「響鳴の波紋」〜華〜
図書館へと向けペダルを漕ぐ中、太腿の上げ下げに揺れる胃から来るのか、歯も磨いた筈なのに吐き出す空気はバジルの香りで満たされる。
夏を思わせる緑の香りは汗を流せば流すほど、取り込む水分を伴い肥え太り、冷製用の細いパスタの麺がお腹の中で何処まで太くなるのだろうかと不安を持ちつつ、姉の背中を追っていた。
ただ、姉と僕だけではなく、何処かにあの守護霊も付いて来ていると思うと、走っているのか自転車の後ろに乗っているのかも判らないけど、気分はとってもよろしくない。
「姉ちゃん、守護霊って僕の自転車に乗ってたりする?」
問われて振り返った姉が目を細め、首を傾げて応えを返す。
「微妙……」
答えにはなっていない。けど、微妙なんだろうなと理解も出来る。僕の背後で浮いているなら乗っているようにも視える訳だし。
「なら、霊感強い警察官とかが居たら、二人乗りで止められたりするのかなあ?」
自分でも下らない事を言っていると理解はしている。けど、そうでもしてなきゃ怖くて頭が可笑しくなりそうだ。
「そしたら守護霊が守ってくれるんじゃない?」
当事者の僕よりも適当な返しをしてくる姉の無神経さが、僕の心を鍛えているのかもしれない。
今日は少し雲が広がり暑さは残るも日陰の多い急斜角の坂道を選んだからか、直射日光が当たらないだけでも随分と違う。けど、自転車を押して歩く中では尚更に後ろが気にもなる中、鼻を突く。
「うっ! ナニコレ?」
姉の通う中学校を過ぎた辺りで何処かしらの家から流れ込む、甘ったるいヴァニラの香りが行く手を塞ぐ。
美味しそうに思えるのは一瞬だけで、アスファルトに溶け落ちたソフトクリームの放つ臭いと等しく、纏わりつくような臭気で吐き気が来る。
「お菓子作ったことない人が、これ見よがしにやるやつだね」
“私はお菓子作りをしている可愛い女”、そんな印象創りに精を出す女の人がやりがちな失敗例の一つらしい。食べるとヴァニラのヤバい匂いが鼻と口から離れなくなると言う。
「あ、本当だ。バジルが負けた……」
姉の顔が一瞬ムッとしたけど、同類扱いするなと言う意味なのは解っている。
バジルの茂みの中を彷徨い続けていた筈なのに、気付けばソフトクリーム売り場の裏手に抜け出たような、爽やかさが一つとして無い真夏の観光地を旅行でもしたように、僕の鼻は曲がりも直進するも高度を上げても丘上程度に、高原ならぬ畑道に吹く土の匂いを残す風に安堵していた。
図書館に着いていつも通りに手や顔やを洗う中、中庭の窓からテーブル席に座る家野君を見付け、中で声をかけようと考え向かおうとしたが、向かいの席に座る女子の後ろ姿に足を止めた。
黄色い花の髪飾り、あれって鬼頭さんの。
「あ、五人目って……」
僕の背後に居るだろう守護霊は、守るべき対象が目の前に居るのに、僕の背後で鬼頭さんの何を守ろうと言うのだろうか。
いや、鬼頭さんを守る役目を家野君に任せたという事か。
だからといって、僕は鬼頭さんが怯える原因を放棄する気もないし、ストーカーばりに背後で張り憑き警告までして来た守護霊を寺へ帰すのは、僕の役目だ。
まあ、正確に言えば姉頼りな訳だけど……
友達として応援したい気持ちが僕の恐れを振り払っているのか、途端に守護霊の恐さも半減している。
二人を見てない素振りでエントランスへと向かい、冷風に涼む僕を姉はチラチラとして見ては、虚ろな視線で何か言いたそうな顔をしていて気にかかるけど、訊くのも億劫に感じてしまう。
「何?」
「大丈夫?」
「何が?」
まさか、姉は僕が鬼頭さんを好きだと思っているのか、家野君に好意を寄せる様を見て、僕が失恋に打ちのめされているとか、そんな事考えてないよね?
