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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
98/100

恋をするなら⑦

 *


「それで、その後、私の父親はどうなったんですか?」


 一旦話を切った栄一に中津川が詰め寄った。


「その後の動向は調べてある。中津川友則さんはその後、ニューヨークへ行った」


「ニューヨークへ?」


「そう。ニューヨークで絵を描きながら暮らしているらしいが、詳しいことまでは知らない」


 栄一の言葉に、中津川は肩を落とした。


「私はてっきり、父親が行方不明になったのは、西村さんたちと関係があると思っていたのに……」


「関係はあるよ。君の父親は顕が渡した小切手で渡米したんだろうし。まあ、渡米したのは友則さんの意志ではあるが。


 友則さんは湊人さんをライバル視していたみたいだね。絵を描くためにニューヨークへ渡った湊人さんがうらやましかったらしい。『金銭的な理由で画廊で働かなくてはいけなかった』と言っていたし」


「パパ」


 しばらく黙って父親の話を聞いていた百合が口を開いた。


「中津川さん、お父さんが行方不明になる前にこの『マンハッタンの少女』の絵のことでパパと西村のおじ様に会ったと知って、ずっと調べていたの。


 今の話を聞くと、中津川さんのお父さんは自分の意志でニューヨークへ行ったみたいだけど、それは本当なの?」


「本当だよ。俺も顕もこの絵の話をした後に、友則さんには会っていない。ただ、友則さんの行動は念のため把握しているだけだ」


 百合は栄一の言葉を聞くと、表情を歪ませた。これは彼女なりの「安堵」の表情だろう。


 達也も栄一と顕が中津川の父親の行方不明に関与していないことを知り、ずっと心の中にあった疑念の気持ちが溶けていくのを感じた。


 やはり栄一も顕も、自分や百合が信じている通りの人物だったのだ。


「じゃあ、中津川さんのお父さんがニューヨークのどこにいるか知っているの?」


「今は知らないが、調べればわかると思う」


「そうなのね。――良かったですね、中津川さん。お父さんがどこにいるか、これでわかる」


 百合が中津川を見上げて言う。


 達也は思わず百合を見つめてしまった。この間、中津川にホテルの一室に呼び出されて無理やり抱きつかれたというのに、百合は中津川の父親の居場所がわかるのを喜んでいるようだった。


 百合は優しい。百合が中津川と一緒に「マンハッタンの少女」を調べていたのも、中津川の父親の行方を捜してあげたい、という想いがあったのかもしれない。


 百合はピアニストとしての素質はあるが、あえて父親と同じ探偵の道を選んだのも、この優しさあってのことなのだろう。


 普段はクールで無表情で、一見まったく優しい人間には見えないのに。こういう時に隠しきれない優しさが零れ落ちて来る。


「桜井さん、私はあなたにあんなことをしてしまったのに、そんなことを言ってくれるんですか?」


 中津川が百合を真っすぐ見下ろしている。その目は百合以外見えていないようだった。


「あれと中津川さんのお父さんの話は別ですから」


 百合は当たり前のような無表情のままだった。


「あんなこと?」


 百合とは違い、父親の栄一が怪訝そうな表情をする。


 達也は「マズい」と反射的に思った。百合が中津川に抱きつかれたことが栄一にバレたら、名探偵は何をするかわからない。


「父さんも栄一さんもありがとう。最初は絵のことを知らないと言われた時は驚いたけど、それは母さんや湊人さんの名誉を守るためだったんだね。


 僕、父さんの気持ちも知らずに本部に押しかけてしまって……。仕方ないことだったけど、ごめん」


 達也は慌てて栄一と顕に礼の言葉を言った。本当はもう少しタイミングを見て言うつもりだったが、栄一の気を反らそうと思ったのだ。


 慌てて言ったとはいえ、今の言葉は達也の本心だ。


 確かに栄一と顕に絵のことを知らないと言われた時はショックだった。しかし、この二人は「マンハッタンの少女」の存在を消すことにより、湊人がゴーストライターだという証拠を消そうとしたのだ。


 そして、桃恵や湊人がスキャンダルに巻き込まれることを阻止しようとした。


「いや、いいんだ。お前が本部に来た時は愉快だったよ」


 顕が笑顔で言う。


「愉快って……」


「ああ、お前の成長した姿を見られてよかった。あんな弱かった息子が親に歯向かってくるなんて、これほどうれしいことはない。さっきだって、私をかばおうとしてくれたじゃないか。


