「響鳴の波紋」〜気〜
捲った頁も数枚では物語が進む筈もなく、陽色が照らす窓の白は時の流れがそれ程無いと判らせる。
帰って来た鬼頭さんは深緑のハーフ・カーゴパンツと紫のシャツに着替えて、僕達と寺に行く気満々だ。
目を引いていたあの黄色い花の髪留めも外されて、今は青と緑の大きなクリップみたいな髪留めで両脇の髪を耳の上で抑えるだけと、いつもの鬼頭さんの髪型に戻っていた。
家との距離もそれ程ないのに、エントランスで涼む姿と汗で少し濡れた髪、隣から発せられる体温を通じて外の気温を推し計れば、ここから出るのが恐ろしくもなる。
姉のノートから下敷を抜き取り扇いでやると、髪留めから解けた髪の毛先が鼻の穴に入ったようでウザがられ、大丈夫を口にして手さげバッグから取り出した百均だろう手動式ハンディファンを握って回す。
けれども下敷団扇の方が風量多めと気付いてか、風を求めて顔を近付けたファンに髪の毛が絡まり、解こうとして下を向いたら汗が垂れそうになって上を向き、次々と忙しい。
解けず苛立ち温泉に浸かったおっちゃんみたいな深くて長い溜め息を吐き捨てる鬼頭さんの顔は、もう諦めたのか仏頂面で、ハンディファンを髪の毛に付けたまま僕から下敷を奪って扇ぎ始めた。
何だかいつもの鬼頭さんに戻った気がして、僕は声には出さずも笑いが止まらず、デコピンを食らって尚も、痛がりつつも腹から襲い来る笑いを堪えて下を向く。
口を抑えても漏れる僕の息遣いが気になったのか、何をしているのかと姉は本から目を離して前を向き、鬼頭さんの髪の毛に目を落とし、思わぬ不意討ちにブッ! と、吹き出し突っ伏した。
館内に滞留していた空気までもが笑いで吹き飛び、庭に広がる明るい夏空が恋しくなれば、清らかなる外の世界へと心を誘う。
「いっか、とりあえずもう行こう!」
多分、姉も集中が途切れたんだろうけど、行くと聞かされ焦った鬼頭さんは、ファンを外そうと必死に解くも汗が止まらず、遠い目をして天を仰ぐ姿に笑いが再び襲い来る。
見兼ねたオカメがエントランスでやろうと促し腕を引き、読んでいた本を何でか僕に手渡すと、押し切るように早口で説き伏せて来た。
「怪談コーナーの右の棚、下から三段目のオカルト枠、真ん中辺りの赤い背表紙の右隣。よろしく!」
明らかにお願いベースでもなければ指示ですらなく、命令をして去るオカメの背中は何に勝ったか官軍そのもの、遣る瀬無い気持ちに笑いも冷める。
手元に残された本のタイトルは、鼻で笑う処か溜め息が漏れる程のコーナー名など言うまでもないオカルト枠らしいタイトルで、本を開かずとも内容まで解りそうなものだった。
『ミステリーサークルと三日月地区の裏社会』
僕が読んでいた空想科学小説に冷めた視線を向けておいて、これを読んでいたオカメがどうして笑えるものかに腹も立つけど、然した違いも無いと気付けば、オカメの冷めた視線も何となく理解が出来てしまう。
ノートに必要事項を書き終えた姉が席を立ち、僕も気を取り直して本を元の場所へと戻す中、小説を棚に挿し込みハッとし気付く。
僕は何処まで読んだかも覚えてないのに閉じて戻して、今更過ぎて天を仰ぐと鬼頭さんの姿を自分に重ね、少しだけ申し訳なく思えて来るけど、思い出したら笑えてしまう。
エントランスで待つ二人に姉と手を振り近付くと、背後から勢いよく冷風が吹き込み、首筋から背中へと冷やされた身体は熱を求めるも、白くて眩しい外の景色を涼し気に見せて惑わせ、脳が心を誘惑して可怪しな世界に変えて行く。
「暑そう……」
姉は可怪しな世界も正してしまう力を有しているようだが、自動ドアの先ではジリジリと焼き付ける夏の陽射しが敷地を示すタイルの床を照り返し、白銀に輝く灼熱の道に変えては出入口に突き出す庇の影をも踏み進む。
心の準備もなく皆が揃った流れで踏み出すも、自動ドアが開いた途端に熱波が押し寄せ後退り、今一度皆で覚悟を決めてから外界へと向け飛び出すと、熱を持った空気は重さまでもを感じられ、空気の壁があるようにさえ思えて来る中、皆が暑いを言うより早く鬼頭さんの異質な台詞が耳を突く。
「こ、これが、高気圧というものか……」
いや、間違ってはいないんだろうけど、まるで大気の層を押し退けるような動きも含めて、やっぱり何処かオタク気質な鬼頭さんの仕草や言い草に笑ってしまう。
皆が台詞と仕草に笑っている中、司書のシンデンさん(おばさん)があの日と同じように、ドア脇の庇の影から小さな声で手招きしながら外へ出た姉を呼んでいた。
館内や僕達には見えないようにとして五百円玉を三枚渡されたらしく、姉は多過ぎるとでも言っているのか一枚を返そうとするが、シンデンさんは固辞して諭す。
「何処へ行くかは知らないけど、今日もまだ暑いから、少ないけど五人でアイスとジュースでも買って」
耳を傾け五人とは誰の事かに思いを巡らす僕とは対照的に、姉は五人目に目星をつけているのか口を噤んで大きく肯き受け容れる。
「では、お言葉に甘えて……」
いや、甘える前に五人目って誰の事?
