた。
◇
そして。
そのページの端に。
小さな折り目があることに気づいた。
「……?」
指で開く。
薄い紙が。
ノートの間から滑り落ちた。
◇
悠真は。
それを拾った。
古い紙。
でも。
家の中でずっと挟まっていたものだから。
傷んではいない。
◇
開く。
そこに。
蛍の字があった。
◇
――明日は、ちゃんと言えるかな。
◇
悠真は。
息を止めた。
◇
昨日見つけた言葉。
――ちゃんと、伝えられたら。
そして。
今日見つけた言葉。
――明日は、ちゃんと言えるかな。
◇
二つの言葉を。
机の上に並べる。
◇
悠真は。
しばらく。
何も言わなかった。
◇
それから。
ゆっくり。
椅子に座った。
◇
「……明日」
小さく呟く。
◇
その「明日」が。
どの日だったのか。
もう。
分かっている。
◇
夏祭りの日。
◇
蛍は。
あの日。
何かを言おうとしていた。
◇
でも。
その先は。
まだ。
思い出せない。
◇
悠真は。
二枚の紙を。
そっと重ねた。
◇
そして。
写真をその隣に置いた。
◇
蛍の横顔。
夕焼け。
夏祭り。
そして。
言えなかった言葉。
◇
全部が。
少しずつ。
一つにつながっていく。
◇
悠真は。
スマートフォンを手に取った。
もう一度。
あの夏祭りの写真を開く。
◇
写真の端にある。
小さな看板。
あの日。
二人が向かった場所。
◇
悠真は。
画面を見ながら。
静かに立ち上がった。
◇
「……行ってみるか」
◇
今度は。
思い出すためではない。
あの日。
二人が約束した場所へ。
◇
そこに。
まだ。
自分が忘れている何かがある気がした。
◇
悠真は。
スマートフォンの画面を消した。
部屋の明かりを消す。
◇
暗くなった部屋の中で。
机の上に置かれた写真だけが。
窓から入る月明かりに。
ほんの少しだけ照らされていた。
◇
蛍は。
あの夏。
何を言おうとしていたのか。
◇
その答えを知るために。
悠真は。
あの日の続きを。
もう一度。
辿ることにした。




