第二十三話 忘れたくなかった
夏祭りの夜を思い出してから、しばらく眠れなかった。
目を閉じるたびに、あの夜の光景が浮かんでくる。
花火。
人の波。
屋台から漂ってくる甘い匂い。
坂道を歩く足音。
そして、隣にいた蛍。
最後に交わした言葉まで、今なら思い出せる。
あのとき、蛍がどんな顔をしていたのか。
どんな声で話していたのか。
俺が何を考えていたのか。
ずっと忘れていたはずの記憶が、少しずつ自分の中に戻ってきていた。
なのに。
どうしても一つだけ、納得できないことがあった。
俺は、蛍を忘れていた。
あれだけ大切な時間を過ごしたのに。
あれだけ近くにいたのに。
どうして一年間、彼女のことを思い出せなかったんだろう。
翌朝。
目を覚ますと、部屋の中には夏の光が差し込んでいた。
枕元に置いていたスマートフォンを手に取る。
画面を開いた瞬間、通知が一つ残っていることに気づいた。
去年のものだった。
日付を確認する。
夏祭りの翌日。
俺はしばらく画面を見つめた。
そこには、蛍からのメッセージが残っていた。
『おはよう』
短い一言だった。
その下には、少し時間を空けて、
『ちゃんと起きた?』
さらに、そのあとに、
『昨日、疲れたよね』
と続いている。
俺は指を止めた。
昨日。
そう書いてある。
蛍にとっては、昨日の出来事だった。
俺にとっても、昨日のことだったはずだ。
なのに。
そのときの俺が、何を思っていたのか。
何を返したのか。
そこだけが、どうしても思い出せなかった。
メッセージの履歴を少し遡る。
夏祭りの前。
『楽しみだね』
『ちゃんと来てよ』
『遅れたら置いてくからね』
そんな何気ないやり取りが続いている。
読み返していると、自然と笑ってしまった。
蛍らしい。
いつも少しだけ強引で。
でも、本当は俺が来るかどうかを気にしていた。
そのことは、今なら分かる。
そして、夏祭りの日。
たくさんの写真。
短いメッセージ。
花火の話。
ラムネの話。
帰り道の話。
最後には、
『また明日』
とある。
俺も、
『うん。また明日』
と返していた。
その画面を見ながら、胸の奥が少し痛んだ。
俺たちは、本当に「また明日」と言って別れた。
それなのに。
その「明日」の先で、俺は蛍を忘れた。
スマートフォンを置く。
ベッドから起き上がり、窓を開ける。
蝉の声が一気に部屋へ入ってきた。
外は、何も変わらない夏だった。
去年も。
今年も。
夏になると同じように蝉が鳴いている。
俺は窓辺に立ったまま、しばらく外を眺めた。
そして、ふと机の端に置いてある小さな箱に目が止まった。
去年の夏祭りから、ずっとしまっていたものだった。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、小さな飾り。
祭りの日、蛍と一緒に選んだものだった。
それを手に取る。
指先で触れた瞬間、記憶が戻ってくる。
「こっちのほうが似合うよ」
蛍の声。
笑いながら俺に見せてくれた。
あのときの表情まで、今なら覚えている。
「そうかな」
「そうだよ。私が言うんだから間違いない」
「なんだそれ」
「いいの」
そんな会話だった。
本当に、くだらない。
でも。
今となっては、そのくだらなさが嬉しかった。
俺は飾りを掌に乗せたまま、もう一度メッセージを開いた。
夏祭りの翌日。
蛍からのメッセージ。
俺からの返信。
そのはずだった。
けれど。
そこに残っている俺の文章は、妙に短かった。
『うん』
『分かった』
『また今度』
昨日までなら、何も気にしなかったかもしれない。
でも、今は違う。
この時点で俺は、蛍のことを忘れ始めていたんじゃないか。
そう考えると、背中が少し寒くなった。
俺は椅子に座った。
もう一度、最初から読み返す。
蛍は何度も話しかけている。
俺は返事をしている。
でも。
少しずつ、何かがおかしくなっている。
文章が短くなる。
会話が続かなくなる。
蛍のほうが何度も話題を作ろうとしている。
『昨日の写真、見た?』
『また一緒に行きたいね』
『来年も行こう』
そして。
『今日はどうしたの?』
そのメッセージのあと。
少し長い空白がある。
俺は画面を見つめた。
その時間に何があったのか。
思い出そうとする。
頭の奥に、薄い霧がかかる。
そのとき。
ほんの一瞬だけ。
何かが浮かんだ。
白い天井。
机。
スマートフォン。
自分の手。
そして、蛍の名前。
「……蛍」
名前を口にする。
その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
もう一度、目を閉じる。
今度は少しだけ先へ進めた。
スマートフォンを握っている。
画面には蛍との会話。
俺は何かを打とうとしている。
でも、指が止まっている。
何を書けばいいのか分からない。
蛍に返事をしたい。
そう思っている。
なのに。
蛍という名前を見ても、頭の中に何も浮かばない。
顔が。
声が。
笑い方が。
少しずつ遠くなっていく。
俺は、必死に写真を開いている。
写真の中には蛍がいる。
俺の隣で笑っている。
それなのに。
写真を見ながら、俺は思っている。
――この子は、誰だ?
