「響鳴の波紋」〜喰〜
いつの間にかベッドの上で座ったまま眠っていたようだ。視界の右では姉が机のノートパソコンに向かって何かを調べているのか、デスクライトの明かりが端から漏れている。
夕食の後で寝ようとしたけど、姉の余計な一言で思い出したアレが気になり眠れず、漫画を読んで寝転んでいた筈なのに、今は部屋の明かりも消されているけど時間はそれほど経っているとは思えない。
でも、どうして僕は背中を壁に付けているのだろうか?
マズい!
と、思うも身体が疲れているのか動きが鈍く、腕から足からやたらと重くて筋肉に力が入らない。
座っているのに、これじゃあまるで金縛りだ。
いや、これは金縛りそのものかもしれない。
そお理解した次の瞬間、壁伝いに背後から迫り来る悍ましい何かを僕の背中は感じ取っているのに、身体を壁から離す事も出来ずに焦るばかりで、力んだ肩周りが硬直し始めたせいで震えが止まらず歯も鳴り出した。
姉は近くに居るのに喉元が力み声も出せずで、左肩に何かが触れたと感じれば、左頬には陰気な湿りを含んだ冷気が流れ込む。
漏れ出すような息遣いを感じて尚も、耳はカタカタと鳴る歯の音よりも高鳴りを上げて行く心臓の音で溢れ、今にも破裂してしまいそうだ。
左耳に触れそうな距離で壁から抜け出た何かを視界に捕らえ、腐敗で損壊したのか元は顔かも判らない得体の知れない醜悪なるモノがゆっくりとコチラへ向きを変えつつ、深く深く息を吸い込むような音を間近に聴かせる。
――COOOOOOOOOOOOOO――
破裂しそうな鼓動の高鳴りがピークに達した次の瞬間、鼓動も歯鳴りも全ての音が消え失せ、まるで時を止めたような無音の世界に包まれた。
喰われた訳ではないんだろうけど、アレに飲み込まれたみたいで気味が悪い。
だが、ソレは静寂に留まる全てを破壊するかに、腹の底から一気に吐き出すような唸りを上げた。
――GUUURUNA!――
苛烈な咆哮の中に聞こえた言葉のようなそれが『来るな!』と言ったように思えてならず、え? と、恐怖の中にも思考を巡らした途端に身体の縛りが全て解け、直ぐに首を振って確認するが脇にも後ろにも何も居ない。
助けを求めようと机を見るが、姉の姿も消えていた。
心臓の高鳴りは今も残るが、大量の冷や汗がクーラーで冷やされ妙な湿度を伴ってもいて、半分寝ていたような現実離れしたそれは、夢を見ていた訳でも、寝惚けていた訳でもない。
どうして座っているのかを思い出せないけど、ベッドで壁にもたれる僕の視界は開かれていたのだから、アレは間違いなく現実に起きていた。
――KACHA――
ドアノブの音に焦り振り返る。と、姉はキッチンに行っていたのか氷を喰みながら部屋に戻って来たが、僕の瞳に恐怖の香りを感じ取り、心配そうな声で訊ねて来る。
「どうしたん?」
「……出た」
「え、入って来たの?」
まるで『どうやって?』と、侵入方法を訊くような姉の問いかけに応え方が解らなくなるけど、伝えるべきはそこじゃない。
「『来るな!』って、言われた気がするんだけど……」
言葉にしてみると、それが何処へかも誰にかも分からないと今更に気付かされるが、そもそも今のは本当に門の外に居るアレなのかも判らないし、アレが言うなら寺だろうけど、アレじゃないなら……
「ふむ、『来るな!』か……」
顎に手を置き姉はノートパソコンに視線を向けて数秒、視線を逆へと向けて何を考え始めたのか眉間に親指を当て下を向く。
時計を見れば夜の十一時を回った所で眠るか起きるかを選ぶ事すら適わない、何とも中途半端な時間に目覚めたようで、直ぐにベッドで横にならなければ眠る事すら出来なくなりそうだ。
今は不思議と壁から脅威を感じない。どちらかと言えば今夜はもう出ないような気までする。それが何故かは分からないのが姉やオカメとの違いなのだろう。
「……見当違い、か?」
姉の呟きが何処に入る言葉なのかも判らないけど、僕には守護霊の部分としか思えない。姉が寺で言っていたモノが気になり、夕食の前に一つだけと、ネットで調べて読んでいた内容が頭を過ぎる。
【霊鬼、死んで尚も人の魂が恨みを忘れず鬼と化したモノ】
どうして僕がそんなモノから恨みを買ったのかも判らないけど、僕達が清め塩でしたように寺で霊鬼から門前払いを受けていたとすれば、お互い様とは思わないが納得は出来てしまう。
踏み込む必要のない所に足を突っ込んでいるという自覚があるだけに、守護霊なのか霊鬼なのか、それ以前の問題が多過ぎて答えに行き着く気がしない。