「悟の事、守護霊めっちゃ抱きしめてるし……」
「……はあ?」
そうだった。恋愛無知の姉に失恋云々とか、その手の高尚な話を浮かべる訳がないじゃないか!
いや待て、抱きしめてるって、あの腐敗して醜悪な顔した思念体が僕に纏わり憑いてるって事か?
「えええっ?」
と、自身を見回した所で僕には視えないし、取り祓う事も出来ないんだけど、てか、友達として応援したい気持ちを理解して守護霊が僕を赦して抱きしめているなら……
本末転倒じゃないか!
友達だと認識したら余計纏わり憑いてんじゃん!
「ちょ、どうにかしてよ姉ちゃん」
「無理……」
何その顔、苦手なモノを見るような目で弟を見るなよ。てか、リュックの中に元筆のアレも入っているのに、何で思念体が平然と抱きしめちゃっているのさ!
「あ、何か冷えてきたわ。先行くね」
そうじゃないでしょ!
置いて行かないでよ!
僕だって今は心が冷え切ってるよ!
そんな僕より冷たい事を言ってくれるなよ!
身体はまだ暑いんだよ!
ちょっと、待ってよ……
「シンデンさんは今日いらっしゃいますか?」
受け付けに居る姉の声が冷風の音に隠れて少しだけ聴こえる。本を借りるでもなく、先んじて司書のおばさんに何の用が有るのか、答えもそこに有るのだろう。
身体の汗も落ち着いたからと急ぎ受け付けへ向かう僕と同時に、シンデンさんが奥の扉を開けて出て来た所で、姉が何を訊くのかも聞けそうだ。
シンデンさんは姉を見て直ぐに気付いたのか、挨拶も“あら、”の一言で済ませ、昨日の事で何か有ったのかを確認して来る辺りに親しみを感じる。
けれども、姉の問いは何を言っているのか全く分からない。
「いえ、まあ、あったと言えばあったんですけど。その、シンデンさんの漢字って森田って書くシンデンさんですか?」
シンデンさんの書く漢字とモリタさんが書く漢字にシンデンさんと……何の話だ? シンデンさんも怪訝な表情になっているし、応える声も小さくて、それでも姉は確信を持った瞳で声を小さく更に訊く。
「そうだけど……?」
「やっぱり。町を鎮めた陰陽道の家系ですよね?」
陰陽道、聞いた事はあるけど何で司書のおばさんが陰陽道の家系で、町を沈めるって何の話なのかは全く分からない。けど、シンデンさんの眼が一瞬大きくなったように見えた。まるで隠し事がバレたみたいな。
応えを考えているのか、間を置くシンデンさんの表情は真剣そのもの、姉と僕を交互に見つめて何かの答えに行き着いたのか、姉の問いに思いもよらない問いを返して来た。
「ひょっとして、三上さんの所で習字やってた?」
「はい、習ってました」
シンデンさんが僕を見るから肯きを返すと、上を向いて息を溢して数秒、何を浮かべているのか笑みを見せ、一つ笑って応えを返す。
「私、三上さんと同級生」
「え?」
姉も知らなかったようで、事実を聞かされた姉の反応は、驚いてもいるのに嬉しそうだ。そお、陰陽道の家系かを問われたシンデンさんの眼と同じように姉の眼も一瞬大きくなっていた。
僕も三上先生を知る人と判って安心出来る場所が戻ったような、不思議と心が安らぐ気がして、親しい人が増えた気がする。さっきのシンデンさんの眼も姉や僕と同じなら、シンデンさんの驚きも嬉しさから来たものなのかも知れない。
「て事は、早い話、風水的な何かが可怪しい所を見付けたって事でしょう?」
「そうです。それと、弟に纏わり憑いてる他人の守護霊をお墓に戻して欲しくて」
風水的な何かは知らないけど、僕の背後のコレもシンデンさんに任せれば何とかなると言うなら、願ったり叶ったりだ。
