第二十二話 空白の三時間
――去年の夏。
あの夏祭りの日のことを、俺はずっと覚えていると思っていた。
祭りの景色も。
夜空に上がった花火も。
隣で笑っていた蛍の顔も。
帰り道に交わした言葉も。
全部、覚えているつもりだった。
けれど。
スマートフォンに残っていた記録を見つけてから、その記憶に一つだけ、おかしなところがあることに気づいた。
19時42分。
蛍と一緒に撮った写真。
その次に残っている記録は――23時18分。
間は、三時間以上。
その時間だけが。
俺の記憶の中から、きれいに抜け落ちていた。
でも。
今なら分かる。
あの三時間は、何もなかった時間なんかじゃない。
むしろ。
俺にとって、一番忘れてはいけなかった時間だった。
◇
19時42分。
花火が始まる少し前。
俺と蛍は、祭りの人混みの中にいた。
「すごい人だね」
「去年より多くない?」
「たぶん、同じくらいじゃない?」
「そうかな」
蛍は周りを見渡した。
屋台の明かり。
浴衣姿の人たち。
遠くから聞こえる太鼓の音。
夏の夜独特の、少し湿った空気。
そんなものに囲まれて。
俺たちは、いつものようにくだらない話をしていた。
「ラムネ飲む?」
蛍が自動販売機を指差す。
「また?」
「いいじゃん」
「好きだな」
「好きだからいいの」
蛍は笑った。
一本買って。
瓶の口にビー玉を落とす。
カラン、と小さな音がした。
「悠真も飲む?」
「いらない」
「じゃあ私が飲む」
「最初からそのつもりだっただろ」
「ばれた?」
「ばれるよ」
蛍が笑う。
俺も笑った。
それだけだった。
本当に、それだけの時間だった。
今思えば。
俺が一番大切にしたかったのは、こういう時間だったのかもしれない。
◇
蛍のスマートフォンが震えた。
蛍は画面を見た。
ほんの一瞬だけ。
その表情が変わった。
「どうした?」
「ううん」
蛍はスマートフォンを閉じる。
「何でもないよ」
「そう?」
「うん」
それ以上、俺は聞かなかった。
蛍も、それ以上は何も言わなかった。
ただ。
そのときの蛍は。
いつもより少しだけ、何かを考えているように見えた。
◇
そして。
花火が上がった。
一発目の音が、夜空に響く。
人々が一斉に空を見上げる。
大きな光が夜空に広がって。
すぐに消える。
また一発。
また一発。
「……きれい」
蛍が呟いた。
「ああ」
俺も空を見上げていた。
その横顔を。
蛍が見ていたことには。
気づかなかった。
◇
しばらくして。
蛍が俺の袖を引いた。
「悠真」
「ん?」
「ちょっと、来て」
「どこ?」
「いいから」
蛍は人混みの外へ歩き出した。
俺はその後ろを追った。
◇
祭りの音が、少しずつ遠くなっていく。
さっきまで聞こえていた人の声も。
屋台の呼び声も。
少しずつ小さくなる。
代わりに。
夜の静けさが戻ってきた。
「どこ行くんだよ」
「もう少しだけ」
「また秘密?」
「……うん」
蛍が振り返る。
笑っていた。
「今日だけ」
「今日だけって?」
「秘密」
「意味分からない」
「ふふ」
蛍は笑って、また歩き出した。
◇
坂道を上る。
夜風が吹く。
蛍の髪が揺れる。
何度か。
蛍は後ろを振り返った。
「ちゃんといる?」
「いるよ」
「ならよかった」
それだけ言って。
また前を向く。
◇
坂の上には。
以前にも来たことのある場所があった。
街を見渡せる。
遠くには、まだ祭りの明かりが見えていた。
蛍がベンチに座る。
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
「そっか」
俺も隣に座った。
◇
しばらく。
何も話さなかった。
遠くから聞こえる祭りの音。
風に揺れる木の葉。
時々聞こえる車の音。
それだけだった。
「ねえ」
蛍が言った。
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
蛍は少しだけ笑った。
「よかった」
「蛍は?」
「私?」
「うん」
蛍は少し考えてから。
「楽しかったよ」
そう答えた。
「すごく」
◇
その言葉のあと。
また沈黙が落ちた。
蛍は夜空を見ていた。
「来年も」
「ん?」
「来年も、こうやって一緒にいられるかな」
俺は。
何も考えずに答えた。
「いられるだろ」
「……本当に?」
「うん」
蛍は少し笑った。
「そっか」
それから。
小さな声で。
「約束ね」
「約束」
◇
そのときの俺は。
その約束が。
こんなにも長く残るものになるなんて。
考えもしなかった。
◇
蛍が立ち上がった。
「もう一つ、行きたいところがある」
「まだあるの?」
「うん」
「どこ?」
「秘密」
「今日、秘密多すぎない?」
「だって」
蛍が振り返る。