「まあ警告って事なら、行くしかないか!」
「何でだよ!」
姉の思考回路が性質の悪いヤンキーと変わらない。何だか見習ってはイケない気がして来るけど、多分オカメが居たなら『そうですわ! 参りましょう』とか何とか言って、おだて上手に乗り気を見せていそうだ。
て、明日は図書館に行くだけじゃなかったのか? 姉の言い草からして最初から寺に行く予定だったようにしか思えない辺りに、僕の不幸は確定を迎える。
逃れようのない確定事項はさておき、せめてもの救いに確認しておく。
「姉ちゃん、僕がいつから寝てたか判る?」
「いつからも何も、夕飯食べて直ぐに寝るって言ってベッドで横になってたじゃん」
いや、そもそもの記憶が異なっていて僕の中で夢と現実の境界線が広がって行く。いつから座っていたのかを問おうとしたのに、漫画を読んでいた記憶さえもが消し去られ、何処からが僕の現実なのかも判らない。
でも、言われてみると読んでいた漫画が何かも思い出せない事自体が偽物の記憶と理解も出来る。そもそも寝転んで漫画を読んでいる僕の姿を僕が傍目にしている記憶は明らかに可笑しい。
つまりは、姉の記憶が正しいって事になる。
なら、いつから僕は座っていたのか。それを問おうとした矢先に姉から告げられた話で全てを理解した。
「急にモソモソと起き上がるからトイレかと思ってさ、長いとヤダから先に行って、帰ってみたら怖い顔してるし、漏らしちゃったのかと思ったよ」
「いや、漏らしてないから……」
どうやら僕は無意識の内に座らされていたと気付いて尚も驚きはない。頭の何処かでそれを理解していたのかも知れないが、何よりも霊鬼と思しきモノに壁際へと誘われていたような妙な感覚を思い出していたからだ。
あれが来るなと言う警告であるなら、今夜はもう用済み、そんな気がしていたからアレは来ないと思えて姉との会話も漫ろに眠りに着いていたのだろう。
気付けば朝の七時を迎えていた。
「悟、アレまだ外に居るから安心して」
「え? いや、安心て……」
意図を問わずにはいられない姉の台詞にも寝ぼけた頭が回っていないと理解はしたが、住宅街の路地を出勤の自転車や車が走り抜けて行く中、恨み晴らさでおくべきかを云う霊鬼が朝陽の下で彷徨く様を、頭に描いてはみたものの……
ワケがワカラナイにも程がある。
朝から何を調べていたのか姉のテンションは昨夜と変わらず、寺の闇へと向けて前向きだ。いや、先ずは昼に図書館へ行くんじゃなかったのか?
図書館へ行くにもまだ早い今には姉の調べもネットの情報になるのだろう。両親が出勤するまでを手伝っていた姉が、僕の朝食まで用意しているこの状況に、過去の記憶が僕に危険と知らせて来る。
「図書館の開館まで時間もあるし、先に」
「お寺に行こうなんて言わないよね?」
お陰でハッキリと目が覚めた。アレを連れてイキナリお寺なんていくら何でも横暴が過ぎる。
いや、別に馴れを必要としている訳ではないけれど、アレを伴って図書館へ行くだけでも憂鬱に感じていると言うのに、イキナリお寺なんてあり得ない。
「うん、言わないよ。あの後色々調べてみたら、お寺に行かないでも済むかもだって気付いてさ。まあ当たっていれば、だけどね……」
よく分からないけど、行かなくて済むならそれに越したことはない。でも、守護霊だか霊鬼だか判らないけどアレを寺に帰すんじゃなかったのか?
「なら、アレは?」
「守護霊の事?」
肯く僕にニンマリとして肯きを返して来る姉に言葉はなく、余程の自信があるのかも知らないけど悪い笑みを浮かべているのが気にかかる。
「ふふん、それは後のお楽しみ!」
昨夜も聞いた気がするその台詞に不穏な空気を感じてか、溜め息を漏らす僕の顔は下を向き、姉の用意してくれた朝食に箸を伸ばして、だし巻き玉子かオムレツなのかも判らない枝豆とかツナとか色々入った卵の何かを口にした。
「姉ちゃん、これケチャップかけていい?」
ムッとした顔を少しだけ見せると!何も言わずに山椒とマジソルトをふりかけ、どうぞ! とばかりに皿に手を差し向ける。姉の中でケチャップは無しの方針らしい。ご飯を一口、姉の顔色を窺いながら箸で切り分け口へと放る。
「あ、有りかも」
「美味いって言え!」
僕の頭を叩いて部屋へと戻る姉の背中に感謝を述べて、僕はゆっくりとゆっくりと噛み締めて、食事の時間を引き延ばす。
部屋に戻れば姉の謎解きタイムが待っていると知ればこそ、姉にも霊鬼にも奪うことの出来ない僕の至福の時間はここにしかないのだ!