 お前を家から追い出して、栄一の事務所で働かせてよかった。栄一と百合ちゃんには何度お礼を言っても足りないくらいだ。お前は強くなった。もう一人前だな。桃恵だって、今のお前を見たら私と同じことを言うと思うぞ」


 達也は思わず「マンハッタンの少女」の絵を見た。


 絵の中の母親は相変わらず自分に微笑みかけている。母親は1ミリも変わっていないはずなのに、父親に言われると前に見た時と違う笑みを浮かべているように見えた。


「達也君、俺も申し訳なかった。事情はあるとは言え、絵のことを『知らない』と言ったのは本当に申し訳ない。この絵のことは、俺と顕の中で永遠に封印しようと思っていた。しかし、今回は見事に百合にやられてしまったな。


 百合に絵のことを訊かれた時は『まさか』とは思ったが、ここまですべてを(あば)いてしまうとは。百合、お前はすごい。お前が俺の事務所を継ぐと言ってくれたことは、何よりの名誉だ」


「ありがとう、パパ」


 百合は父親を見上げると、その表情を歪ませて精いっぱいの笑顔を作る。栄一は娘に笑みを返す。


 そして、百合は表情を歪ませたまま、「マンハッタンの少女」の絵を達也に差し出した。


「達也、遅くなってごめんなさい。お母さんの絵、やっと取り戻すことができた」


 達也は目の前の百合を見下ろした。


 百合が今まで中津川と密かに会っていたのも、大好きな父親と喧嘩して家出したのも、すべてはこの絵を取り戻して、達也に返すことが目的だったのだ。


 達也は改めて、百合が自分のために多大なことをしてくれたことを思い知った。百合は本当に優しい。こうやって、小さい頃の約束を覚えていてくれて、見事に果たしてくれたのだ。


「ありがとう、百合」


 達也は母親の絵を受け取りながら、きっと自分は周りに誰もいなければ百合を抱きしめていただろうと思った。


 目の前の女性がとても眩しく見える。こんなに美しくて頭がよく、そして優しい女性が自分を見上げてくれているのが奇跡のように感じた。


 そして、自分のために見つけた絵を差し出してくれるなんて、自分は何て幸せ者なのだろう。


 この女性は絶対に誰にも渡したくない。


 今、百合は自分に対して無表情を歪ませたような笑顔しか見せてくれない。しかし、いつか自分にもっとたくさんの笑顔を見せてくれるようになってほしい。


 笑顔だけでなく、もっといろいろな表情も見せてほしい。達也は心の底からそう思った。


「百合、それで……」


 その時、まるで達也と百合の間に割って入るように、栄一が声を掛けて来た。その表情はなぜか気まずそうだ。


「どうしたの? パパ」


 百合は無表情に戻ると、父親の方を向いた。


「もう、家には戻ってくるのか? その、もう話をしてくれるようになったし、喧嘩はもう終わりでいいのか?」


「まさか、百合ちゃん、家出していたのか?」


 顕が意外そうな表情をして、百合と栄一の顔を見比べる。彼は桜井家の一大事を知らなかったようだ。


「パパ、謝ってくれたし、本当のことも話してくれたし、帰る」


 娘が無表情のまま言うと、栄一は表情を明るくした。


「そうか! よかった。――達也君に礼を言わなくてはいけないな。その、百合が口を利いてくれたら言おうと思っていたのだが……。百合をずっと(かくま)ってくれてありがとう」


 栄一が再び気まずそうに言うと、達也と百合は目を見開いた。


「パパ、どうしてそのことを知っているの!? 達也、もしかしてパパに言ったの?」


 ふいに百合が見開いた目を達也に向ける。達也は慌てて首を横に振った。


「僕、何も言ってないよ!」


「いや、達也君は何も言ってないよ。ここまで『マンハッタンの少女』の絵の真相を調べた割には、この件については少し気が緩んでいたんじゃないのか?


 百合から達也君と同じ石けんの匂いがしたら、一緒にいるんじゃないかと普通は思うだろう?」


 ああ、と達也は心の中で声を上げた。


 百合が初めて自分の部屋に泊まった日。達也は百合に自分が愛用しているヤードレーの石けんをあげた。百合はそれをスーツケースにしまっていた。


 きっと、石けんの匂いがスーツケースに入っている服や下着に移ってしまったのだろう。


「そんなところでバレるなんて……」


 百合は頭を抱えるような仕草を見せる。百合のそんな仕草、今まで見たことがない。


 達也は百合の仕草を見て、笑みがこぼれる気持ちになった。


 百合が自分の部屋から出ていくのは少し淋しいが、百合はこれから自分にいろいろな姿を見せてくれそうだ。そんな予感がした。

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