↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/24

第二十二話 空白の三時間

 ――去年の夏。


 あの夏祭りの日のことを、俺はずっと覚えていると思っていた。


 祭りの景色も。


 夜空に上がった花火も。


 隣で笑っていた蛍の顔も。


 帰り道に交わした言葉も。


 全部、覚えているつもりだった。


 けれど。


 スマートフォンに残っていた記録を見つけてから、その記憶に一つだけ、おかしなところがあることに気づいた。


 19時42分。


 蛍と一緒に撮った写真。


 その次に残っている記録は――23時18分。


 間は、三時間以上。


 その時間だけが。


 俺の記憶の中から、きれいに抜け落ちていた。


 でも。


 今なら分かる。


 あの三時間は、何もなかった時間なんかじゃない。


 むしろ。


 俺にとって、一番忘れてはいけなかった時間だった。



 19時42分。


 花火が始まる少し前。


 俺と蛍は、祭りの人混みの中にいた。


「すごい人だね」


「去年より多くない?」


「たぶん、同じくらいじゃない?」


「そうかな」


 蛍は周りを見渡した。


 屋台の明かり。


 浴衣姿の人たち。


 遠くから聞こえる太鼓の音。


 夏の夜独特の、少し湿った空気。


 そんなものに囲まれて。


 俺たちは、いつものようにくだらない話をしていた。


「ラムネ飲む?」


 蛍が自動販売機を指差す。


「また?」


「いいじゃん」


「好きだな」


「好きだからいいの」


 蛍は笑った。


 一本買って。


 瓶の口にビー玉を落とす。


 カラン、と小さな音がした。


「悠真も飲む?」


「いらない」


「じゃあ私が飲む」


「最初からそのつもりだっただろ」


「ばれた?」


「ばれるよ」


 蛍が笑う。


 俺も笑った。


 それだけだった。


 本当に、それだけの時間だった。


 今思えば。


 俺が一番大切にしたかったのは、こういう時間だったのかもしれない。



 蛍のスマートフォンが震えた。


 蛍は画面を見た。


 ほんの一瞬だけ。


 その表情が変わった。


「どうした?」


「ううん」


 蛍はスマートフォンを閉じる。


「何でもないよ」


「そう?」


「うん」


 それ以上、俺は聞かなかった。


 蛍も、それ以上は何も言わなかった。


 ただ。


 そのときの蛍は。


 いつもより少しだけ、何かを考えているように見えた。



 そして。


 花火が上がった。


 一発目の音が、夜空に響く。


 人々が一斉に空を見上げる。


 大きな光が夜空に広がって。


 すぐに消える。


 また一発。


 また一発。


「……きれい」


 蛍が呟いた。


「ああ」


 俺も空を見上げていた。


 その横顔を。


 蛍が見ていたことには。


 気づかなかった。



 しばらくして。


 蛍が俺の袖を引いた。


「悠真」


「ん?」


「ちょっと、来て」


「どこ?」


「いいから」


 蛍は人混みの外へ歩き出した。


 俺はその後ろを追った。



 祭りの音が、少しずつ遠くなっていく。


 さっきまで聞こえていた人の声も。


 屋台の呼び声も。


 少しずつ小さくなる。


 代わりに。


 夜の静けさが戻ってきた。


「どこ行くんだよ」


「もう少しだけ」


「また秘密?」


「……うん」


 蛍が振り返る。


 笑っていた。


「今日だけ」


「今日だけって?」


「秘密」


「意味分からない」


「ふふ」


 蛍は笑って、また歩き出した。



 坂道を上る。


 夜風が吹く。


 蛍の髪が揺れる。


 何度か。


 蛍は後ろを振り返った。


「ちゃんといる?」


「いるよ」


「ならよかった」


 それだけ言って。


 また前を向く。



 坂の上には。


 以前にも来たことのある場所があった。


 街を見渡せる。


 遠くには、まだ祭りの明かりが見えていた。


 蛍がベンチに座る。


「覚えてる?」


「覚えてるよ」


「そっか」


 俺も隣に座った。



 しばらく。


 何も話さなかった。


 遠くから聞こえる祭りの音。


 風に揺れる木の葉。


 時々聞こえる車の音。


 それだけだった。


「ねえ」


 蛍が言った。


「ん?」


「今日、楽しかった?」


「うん」


「本当に?」


「本当」


 蛍は少しだけ笑った。


「よかった」


「蛍は?」


「私?」


「うん」


 蛍は少し考えてから。


「楽しかったよ」


 そう答えた。


「すごく」



 その言葉のあと。


 また沈黙が落ちた。


 蛍は夜空を見ていた。


「来年も」


「ん?」


「来年も、こうやって一緒にいられるかな」


 俺は。


 何も考えずに答えた。


「いられるだろ」


「……本当に?」


「うん」


 蛍は少し笑った。


「そっか」


 それから。


 小さな声で。


「約束ね」


「約束」



 そのときの俺は。


 その約束が。


 こんなにも長く残るものになるなんて。


 考えもしなかった。



 蛍が立ち上がった。


「もう一つ、行きたいところがある」


「まだあるの?」


「うん」


「どこ?」


「秘密」


「今日、秘密多すぎない?」


「だって」


 蛍が振り返る。


「今日しかできないことだから」



 その言葉が。


