恋をするなら②
いつもの無表情のまま入ってきたのは百合だ。早朝の朝日が燦々と降り注いでいるのに、彼女の周りだけ月の光が満ちているような静かな輝きを見せている。
演奏会と言ったのに、百合は探偵事務所で仕事をしている時のような恰好をしていた。黒いテーパードパンツにサラリとした素材の白いブラウス、ベージュのジャケットを羽織っている。
百合は達也と中津川の近くへ来ると、達也をチラリと見てから中津川に向かって丁寧にお辞儀をした。
「中津川さん、今日は突然お呼びして申し訳ございませんでした。わざわざ来ていただき、ありがとうございます」
百合の無表情を見ると、あのイリーナ・ホテル1230号室でのできごとは吹っ切れているのだろうか。
「いえ、とんでもないです。お呼びいただいてうれしいです」
中津川もソファから立ち上がってお辞儀を返した。
「今日、お呼びしたのはお話したいことがあったからです。達也ともう二人来る予定ですが、少し遅れているようです。もしなら、私のピアノでも聴きながらお待ちください」
百合は男二人に背を向けると、ジャケットを脱いだ。まるで誰もその場にいなかったかのような表情でピアノの元へ向かう。
達也はため息が出る思いだった。百合がピアノを弾いている姿を見るのは好きだ。しかし、百合がピアノの元へ行く仕草を見ると、自分は百合からピアノ以上に愛される日は来ないのだろうと淋しくなってしまう。
百合はまるで小さい少女が宝物のオルゴールのフタを開けるかのような優しさで、ピアノのフタを開ける。
そして、イスに座るとそっと最初の音を奏でた。
ティーカップから立ち上っている湯気が、百合のピアノの音に震えたかのように一瞬動きを乱す。
モーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。
達也はさっき中津川に対して抱いた怒りも、百合に対して抱いた淋しさも、遥か昔のできごとのように思えてくるのを感じた。
――ラヴェル、晩年はひどい記憶障害になってしまったらしいけど、あの曲を聞いたら「すごくきれいな曲だね。誰の作った曲なの?」と言ったそうよ。
達也は百合が言った言葉を思い出した。これほど美しい曲なら、例え自分が作曲したことを忘れても、美しい曲だと思ってしまうだろう。
しばらくの間、ラウンジ「リリア」には百合が奏でるピアノの音だけが響いていた。
曲が終盤に差し掛かった頃、突然の足音に達也は音の世界から現実へと引き戻された。音のした方を見ると、達也も百合もよく知っている人物が二人、「リリア」に入ってきたのだ。
百合の父親の栄一と、達也の父親の顕だった。
栄一も顕も「リリア」に入る前から百合のピアノの音は聞こえていたらしい。多少は静かに入ってきたようだが、それでも足音は響いてしまう。
「父さん、栄一さん」
達也は思わず立ち上がったが、百合は何事もなかったかのように演奏を続けている。「父さん」という言葉に反応したのか、中津川も立ち上がった。
百合が「もう二人来る予定」と言っていた人物は、栄一と顕だったらしい。
栄一と顕が達也の近くへ来ると、百合の「亡き王女のためのパヴァーヌ」はちょうど終わった。百合はピアノの前のイスから立ち上がると、男が4人集まっているソファの方へとやってきた。
「百合、話があるって一体なんだい? しかも顕も呼んでいるなんて、知らなかったぞ」
栄一が話しかけたが百合は返事をしない。呼び出したとは言え、喧嘩は続行中らしい。その代わり百合は、皆に話しかけるように口を開いた。
「今日は急にお呼びして、申し訳ございませんでした。どうしてもみなさんにお話ししたいことがあったんです。それで、お話しの前にお見せしたいものがあります」
(――見せたいもの?)
達也が首を捻っていると、ラウンジ「リリア」の入り口から足音と共に何やら「カチャカチャ」という金属音が聞こえて来た。
達也が見ると、そこにはイリーナ・ホテルの総支配人の高畑がいる。
高畑はなぜか脚立を脇に抱えていた。
「ありがとうございます、高畑さん」
「いえ。しかし、脚立なんてどうなさるんですか?」
百合は高畑から脚立を受け取ると、そのまままっすぐエイデン・モーガンの「マンハッタン」の絵が掛かっている壁の方まで持って行った。
そして、絵の下で脚立を立てる。
高畑が自然な仕草で脚立を支えた。そして、百合は脚立を登り始める。
百合が「演奏会」と言いながらドレスではなく普段着を着たのは、脚立に登る予定があったためなのだろうか。
「――待て! 百合」
栄一が声を上げる。達也が栄一を振り返ると、名探偵は彼にしては珍しく焦っている様子だった。
栄一は脚立に登っている娘の方へ駆け寄ろうとしたが、顕がそれを引き留める。
「栄一、待て。いいんだ」
「でも……」
「いいんだ、もう」
顕が首を横に振ると、栄一はその場から動かなくなった。
達也は栄一と顕の会話の意図がわからなかった。しかし、二人が何かを諦めたような表情をしているのはわかる。
百合は顕が栄一を引き留めたのを見ると、脚立を最後まで登り、手を伸ばして「マンハッタン」の絵を壁から外した。絵を大事そうに脇に抱えると脚立を降り、支えてくれた高畑に礼を言う。
百合は4人の男たちの元へ戻ってくると、「マンハッタン」の絵を裏返した。