「……ごちそうさまでした。」
口惜しくも短い至福を味わい食器を流しに、覚悟を決めて部屋へと戻り、姉の見解を伺う事にした。
「で、アレが何か分かったの?」
「ん? アレは守護霊だって言ったじゃん」
姉が見当違いと呟いていたあれは守護霊の事ではないらしい。
「でも、『来るな!』って……」
「ああ、それは多分……て、そういえば、お寺の前でクラクション鳴らされた後、悟は何か見なかった?」
姉は唐突に話を変えたが、まさにその守護霊を見たのがその時だ。けど、僕が訊くべき話を姉に問われた不思議は、僕に訊ねた何かを姉も見たという事なのか、だとすれば守護霊ではなく、あの透明な何か。
「うん、見た。クラクションで耳が可笑しくなったみたいで目を開けたら門を向いててさ。サイレンみたいのが鳴ったら鬼頭さんの足下で塀にかかった影が動いた気がして、声をかけようとしたんだけど……」
昨日、寺の門前で僕に起きた事を詳細に語ってみると、姉は「え?」と、知らなかった程度に少しだけ驚いてみせたが、直ぐに納得の表情へと変わり細かな肯きをして話の続きを促して来る。
姉の言う守護霊に首を掴まれて、それが僕には透明に見えていて、この玉虫色のお守りを掴もうと右手を動かしたら、その透明な何者かは慌てたように手を引っ込めた事、駐車場で鬼頭さんに言われるまで首に痕が付いている事も知らなかったと伝え、その後は姉も知る所。
「透明な……」
姉は椅子の背もたれに腰掛けたまま話を聞いていたが、思い当たる何かを確認しようと椅子を引き、机のノートパソコンに手を伸ばす。
「そっか、だとすると、お寺の敷地が全体的に……」
僕には何も分からないまま謎解きを進める姉だけど、僕の話で引っかかったのは“透明な”の部分だけみたいだ。でもそれって、姉も見た何かに繋がっているという事なのか?
「姉ちゃんも見たの?」
「まあね。コッチは駐車場に大きな壁が見えていたから、てっきり供養塔のあった中庭が関係してるのかと思っていたけど、これでハッキリした!」
聞けば姉とオカメも透明な壁のような囲いが視えていたらしく、それで元の供養塔の場所を確認していたようで、そこは僕の予想通りだったが、あの時点で姉は既に過去の供養塔の存在に気付いていたという事だ。
僕が見た透明な何かが何をハッキリさせたのかは分からないが、姉は続けてオカメについてを語り始めた。
「あのクラクションを鳴らした車、警察車両らしいんだけど……」
後部座席を覗いたオカメが警察のお偉いさんを乗せていると気付き、怒鳴っていたらしく、『庶民いびりに警察官僚が公道でクラクション鳴らしてんじゃないわよ!』と、それを聞いた姉は頭に何故を浮かべていたけど、家を見て全てを理解したと言う。
「オカメの家に何があったの?」
「あの子の親、華道の先生でしょ」
流派とかは知らないけど、華道の家には政治家や企業のお偉いさんやと権力者の娘や花嫁さんが習いに来る事が多くあり、その手の繋がりも深くなる。
家業を継ぐにも修行は厳しく、それが嫌で抜け出す理由に姉を推しとしているのだろうと理解を示すも、姉は自身に付き合っていてはあの子の為にならない。と、決別の覚悟を向けているようだが、僕には普通に姉を慕う信者のようにしか思えない。
「で、何を理解したのさ」
「だってあの子、車の天井が低いから覆面パトカーの可能性が高いとか言うし……」
なるほど、オカルトだけでなくそっち関係にもマニアックな知見を広げていたのか。と、思う僕の知見は狭く、姉曰く、それこそが権力の狭間に居る華道の娘たる知識と言う。
しかも姉は最初、アレはオカメの守護霊で鬼頭さんに嫉妬を向けて僕を捕らえていると思っていたらしく、家を見て道着はココじゃないと理解したと言う。
何とも酷い話だ。
「さて、そろそろお昼を食べて図書館へ行くよ」
さっき食べたばかりの僕に昼飯を食べろと言う食の暴力、暴飲暴食とはこれ如何に。
「なら、何で今日も図書館に行くの?」
「うん、例の檀家と住職がモメてた話に面白い名前が出て来てさ! まあ、行けば分かるよ」
水で戻したパスタの麺に冷蔵庫のバジルソースをスプーン一杯絡めたら、トマトとベーコンにパルメザンチーズを乗せて冷製パスタの完成だ。
「姉ちゃん、冷たいけど重いよ……」
食べる前から色んな意味で、お腹はいっぱいだ。
■あとがき
▶*2
本連載「命を翔ける七日間」に掲載されている内容を含みます。




