第二十四話 忘れない約束
目を覚ました瞬間、夏の匂いがした。
蝉の声。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
机の上に置かれた、少し古いスマートフォン。
そして、その隣に残された一枚の紙。
俺はしばらく、それを見つめていた。
何度も見たはずの文字。
何度も意味を考えた言葉。
けれど今は、もう分かる。
俺は紙を手に取った。
「彼女を忘れるな」
去年の俺が残した言葉だった。
どうしてこんなものを書いたのか。
誰に向けた言葉なのか。
なぜ俺は、蛍のことを忘れたのか。
ずっと分からなかった。
いや。
本当は、分かりたくなかっただけなのかもしれない。
俺はゆっくり目を閉じた。
すると、あの日の記憶が戻ってきた。
去年の夏。
夏祭りの夜。
俺と蛍は、いつものように一緒に歩いていた。
屋台を見て。
ラムネを飲んで。
花火を見た。
くだらない話をして。
笑って。
いつまでも、この時間が続くと思っていた。
蛍もそう思っていた。
俺も、そう思っていた。
だから。
あのとき、何が起きるのかなんて考えていなかった。
花火が終わったあと。
人の流れから少し離れた道を、俺たちは歩いていた。
「今年の夏、楽しかったね」
蛍がそう言った。
「まだ終わってないだろ」
「そうだけど」
蛍は笑った。
「来年も、また来ようよ」
「来年?」
「うん」
「気が早すぎない?」
「いいじゃん」
「じゃあ、約束な」
「……うん。約束」
蛍はそう言った。
あのときの俺は、その言葉の重さを知らなかった。
少し先で、人の声がした。
俺がそちらを振り向いた。
その瞬間だった。
「悠真!」
蛍の声。
強く背中を押された。
俺の身体が前に倒れる。
何が起きたのか分からなかった。
ただ。
次の瞬間。
背後から大きな音がした。
振り返る。
蛍が倒れていた。
「……蛍?」
頭が真っ白になった。
俺は駆け寄った。
「蛍!」
何度呼んでも、返事がない。
さっきまで笑っていたのに。
さっきまで隣にいたのに。
どうして。
どうして、こんなことになった。
俺は蛍の手を握った。
指先が、ほんの少し動いた。
「……悠真」
「いる。ここにいるから」
「……よかった」
「何がよかったんだよ」
声が震えていた。
蛍は苦しそうに笑った。
「悠真が……無事で」
「そんなのどうでもいい!」
初めて、蛍に怒鳴った。
「俺より、自分のこと考えろよ!」
蛍は何も言わなかった。
ただ。
俺の手を握り返した。
そのあと。
救急車の音が聞こえた。
人の声がする。
誰かが俺を離そうとする。
それでも俺は、蛍の手を離せなかった。
その光景が。
今になって、はっきりと戻ってきた。
あのときの手。
暗い写真に残っていた手。
俺が何度も夢の中で探していた手。
それは。
蛍の手だった。
俺は目を開けた。
息が苦しい。
胸の奥が締め付けられる。
去年の事故。
蛍は死ななかった。
重い怪我を負った。
長い治療も必要だった。
身体にも、完全には消えない影響が残った。
それでも、生きていた。
だから。
病院で聞いたことも、間違いじゃなかった。
強い精神的衝撃。
そのせいで、記憶の一部を自分自身が閉じ込めてしまった。
俺は蛍を忘れた。
忘れたかったわけじゃない。
忘れなければ。
あの光景を何度も思い出してしまうから。
自分の目の前で倒れた蛍。
握った手。
聞こえなくなっていく声。
その全部から逃げるために。
俺の心は、蛍に関する記憶そのものを閉じ込めた。
だから。
今年、蛍と再び会ったとき。
俺は彼女を知らなかった。
知らないはずなのに。
どこか懐かしかった。
声を聞くたびに。
笑顔を見るたびに。
胸の奥が痛くなった。
蛍は。
全部知っていた。
俺が自分を忘れていること。
去年の事故のこと。
そして。
俺の心が、まだあの夜から完全には戻っていないこと。
それでも。
蛍は俺に何も強要しなかった。
「無理に思い出さなくてもいいよ」
何度もそう言っていた。
あの言葉の意味を。
今なら分かる。
蛍は。
俺に忘れられたことを悲しんでいなかったわけじゃない。
きっと。
苦しかったと思う。
それでも。
俺が苦しむくらいなら。
自分のことを忘れたままでいい。
そう思っていた。
だから。
今年の夏。
俺たちはもう一度、同じ時間を過ごした。
ラムネを飲んだ。
くだらない話をした。
一緒に歩いた。
花火を見た。
去年と同じ場所にも行った。
そして。
俺は少しずつ思い出した。
忘れていたはずの笑顔。
