恋をするなら④
「風景だけ描かれている『マンハッタン』ならともかく、この『マンハッタンの少女』は湊人さんにしか描けない絵なの。エイデン・モーガンが描くことが不可能なのよ。
まず、桃恵さんは湊人さんを訪ねてよくニューヨークへ旅行したみたいだけど、エイデンと会ったことはないはず。エイデンの日頃の行いを見ていたら、あんな危険人物に大切な姪を引き合わせるはずないもの。
会ったことなくても写真を見せたんじゃないかと達也は言ったけど、写真を見せたらエイデンは絶対に『会わせろ』と湊人さんに迫るはずだし。
そしてもう一つ、エイデンがこの絵を描けない理由が、このカトレアのネックレス。
桃恵さんは若い頃に金属アレルギーになって、このネックレスはずっとつけていなかった。それにこのネックレスは大切なものだから、つけられもしないのにわざわざニューヨークまで持っていくことはしないでしょう?
湊人さんは桃恵さんの叔父さんだから、このネックレスの存在を知っていた。桃恵さんがネックレスをつけられないことも知っていたんでしょうね。だからせめて絵の中ではつけさせてあげよう、と無意識にこの絵に描き込んだんだと思う。
この絵が他の絵に比べてひと際素晴らしいのは、湊人さんの桃恵さんへの想いが詰まっているから。だから、サインをせずにエイデンの絵としても売らなかったんだと思う。
もしかすると、エイデン・モーガンの死後に見つかったサインのない絵は、この『マンハッタンの少女』のように、思い入れのある絵だったのかもしれない。湊人さんが手放したくなくて、手元に残しておいたのなのかも。まあ、湊人さんが亡くなった後に画廊の人が見つけて売られてはしまったけど。
でも、まさか桃恵さんへの想いがゴーストライターだということをバラしてしまうとは、湊人さんも夢にも思わなかったんじゃないのかしら?
この絵を世間に晒し続けたら、湊人さんがエイデン・モーガンのゴーストライターだったとバレるかもしれない。そう気づいたのは、きっとパパね」
百合が父親にまっすぐな視線を向けると、栄一は小さく頷いた。
「その通りだ」
「だから、この『マンハッタンの少女』の絵を世間から隠そうと思った。ただ、達也はこの絵の存在を知っているし、マスコミにも西村のおじ様が買い取ったことが報道されてしまっている。
それなら、絵を盗まれたことにすれば、絵を達也や世間から隠すことができる。西村のおじ様が情報操作をすれば、少なくともネットの中からは絵の存在は消せる。あくまでネットの中からだけど」
百合はソファに置いてあったジャケットのポケットから、紙を取り出して広げて見せた。
それは国会図書館でコピーして来た、「西村財閥の西村顕氏が買ったエイデン・モーガンの絵が盗まれる」と報道された新聞記事だった。
「百合、この新聞記事にも気づいていたのか」
栄一が言うと、百合はその無表情を少し歪ませた。多分、彼女なりの笑顔を父親に向けたのだろう。
「私だけじゃないの。この記事、達也も気づいていたの」
「達也もなのか?」
いきなり顕に問いかけられて、達也は頷く。達也は顕がまじまじと自分を見て来るのを感じ、少し恥ずかしい気持ちになった。
「達也は誕生日会で絵が盗まれた時、会場の広間の窓が開いていたのを覚えている? 私はてっきりそこから犯人が侵入して絵を盗み、またその窓から逃げて行ったんだろうと思っていたの。
私だけでなく、窓が開いていたら誰でもそう思うわよね?