 今でも、耳に残っている。



 二人で坂を下りる。


 祭りの会場とは少し違う道へ進む。


 見覚えのある道だった。


 何度か通ったことがある。


 けれど。


 その夜は。


 いつもより長く感じた。



 小さな公園に着いた。


 明かりは少ない。


 人の気配もない。


 蛍がベンチに座る。


「ここ?」


「うん」


 俺も隣に座った。



 公園は静かだった。


 さっきまでの祭りが。


 まるで別の場所で行われているように感じる。


「静かだね」


「祭りから離れたからな」


「……うん」


 蛍は。


 膝の上で手を握っていた。



「悠真」


「ん?」


「私ね」


 そこで。


 蛍の言葉が止まった。


「何?」


「……まだいい」


「何それ」


「今は言わない」


「気になるんだけど」


「そのうちね」


 蛍は笑った。


 けれど。


 その笑顔は。


 いつもの笑顔とは少し違った。



「今日、どうしたんだよ」


「どうもしないよ」


「絶対何かあるだろ」


「……あるよ」


「じゃあ言えばいいのに」


 蛍は。


 しばらく黙って。


 小さく笑った。


「言えたらね」



 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥に。


 何かが引っかかった。


 どこかで。


 似た言葉を聞いた気がした。


 でも。


 そのときの俺は。


 深く考えなかった。



 二人は。


 そのままベンチに座っていた。


 時間だけが過ぎていく。


 学校の話。


 夏休みの話。


 くだらない話。


 来年の話。


 これからの話。


 何度も。


 話が途切れた。


 それでも。


 どちらも帰ろうとは言わなかった。



「ねえ、悠真」


「ん?」


「私といるとき」


 蛍が。


 少しだけこちらを見る。


「……楽しい?」


「楽しいよ」


 今度は。


 迷わなかった。


 蛍は。


 目を細めた。


「そっか」


 そして。


 ほんの少し。


 安心したように笑った。



 時計を見る。


 かなり遅い。


「そろそろ帰ろうか」


 俺が言う。


 蛍は。


 しばらく考えてから。


「うん」


 立ち上がった。



 公園を出る。


 二人で歩く。


 街灯の下を。


 ゆっくり進む。


 祭りの音は。


 もうほとんど聞こえなかった。



 しばらくして。


 蛍が立ち止まった。


「悠真」


「ん?」


「今日は、ありがとう」


「何で?」


「……いろいろ」


「よく分からない」


「分からなくていいよ」


 蛍は笑った。



 少しだけ。


 蛍が俺の方を見る。


 何かを言おうとして。


 やめる。


 そして。


「また、会えるよね」


「会えるよ」


「……そっか」


 蛍は。


 それだけ言って。


 歩き出した。


 俺も。


 その隣を歩いた。



 ここまで。


 俺は思い出せる。


 でも。


 それだけじゃなかった。



 23時18分。


 スマートフォンに残っている次の記録。


 その時間を見たとき。


 俺は。


 初めて気づいた。


 この間。


 ただ歩いていただけじゃない。



 俺たちは。


 もっと長く。


 一緒にいた。



 どこかで。


 蛍が笑った。


 どこかで。


 俺も笑った。


 何かを話した。


 何かを約束した。


 そして。


 蛍は。


 最後まで。


 何かを伝えようとしていた。



 記憶は。


 まだ完全じゃない。


 でも。


 少しだけ。


 声が聞こえる。



 ――「……一緒に」



 それだけ。


 その先は。


 まだ思い出せない。



 けれど。


 その声を聞いた瞬間。


 俺は分かった。


 蛍が。


 あの日。


 何かを伝えようとしていたことだけは。


 間違いない。



 そして。


 それは。


 前に見つけたあの言葉とも。


 つながっている。


 ――ちゃんと、伝えられたら。



 あのとき。


 俺は。


 その意味を知らなかった。



 今なら。


 少しだけ分かる。


 蛍は。


 あの日。


 何かを伝えたかった。


 でも。


 最後まで。


 言葉にできなかった。



 悠真は。


 机の上に置かれた写真を見る。


 19時42分。


 蛍が笑っている写真。



 そして。


 23時18分。



 三時間以上の空白。



 その時間は。


 空っぽだったわけじゃない。



 むしろ。


 そこには。


 俺が知らなかった。


 蛍との時間が残っていた。



 悠真は。


 写真を指でなぞる。


「……もう少しだ」



 まだ。


 思い出せない。


 最後の言葉。


 最後に交わした会話。


 蛍が。


 あの日。


 何を伝えようとしていたのか。



 でも。


 もう。


 逃げる必要はなかった。



 俺は。


 あの三時間の続きを。


 ちゃんと思い出そうと思った。



 あの日。


 蛍が言えなかった言葉を。


 今度こそ。


 最後まで聞くために。



 そして。


 あの夏に残されたものを。


 もう一度。


 ちゃんと受け取るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。