「でも、ウチのお父さん途中で修行辞めちゃってるから、おじいちゃんみたいに巧く出来る保証もないけど、それでも良い?」
「お寺の件が鎮まれば悟……、弟のコレもお墓に帰ると思うんで、出来れば直ぐにでもお願いしたいんですけど……」
お父さんとおじいちゃんに差がある家系、僕と姉にも差があるだけに何だか僕にお願いするみたいで不安になる。
けど、司書のおばさんのお父さんなら、年齢的にも僕の背後に居る守護霊と向き合えそうだ。
そんな軽い感覚で聞いていたのに、このあと僕は寺の闇が重くも罪深い非道なるものだと知る事となる。その上……
「サトル君だっけ、君のはウチの子が祓ってあげるから安心して」
シンデンさんは司書の仕事で六時過ぎまで帰れないから、家に連絡を入れておくね。と住所を渡され、図書館ならではに航空写真で場所を確認。
父親はここから真北に向かい、お寺よりも北に位置する広大な田んぼで作業中だからと、僕の通う小学校からほど近い自宅に夏休みで息子が帰省しているらしく、そっちで待つように言われて今から向かう事となった。
訳だけど、いつから姉と僕に気付いていたのか、振り返り様に声をかけて来たのは家野君で、何してんの? みたいに訊いてきて、自分は暇だから本を借りに来ただけと、あくまでも偶然を装っていて、テーブル席を見れば鬼頭さんも席を離れて何処かに隠れているようだ。
昨日も来たのに僕と姉とオカメを見て逃げ帰った男が、どうして鬼頭さんと向かい合わせに座っておいて。
いや、何だか勘繰りおばさんみたいな思考回路になっている自分に嫌悪を感じて、忘れかけていた背後のソレを浮かべて悪寒が走る。
「僕も姉ちゃんももう出るし、今日も暑いから、ソレここで読んで行けよ」
家野君が手にする本を指して言い放ったそれが、友としての気遣いと理解してくれれば良いなとは思いつつも、上手いこと言えたのかまでは判らない。
けど、家野君は僕に感謝を述べるよりも先に、僕に対して不穏なモノを感じ取ってしまいそうだ。
「ん、おう。て、どうした?」
だって、僕を見る姉の虚ろな視線からして守護霊を喜ばせたのは間違いないし、また僕に抱き憑いてるのかと思うと……
「ほんと、勘弁してくれよ……」
僕が零した台詞に何が? を訊ねる家野君の顔を放置して、エントランスへと向かう僕の背中はさぞかし哀愁に満ちている事だろう。
無論、人によっては“えげつないモノ”を背負っているのが視えるかもだけど……
ここから小学校へ向かう途中には、自転車で行くにも立ち並ぶ団地街の広い歩道や、団地を繋ぐ小径の脇にはドクダミの葉や小さな花が点々としていて、個々にモニュメントが置かれた公園が幾つかある。
モニュメントの名前がそのまま公園の名前になっていると思っていたけど、本当は〇〇第二公園とか〇〇町そよかぜ公園とか、全然違う名前が付いていたりするのを、小径の案内看板で今知った。
「姉ちゃん、キントラ公園って団地西白秋公園って名前なの知ってた?」
「知らない。てか、ハクシュウ以前に何でキントラなのかも判らないし、あれ三毛猫でしょ?」
姉が公園のモニュメントの事を指して言っているのは分かっているけど、猫なのかも怪しく思えるコンクリートで出来た物にペンキを塗っている為、剥げては重ねて塗るだけだからか年代や時々によって異なる動物になっている。
僕が見ているのは三毛猫の色も剥がれて黒く塗り潰された黒猫からだ。姉は高学年までの記憶で言っている。
そういえば、石黒さんが転校して来たのも黒猫になった一昨年だ。家はこの団地の西側の丘を下った辺りにあると聞いた気もするけど、僕の家より少し北なのに一緒に帰った事は一度も無いや。