何だか姉とシンデンさんの会話は人ならざるモノまで含んでいるようにも聴こえてしまうが、熱を持った空気の層が時折に人の温もりとさえ勘違いさせて来るのがソレに思えて、聞き耳を立てたせいで背後に嫌なモノを感じてしまう。
「行ってきまーす」
「色々と気を付けてね」
はーい。と、皆でシンデンさんに手を振りペダルを漕ぎ出す夏空の下、シンデンさんの言う色々に別の何かを浮かべて背筋を正し、姉を先頭にオカメと鬼頭さんが続くと、僕は最後尾で背後に色々な気を配しつつ追いかけた。
車の多い大きな道を避け、住宅街を網の目に北へと行けば市民プールにも繋がる慣れた道、プールの先を北東へと進み泉公園を目指して、仦毎寺へと向かう予定だ。
とはいえ、住宅街でも抜け道の車が多くて気は抜けない。抜け道だからと速度もかなり出ている上に、狭い道でもお構い無しに脇をギリギリで抜いて行く。
道路交通法令の改正で自転車を悪とする苛烈な報道がされて以降、自転車と見るやいなや威嚇や幅寄せに怒鳴り散らして、走行中の自転車を横から足蹴にして来る人まで居る今では、細街路ですら危険と隣り合わせの状況だ。
自転車に乗っている人に注意を促し気を配してやったんだ! などと、自身の高揚感を求めるだけの“気を付けなさい”は、シンデンさんが言う“気を付けて”とは全くの別物で、道路交通法令にも無い自作のルールブックで他人を縛り付けて来るだけのもの。
車社会を言っては、まるで車に乗っているドライバーまでもが日本の礎を築いているかの偉そな態度で、自転車や歩行者を見下した言動が多く、車に乗らない大人にとっても都合のいいストレス発散の道具としているのは明らかだ。
ましてや女子供が四人ともなれば目につくからか、危険を言えば何でも許されるとでも思っているらしく言いたい放題に嘘の注意をまで促して来て、言った自分に酔い痴れる大人が多過ぎる。
本来のルールが判らなくなるほど有耶無耶に罵倒される事も多くて、注意喚起も何もこんなの本末転倒だろ!