でも、パパと西村のおじ様がこの『マンハッタンの少女』の絵を隠そうとするのを知った時、もしかすると絵が盗まれたことに二人が関係しているんじゃないかと思ったの。そうしたら、本当にあの窓から犯人は侵入したのだろうか、とも思ったの。
ううん、もっと言うと本当に絵は盗まれたのかな、と。大体、誕生日会なんて人がいるような場所で電気を消してわざわざ盗みをする泥棒がいるの? 小説の中の怪盗ならまだしも、普通ならひと気がない時にこっそりと盗むはず。
じゃあ、絵が盗まれていないとすると、絵はどこへ行ったのか? あの部屋の中で絵が隠せそうな場所は限られている。テーブルの下や家具の裏はお手伝いさんが探していたから、そこにはなかった。
そうすると、一番隠せそうな場所は『マンハッタンの少女』の絵と対になっている『マンハッタン』の絵の裏側じゃないかと思ったの。まさか、盗まれた絵が絵の裏側にくっついているなんて思う人は誰もいないし、見る人もいない。
まあ、パパだったら気づけたかもしれないけど、この隠し場所を考えたのも、きっとパパよね?」
「そうだ。『マンハッタン』の絵の裏に隠すのを考えたのは俺だ。顕に特注で通常よりも厚い額縁を作ってもらった。隠したのは顕だ」
だから百合はこの間、「マンハッタン」の絵を双眼鏡を使ってまで見ていたのか。
達也は複雑な気持ちになった。百合が「私が絶対に取り戻してみせるから」と言っている目の前に、実は盗まれた「マンハッタンの少女」の絵があったのだ。
「その後、『マンハッタン』の絵は裏側に『マンハッタンの少女』がくっついたまま、このラウンジ『リリア』に寄贈された。
寄贈したのは、さすがに家に置いておくと気づかれる可能性があるのと、『リリア』なら警備がしっかりしているから、万が一盗まれる可能性もないと思ったからね。
実際、『マンハッタン』の絵はずっとこの『リリア』に安全な状態で飾られていたし」
百合が総支配人の高畑に目線を向けると、高畑は笑顔で会釈をした。
高畑は今の話にはまったく関係ないというのに、この場に自然と、まるですべてを見守るように存在している。
「百合ちゃん、申し訳なかった。すべて百合ちゃんの言った通りだ。ただ、栄一のことは悪く思わないでほしい。栄一もこの件には関与しているが、すべては私のために実行してくれたんだ。達也も申し訳なかった」
達也はいきなり父親に頭を下げられて戸惑った。顕が自分に頭を下げたことなどあっただろうか。
「父さん、その……」
「お前が『マンハッタンの少女』の絵を大切に思っていることは知っていた。しかし、どうしても湊人さんがエイデン・モーガンのゴーストライターだと世間にバラしたくなかったんだ。桃恵もそう思っただろう。
湊人さんは画家になることを夢見ていたが、物静かで繊細な青年だった。有名な画家の絵のほとんどを別の人間が描いていたなんて、美術界にとってはとんでもないスキャンダルだ。
湊人さんも夭折した後とはいえ、有名画家のゴーストライターとして騒がれるのは不本意だろう。
湊人さんを責める人間が出てくるかもしれない。もしかすると、桃恵のことをどうこういう人間も出てくるかもしれない。そうはしたくなかったんだ。だから、私は……」
顕はそこで言葉を切る。そして、ずっと黙って話を聞いていた中津川を見た。
中津川は最初こそ人の良さそうな笑みを浮かべていたが、話が進むに連れてその顔から笑みが消えていた。顕に見られた中津川はその表情を曇らせる。
「何か?」
中津川がかすれたような声を上げる。
「だから私は、君のお父さんに『桃恵の絵のことは黙っていてほしい』と言ったんだ」
「父さんに?」
父親のことを言われた中津川は、突然顕の腕を掴んだ。
「待て!」
達也は反射的に声を上げると、顕と中津川の間に割って入った。もしかすると、中津川が顕に危害を加えるかもしれない、そう感じたからだ。
しかし、中津川はただ顕の腕を掴んだだけで、それ以上は何もするつもりはなかったらしい。父親の話が出たので、反射的に顕の腕を掴んでしまっただけのようだ。
百合は達也の腕にそっと触れると、そのまま達也を元の場所まで戻してくれた。
「達也、大丈夫。中津川さんは何もしないと思う」
「ごめん」
情けないな、と達也は思った。さすがに中津川は顕をどうかはしないだろう。父親の身の危険を感じて思わず感情的に動いてしまった。
そんな達也の気持ちとは裏腹に、顕は息子を見上げると笑みを浮かべた。
「ありがとう、達也。私は大丈夫だ」
父親のこの表情。
まるで自分に敬意を称しているようにも見える。「マンハッタンの少女」の絵の真相を訊きに西村財閥の本部へ行った時の顕とは、まるで別人のように思えた。
「中津川さんのお父さんの話は俺から話そう。いいな? 顕」
栄一が言うと、顕は小さく頷いた。