「今日しかできないことだから」
◇
その言葉が。
今でも、耳に残っている。
◇
二人で坂を下りる。
祭りの会場とは少し違う道へ進む。
見覚えのある道だった。
何度か通ったことがある。
けれど。
その夜は。
いつもより長く感じた。
◇
小さな公園に着いた。
明かりは少ない。
人の気配もない。
蛍がベンチに座る。
「ここ?」
「うん」
俺も隣に座った。
◇
公園は静かだった。
さっきまでの祭りが。
まるで別の場所で行われているように感じる。
「静かだね」
「祭りから離れたからな」
「……うん」
蛍は。
膝の上で手を握っていた。
◇
「悠真」
「ん?」
「私ね」
そこで。
蛍の言葉が止まった。
「何?」
「……まだいい」
「何それ」
「今は言わない」
「気になるんだけど」
「そのうちね」
蛍は笑った。
けれど。
その笑顔は。
いつもの笑顔とは少し違った。
◇
「今日、どうしたんだよ」
「どうもしないよ」
「絶対何かあるだろ」
「……あるよ」
「じゃあ言えばいいのに」
蛍は。
しばらく黙って。
小さく笑った。
「言えたらね」
◇
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に。
何かが引っかかった。
どこかで。
似た言葉を聞いた気がした。
でも。
そのときの俺は。
深く考えなかった。
◇
二人は。
そのままベンチに座っていた。
時間だけが過ぎていく。
学校の話。
夏休みの話。
くだらない話。
来年の話。
これからの話。
何度も。
話が途切れた。
それでも。
どちらも帰ろうとは言わなかった。
◇
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私といるとき」
蛍が。
少しだけこちらを見る。
「……楽しい?」
「楽しいよ」
今度は。
迷わなかった。
蛍は。
目を細めた。
「そっか」
そして。
ほんの少し。
安心したように笑った。
◇
時計を見る。
かなり遅い。
「そろそろ帰ろうか」
俺が言う。
蛍は。
しばらく考えてから。
「うん」
立ち上がった。
◇
公園を出る。
二人で歩く。
街灯の下を。
ゆっくり進む。
祭りの音は。
もうほとんど聞こえなかった。
◇
しばらくして。
蛍が立ち止まった。
「悠真」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「何で?」
「……いろいろ」
「よく分からない」
「分からなくていいよ」
蛍は笑った。
◇
少しだけ。
蛍が俺の方を見る。
何かを言おうとして。
やめる。
そして。
「また、会えるよね」
「会えるよ」
「……そっか」
蛍は。
それだけ言って。
歩き出した。
俺も。
その隣を歩いた。
◇
ここまで。
俺は思い出せる。
でも。
それだけじゃなかった。
◇
23時18分。
スマートフォンに残っている次の記録。
その時間を見たとき。
俺は。
初めて気づいた。
この間。
ただ歩いていただけじゃない。
◇
俺たちは。
もっと長く。
一緒にいた。
◇
どこかで。
蛍が笑った。
どこかで。
俺も笑った。
何かを話した。
何かを約束した。
そして。
蛍は。
最後まで。
何かを伝えようとしていた。
◇
記憶は。
まだ完全じゃない。
でも。
少しだけ。
声が聞こえる。
◇
――「……一緒に」
◇
それだけ。
その先は。
まだ思い出せない。
◇
けれど。
その声を聞いた瞬間。
俺は分かった。
蛍が。
あの日。
何かを伝えようとしていたことだけは。
間違いない。
◇
そして。
それは。
前に見つけたあの言葉とも。
つながっている。
――ちゃんと、伝えられたら。
◇
あのとき。
俺は。
その意味を知らなかった。
◇
今なら。
少しだけ分かる。
蛍は。
あの日。
何かを伝えたかった。
でも。
最後まで。
言葉にできなかった。
◇
悠真は。
机の上に置かれた写真を見る。
19時42分。
蛍が笑っている写真。
◇
そして。
23時18分。
◇
三時間以上の空白。
◇
その時間は。
空っぽだったわけじゃない。
◇
むしろ。
そこには。
俺が知らなかった。
蛍との時間が残っていた。
◇
悠真は。
写真を指でなぞる。
「……もう少しだ」
◇
まだ。
思い出せない。
最後の言葉。
最後に交わした会話。
蛍が。
あの日。
何を伝えようとしていたのか。
◇
でも。
もう。
逃げる必要はなかった。
◇
俺は。
あの三時間の続きを。
ちゃんと思い出そうと思った。
◇
あの日。
蛍が言えなかった言葉を。
今度こそ。
最後まで聞くために。
◇
そして。
あの夏に残されたものを。
もう一度。
ちゃんと受け取るために。