春休みに家野君の家に遊びに行った時、自転車で川へ遊びに行こうと話していたら、弁護士のお父さんが道路交通法令改正の話を持ち出して、僕達の為に色々と教えてくれたんだけど……
そもそも自転車の事故が増えた理由は、元が二十キロ制限の道をまでスクールゾーンに指定して三十キロ制限にしたせいなのは間違いなく、住宅街を抜け道に走る横暴な車を容認したようなもので、その結果として元より住宅街を走る自転車と車の接触事故が増加した。
自転車を免許制にしろと言う人も居るが、免許制の車が歩行者や自転車を轢いていて、免許制になっている車同士の事故は減ってもいない。詰まりは免許制が事故抑止にはならない事を物語っている。
自転車叩きに使われる【元々自転車は車道が基本】と言う話も、その法令が策定された当時は馬車と路面電車と自転車が基本で車は少なく、車幅制限も現代の軽自動車よりも小さくて、電柱も少なく自転車が安心して走れるだけの道幅と自転車走行帯を有していた。
当時の法令に照らして言うなら、車幅を見ても現代の車は全てが違法車両となる上、道路占有率に関係するサイドミラーも当時は禁止だった事など、自転車を取り締まる理由として当時の法令を引き合いに出す時点でお里が知れるというもの。
そもそも横断歩道に在った自転車横断帯が法改正するのに都合が悪いからとコソコソと消しておいて、自転車は歩道を走るなとか、横断歩道は降りて渡れとか、どっちも嘘で安全が確保出来れば歩道も横断歩道も法的には乗ったままで問題ない。
交通事故死者数が減っていると言う話も、減ったのは事故死に認定する時間の方で、医療技術の進歩により延命治療が確立された昨今では、「事故から二十四時間を過ぎるまでは!」と、医師に懇願するのが、加害者や悪徳弁護士のみならず警察官にも居るとの話を多く聞く。
根底にあるのは、交通事故や事故死者数が警察署の予算配分率に関与している事にある。
その為ネット界隈で書き込まれる権力側への偏りが強いコメントや、やたらと警察を美化するメディアのコパガンダも、その殆どが警察関係者ではないかと疑い見る人が多いのも頷ける。
Copagandaと云われるそれは、欧米では警察とメディアがしている印象操作をプロパガンダと同等に揶揄する名称ともなっているが、日本ではそれすら報じられず一般的には知る所にないのだろう。
警察や公安委員会が法改正で提唱している安全は、交通弱者を守る為の安全ではなく、法を司る側が利権に悪行を自覚しているからこそに立場の安泰を云う安全であって、車産業などのビジネスに議員や警察やが癒着するこの国の権力構造が問題の本質を大きく歪めていて、実にけしからん!
て、弁護士とはいえ家野君の父親が徹夜明けで酒に酔っているとも知らず、熱く語られた話を聞いてはいたものの半分以上は何の事だか解らなかった。
それでも、法改正が色々と可怪しいって事位は判る。
今も僕達に並んで走るなと言った大人は、車の方が逆走なのに何も言わずで、横並びならともかく、四人で走っているのに縦に並んで怒られるとか、強い者には巻かれて弱い者いじめに精を出す姿が痛々しく映る。
間違いだらけのオトナの事情に頭がおかしくなりそうだ。
それに、姉と二人の時とも、赤星君や青田君と遊ぶ時とも違って、女子三人と走っている一人の男子という妙な責任感で落ち着かないのもあるけれど、女子が三人だとこんなにも声をかけられるものなのかと、世間の偏見に驚かされる。
だって、目の前に居る女子二人は僕に対して高圧的だし、歳上だし当たり前だけど姉は僕より頭がいい。
「カメも上を向いてれば、いつか伸びるよ」
不意に声をかけて来た鬼頭さんの言葉に何の事かと思っていたら、前で腕を上げて指差すそれは、茶畑の垣根代わりの向日葵だ。
て、意図を考えるまでもなく僕の身長を馬鹿にしているのは明らかだけど、そもそも……
「僕が身長気にしてるみたいに言うのはやめろ!」
僕の心配を余所に、女子三人は漫画に書かれるキャッキャウフフではないけれど、姉とオカメの声は聞こえずも、鬼頭さんが前に向かって大声で返す話は服の事とかオススメしたい食べ物のお店とかで、何だか楽しそうだ。
茶畑広がる一本道まで辿り着き、少し先の右手にプールが見えると、ここまでの緊張が解けたのか安堵の息を漏らした僕の視界に、今日まで気にもしていなかった煙突から煙が出ているのが妙に気になる。
茶畑を越えた林のような一角の向こう側、か細い煙が漂うそれを遠目に眺め、プールを過ぎた突き当たりに一つの看板を目にして理解した。
【火葬場】
漢字のインパクトも強いけど、文字から理解させられたのは煙の火元に何が焼かれていたか、これからお寺に行くのに在って当たり前の建物だけど、態々見て行く必要のない物を見ていた自分が嫌になる。
陽を浴び続ける茶畑の一本道とはまるで違い、樹林帯を斜めに抜ける木陰の道は薄暗くも、木々の隙間からほんのりと涼しい空気が流れ出ていて気持ちがいい。
けれど僕にはその涼しさが違うモノに思えて、冷たい何かが身体に纏わり憑くようで背後に居るはずのない気配を感じてしまう。
林を抜けるとまた住宅街で、東へ向かって十分もかからず泉公園に着く。噂は解明されるも件の内容を耳にしたなら子供を遊ばせる親も少なくなるのは当然だけど、公園のベンチを休憩に使う大人を見れば知らぬが仏を分からせる。
泉公園の並びに連なる植木と空き地に家もまばらな道を北へ向かって数十メートル、大きな道を渡った先には仦毎寺の屋根を付けた古い塀が学校と同じ位の敷地を囲っていた。