そこで、記憶が途切れた。
「……っ」
俺は目を開けた。
呼吸が少し乱れている。
掌の中には、さっきの飾りが残っていた。
強く握っていたせいで、手のひらに小さな跡がついている。
俺はしばらく動けなかった。
今の記憶は。
間違いなく、去年のものだった。
そして。
あのときの俺は。
蛍を忘れ始めていた。
単に時間が経ったからじゃない。
興味がなくなったわけでもない。
喧嘩をしたわけでもない。
もっと、別の何かだった。
俺は再びスマートフォンを見る。
メモアプリを開く。
そこに残っている一つの文章。
『彼女を忘れるな』
今まで何度も見た。
でも。
今なら、この言葉がどうして残っているのか分かる。
これは。
誰かが俺に残した言葉じゃない。
去年の俺が。
未来の自分に残した言葉だ。
忘れるな。
彼女を。
あの夏を。
約束を。
俺は、その言葉を見つめた。
そして。
胸の奥から、一つの考えが浮かんだ。
「……忘れたかったんじゃない」
そう呟く。
「忘れたくなかったんだ」
だから。
俺は、この言葉を残した。
蛍のことを忘れないように。
自分が何者だったのかを忘れないように。
あの夏に何があったのかを忘れないように。
なのに。
俺は忘れた。
だったら。
理由があるはずだった。
俺は、飾りを箱に戻した。
蓋を閉じる。
そして、スマートフォンをポケットに入れた。
部屋の中にいると、また記録ばかり追いかけてしまいそうだった。
だから。
靴を履いて外へ出る。
家を出ると、暑さが肌にまとわりついた。
坂道を歩く。
去年、蛍と歩いた道。
何度も通った道なのに。
今年になってから見る景色は、少し違っていた。
途中の自動販売機の前で足を止める。
去年。
蛍がラムネを買った場所だった。
俺は自動販売機を見つめた。
そのときの蛍の声が、自然に蘇る。
「ラムネ、飲む?」
「また?」
「だって夏だよ?」
「理由になってないだろ」
「いいの。夏だから」
思わず笑った。
「……ほんと、くだらないな」
でも。
そのくだらない会話が。
今の俺にとっては、大切だった。
坂道を上る。
公園の前を通る。
ベンチを見る。
ここでも。
蛍と話した。
何気ないことを話して。
笑って。
帰る時間を忘れて。
俺はしばらく、その場所を見つめた。
そして。
ようやく分かった。
俺が忘れたのは。
蛍との思い出だけじゃない。
蛍を大切に思っていた自分自身まで。
忘れてしまっていた。
だから。
今年の夏。
蛍を見ても。
懐かしいという感情だけでは説明できなかった。
ずっと。
何かを思い出せそうだった。
ずっと。
何かを失っていたような気がしていた。
それが。
蛍だった。
俺はベンチに座った。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
しばらく何も考えずに、空を見上げた。
すると。
また、あの日の朝が浮かんだ。
スマートフォン。
蛍の名前。
写真。
そして。
俺の声。
「……ごめん」
何に謝ったのか。
まだ分からない。
でも。
今度は、もう一つだけ思い出した。
そのときの俺は。
泣いていた。
蛍のことを思い出せなくなって。
怖くなって。
それでも忘れたくなくて。
何度も。
何度も。
自分に言っていた。
忘れるな。
忘れるな。
彼女を。
俺は目を開けた。
胸の奥が苦しい。
でも。
前とは違った。
もう、ただ怖いだけじゃない。
そこまで思い出せたなら。
きっと。
あと少しだ。
ただ。
その「あと少し」の先に何があるのか。
俺にはまだ分からない。
夏祭りの三時間は。
もう思い出した。
でも。
その翌日に。
俺の中で何が起きたのか。
どうして蛍を忘れてしまったのか。
そこだけが。
まだ、空白のままだった。
そして。
今年の夏。
蛍が俺を止め続けた理由も。
まだ完全には分からない。
でも。
あの言葉だけは覚えている。
無理に思い出さなくてもいい。
あのときの蛍は。
俺に何かを隠していた。
そのことだけは。
もう疑いようがなかった。
俺は立ち上がった。
夕方の空を見上げる。
去年と同じ夏の空。
けれど。
もう、逃げたくはなかった。
「……待ってて」
小さく呟く。
誰に聞かせるわけでもない。
ただ。
自分自身に言い聞かせるように。
「今度こそ、ちゃんと思い出すから」
俺は坂道を下り始めた。
手の中には何もない。
スマートフォンも、ポケットの中だ。
去年の記録を探すためじゃない。
あの日の自分から逃げないために。
俺は歩いた。
夏祭りの夜は、もう思い出した。
残っているのは、その翌日。
蛍を忘れ始めた、あの日。
そして。
俺が「彼女を忘れるな」と書いた、本当の理由。
そこに。
俺が一年間忘れていた答えがある。
坂道の先に、夕日が沈み始めていた。
俺は一度だけ振り返る。
公園が小さく見える。
去年。
蛍と一緒に歩いた場所。
今は一人だ。
それでも。
もう一人ではないような気がした。
あの夏に残した言葉が。
まだ、自分の中に残っているから。
忘れたくなかった。
その気持ちだけは。
今度こそ。
忘れない。
そして俺は。
まだ思い出せていない、最後の記憶へ向かって歩き出した。