団地を繋ぐ小径でのんびり走る自転車は風もないのに爽やかで、道端の花草木を間近に感じて気持ちがいい。
喧騒の中を行くプールへの道とは“段違い”だ。
頭に浮かべた駄洒落にオッサン臭さを感じてか、独りイマイチな顔をして漕ぐ団地街。
商店街の一角を抜けて大きな道を渡ると、右手に畑が広がる一本道の私道を北へと進み、畑の途切れを右に入って数十メートル行った北側の家。
「ココじゃない?」
足を止めた姉が見つめる先には、厳格な門構えをした威風堂々たるお屋敷が建っていた。
航空写真では判らない横からの視点は荘厳たるもので、司書のおばさんのイメージとは異なるものの、これが陰陽道の家と言われたなら理解も早い。
表札には【森田】とあり、姉の話していた漢字の謎も今解けた。司書のおばさんは森田と書いて森田と読む訳だ。
姉がインターホンを探す中、道の東側からコンビニ袋を手にした茶髪の男がカレーパンを食べながら近付いて来た。
「え、まさか、三上先生のお弟子さんって、オマエらか?」
高校生か大学生か、どちらとも取れそうな顔をしたヤンキー風の男はそのまま前を向き直して門をくぐり抜け、森田家のお屋敷の中へと入って行く。
え? と、呆気にとられる姉と僕に顔を向けるでもなく、カレーパンを飲み込みモノグサに告げる。
「とっとと入れよ。熱中症になんぞ!」
とてもシンデンさんの息子とは思えないそれが、自転車はソコな! と指差し玄関を開けて家の中まで入るのを見て、ようやく本当に息子だと理解した。
慌てて自転車を持ち上げ門の中へと入れ、玄関へ向かうと姉はすんなり迎え入れたが、茶髪の兄ちゃんは手の平をコチラに向けて制止するから、僕は少し後退りする。
「オマエはココまでだ! とっとと帰れ!」
そう言って僕に近付き、茶髪の兄ちゃんは左手を振り被ると僕の肩からリュックサックを放り投げるかの動作で何かを掴み、右の腕を腰の辺りまで引くと左手で掴んだ何かに喰らわすかに一気に右の掌底を突き出した。
――HAPHOOONN!――
殺られると思って瞬間的に目を瞑っていたけど、僕の身体から何かが抜け落ちたように身体が軽くなるのを感じて、そこで全てを理解した。
守護霊が離開していた。辺りを見回した所で何が視える訳でもない僕には全く以て分からない。でも、姉の『おおおっ!』という顔が分かり易く物語っている
「守護霊、殺しちゃったの?」
いや、守護霊が死んでいるのは解っているけど、言葉の綾的なものであって、咄嗟に出た……言葉の事故だ。
当然のように、僕の台詞に笑う茶髪の兄ちゃんが頭を撫でて馬鹿にする。かと思われたが、茶髪の兄ちゃんは僕に真剣な眼差しを向けて注意喚起に語気を強めた。
「オマエは優し過ぎる! あんなんでも時には人を殺しもするんだ! 気を引き締めろ!」
「……はい。」
まともに怒られるのは久しぶりだけど、筋の通った話なら納得も行く。僕の反省の色が目に見えたのか、茶髪の兄ちゃんがため息一つに気を遣う。
「安心しろ。アレも、死んではいるけど消えてはいないし、殴った所でアイツにとっては痛くも痒くもないんだから、大丈夫だ。な、とにかく中へ入れ」
玄関の中へと入った僕に微笑みを向ける姉も、何だかんだ言っても守護霊に対して警戒はしていたようだ。
玄関の中はデッカイ木をくり抜いたみたいな一枚板が広がる造りは、まるで旅館。
ただ、茶髪の兄ちゃんと姉が話しているのを見ていると、キヨ兄の危機に思えて来るのは、僕がキヨ兄に肩入れしているからだと解ってはいるけど……
〈今すぐ来ないと取られるぞ……〉
僕は心の中でキヨ兄を呼んでいた。