声。
言葉。
約束。
蛍が言った。
「夏が終わっても、また会えるよね?」
あの言葉も。
今なら、その意味が分かる。
去年の夏。
蛍は一度、俺の前からいなくなりかけた。
そして。
今年。
俺はもう一度、蛍と夏を過ごすことができた。
それは。
忘れていた時間を。
もう一度、二人でやり直していたようなものだった。
そして。
8月31日。
俺は。
また同じ場所にいた。
嫌な予感がしていた。
去年と同じような空気。
夏の終わり。
夜の風。
「蛍」
「なに?」
「……帰ろう」
蛍は俺を見た。
少しだけ笑った。
「うん」
そのとき。
俺は思った。
今度こそ。
守らなきゃいけない。
去年。
蛍に守られた。
だから今度は。
俺が蛍を守る。
そう思った。
でも。
間に合わなかった。
「悠真!」
聞き覚えのある声。
身体を押された。
俺が倒れる。
目の前を蛍が横切る。
そして。
また。
俺の目の前で。
蛍が倒れた。
「……蛍?」
時間が止まった。
去年と同じだった。
でも。
違った。
去年は。
蛍は生きていた。
今年は。
俺の手を握る力が。
少しずつ弱くなっていった。
「蛍……」
名前を呼ぶ。
返事がない。
「蛍!」
何度呼んでも。
返事はなかった。
その瞬間。
去年封じ込めた記憶が。
全部、戻ってきた。
夏祭り。
花火。
坂道。
公園。
蛍の笑顔。
握った手。
病院。
目を覚ました朝。
蛍を忘れていた自分。
そして。
今年。
また。
同じように。
蛍が俺を守った。
「……なんで」
声が出なかった。
「なんで、また俺なんだよ……」
返事はなかった。
俺は蛍の手を握った。
去年も。
同じ手を握った。
あのとき。
俺は忘れた。
でも。
今度は違う。
忘れない。
どれだけ痛くても。
どれだけ苦しくても。
この記憶から逃げない。
「……蛍」
涙が止まらなかった。
「俺、全部思い出したよ」
もちろん。
返事はない。
「去年のことも」
「今年のことも」
「約束も」
「全部……」
声が震える。
「だから……もう、忘れない」
それが。
最後の約束だった。
その後。
季節が変わった。
夏が終わった。
蝉の声も。
少しずつ聞こえなくなった。
蛍のいない毎日は。
思っていたより静かだった。
朝起きても。
メッセージは来ない。
学校へ行っても。
隣に蛍はいない。
帰り道を歩いても。
俺の袖を引っ張る人はいない。
それでも。
俺は忘れなかった。
忘れたくなかった。
いや。
もう。
忘れる必要がなかった。
去年の俺は。
忘れることで生き延びた。
今年の俺は。
覚えていることで生きていく。
それが。
俺にできることだった。
ある日の夕方。
俺は一人で公園へ向かった。
あのベンチに座る。
隣には誰もいない。
でも。
不思議と。
寂しいだけではなかった。
蛍と過ごした時間が。
ちゃんとここに残っている気がした。
俺はスマートフォンを開いた。
去年の写真。
今年の写真。
その中で。
蛍が笑っている。
「……ありがとう」
写真の中の蛍は。
何も答えない。
それでも。
俺は話し続けた。
「俺、ちゃんと覚えてる」
「蛍と出会ったこと」
「一緒に過ごしたこと」
「喧嘩したことも」
「笑ったことも」
「夏祭りに行ったことも」
「ラムネを飲んだことも」
「花火を見たことも」
そして。
「好きだったことも」
少しだけ間を置く。
「……今も好きだよ」
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
俺は空を見上げた。
あの日と同じような夏の空は。
もうどこにもない。
それでも。
俺は思う。
夏が終わったから。
全部終わったわけじゃない。
蛍がいなくなったから。
あの時間まで消えたわけじゃない。
忘れてしまった一年間も。
思い出せなかった言葉も。
言えなかった気持ちも。
全部。
俺の中に残っている。
それでいい。
蛍が残してくれたものを。
今度は俺が守る。
忘れない。
この夏を。
この約束を。
そして。
蛍のことを。
俺は立ち上がった。
公園を出る。
あの坂道を下る。
去年の夏。
蛍と歩いた道。
今は一人。
それでも。
歩いていく。
もう。
過去に戻るためじゃない。
過去を抱えたまま。
未来へ進むために。
坂道の途中で。
俺は一度だけ振り返った。
「またな、蛍」
今度は。
泣かなかった。
夏は終わった。
あの夏は。
もう戻ってこない。
だけど。
俺はもう。
あの夏を忘れない。
それが。
俺と蛍の。
最後の約束だった。




