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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
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恋をするなら①

 百合が突然「演奏会を開きたいんです」と言った数日後。達也は早朝のラウンジ「リリア」に来ていた。


 今日が百合の言った「演奏会」の日なのだ。


 なぜいきなり百合が「演奏会を開きたい」と言ったのか。演奏会は建前で本当は「マンハッタンの少女」の絵の真相がわかり、それを報告する場を設けたかったのだろう。


 達也は先に何かしらの真相だけでも知りたいと思ったが、百合に尋ねても「当日にすべて話すから」と繰り返すだけだった。


 達也はこの数日、いつも通り執筆活動と栄一の事務所での雑用をこなし、ひたすら演奏会の日を待った。


 百合は相変わらず家出していて、達也のマンションにお邪魔している。


 達也は百合と栄一が事務所でどのように仕事をしているのか気になっていたが、二人ともさすがはプロだ。仕事中は「喧嘩している」という気配を微塵も感じさせない。


 しかし、達也は栄一がビル内のコーヒーブースで辛そうな表情でため息をついているのを目撃した。栄一は百合の家出が相当応えているらしい。


 達也は栄一のことを考えると胸が痛んだ。娘が家出しただけでなく、幼馴染とは言え未婚の男性の部屋にいるなんて知ったら、ショックで気絶するかもしれない。何とか百合が自分の部屋にいるとバレる前に仲直りしてくれればと願うばかりだった。


 その反面、百合は相変わらず無表情のままだ。達也のマンションでもまるで一年も前からこの部屋で暮らしているかのように馴染んでしまっている。


 達也はこのまま百合が自分の部屋に住み続ける妄想をしたが、さすがにそれは虫が良すぎる話だろう。


 達也がラウンジ「リリア」の中に入ると、まだラウンジ内には誰もいなかった。百合もいないし、スタッフもいない。


 誰かが来ることを待っていたかのように、ピアノの前のテーブルには、ティーポットとカップが5つ置かれている。


 5つ?


 ということは、今日の演奏会には百合を除くと4人呼ばれているというのだろうか。一体、自分以外に誰が呼ばれているのだろう。


 達也はソファに座ったが、何だか落ち着かない。思わず目の前のティーポットを持ち上げると、カップの一つに紅茶を注いだ。


 紅茶は達也がいつもラウンジ「リリア」でオーダーするアールグレイだった。百合が気を利かせたのかはわからないが、今の達也にはこのベルガモットの匂いが心地よい。


 達也がカップに口を付けようとした時、ラウンジ「リリア」の入り口から足音が聞こえた。


 達也は足音の方に目をやり、百合が驚く時のように思わず目を見開いてしまう。


 相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべて入ってきたのは、あの中津川だった。


 達也は中津川を見た途端、頭に血が上り、思わずソファから立ち上がりそうになった。しかし、何とか自分を制してソファに深く座り直した。


 これから百合が開催する演奏会が始まるのだ。音楽は平和に聴かなくてはいけない。今はこのラウンジ「リリア」の静寂の世界に身をゆだねよう。


 中津川は先客の達也に気づくと、その顔に笑みを浮かべたまま会釈をした。達也はさすがに中津川ほど精神的に大人になれない。まるで百合のような無表情のまま会釈を返すことしかできなかった。


「西村さん、おはようございます。今日はどうされたんですか?」


 中津川は百合に呼ばれたのだろう。だとしたら、中津川も自分が百合に呼ばれたと予想できるはずだ。なのになぜわざわざ訊いて来るのだろうと達也は思わず表情に出そうになってしまった。


「百合に呼ばれたんです。中津川さんも百合に呼ばれたんですよね?」


「はい、そうです。『話がある』と言われました」


 どうも、中津川は百合には「演奏会をする」と言われてないらしい。


 中津川は当たり前のように達也の前のソファに座る。達也は仕方ないので、無表情のまま中津川の前のティーカップに紅茶を注ぎ「どうぞ」と差し出した。


「ありがとうございます」


 中津川のお礼を言う声色や紅茶を傾ける仕草など、まるで恋のライバルである達也が目の前にいないかのような余裕を見せている。


 達也は中津川を前にして心をざわざわさせている自分が異常なのか、中津川の方が異常なのかわからなくなった。やはり、中津川は百合のことを本当に好きではないのだろうか。それとも、恋のライバルが目の前にいるだけで落ち着かなくなる自分の方が精神的に大人になれていないのだろうか。


 まあ、中津川は嫌がる百合をホテルの一室に誘い出して抱きしめたのだ。自分はそれに対して怒りを覚えるのは当然だろう。


 達也はイリーナ・ホテルの1230号室から辛そうな表情をして逃げて来た百合を思い出し、ますます心をざわざわさせた。


 達也はよっぽど中津川に「百合を辛い目に遭わせて!」と文句を言おうと思ったが、紅茶で言葉を飲み込んだ。


 中津川は自分が1230号室の近くで待機していたことは知らないだろうし、百合も達也が中津川に文句を言うことは望んでいないだろう。


「早朝のホテルのラウンジも趣があって良いですね」


 中津川が窓に目を向けながら言う。達也はどうしようか迷ったが、結局「そうですね」と相槌(あいづち)を打った。


「西村さんは、よくこのラウンジ『リリア』にいらっしゃるんですよね?」


「はい、よく来ます」


「桜井さんの演奏を聴きに、ですか?」


「それもありますが、昔からこのラウンジ『リリア』にはよく来ていたんです。最近、特によく来てはいますが」


 達也は泊まることはなかったものの、小さい頃からよく両親に連れられてイリーナ・ホテルには出入りしていた。


 このラウンジ「リリア」やホテル内のレストランには、買い物ついでによく両親と立ち寄ったものだ。特にイリーナ・ホテルの近くに住んでからは、頻繁(ひんぱん)に出入りするようになった。


「そうなんですね。私がこのイリーナ・ホテルに出入りするようになったのは、つい最近です。イリーナ・ホテルで私の勤めている画廊の絵を取り扱い始めてからです」


 中津川はなぜこんなに棘のあるような言い方をするのだろうか。中津川の表情には相変わらず笑みが浮かんでいるが、彼は明らかに達也に敵意を表している。


 絵と言われて、達也は思わずラウンジの壁に掛けられている「マンハッタン」の絵を思い出してしまった。


「そう、ですか」


 達也は中津川の言葉にどう返事すればよいかわからず、ただ相槌を打った。


「桜井さんもこのラウンジ『リリア』に小さい頃からよく来ていたそうですね。お父様がここのメニューが好きだとか」


「はい、聞いたことあります」


 達也は胸がドキッとするのを覚えた。百合は中津川に「『リリア』には小さい頃からよく来ていた」という話もしていたのだろうか。


 もしかすると、中津川は自分が知らない百合の一面を知っているのだろうかと、ふと不安になる。


「私は小さい頃、ラウンジ『リリア』は(おろ)か、イリーナ・ホテルというホテルがあるということさえも知りませんでした」


 達也は目の前の中津川をジッと見つめた。いきなり小さい頃の話を始めてどうしたというのだろうか。


 中津川は人の良さそうな笑みを浮かべてはいるものの、その表情には少し翳りがあるようにも見える。


「――」


 達也は黙ったまま、中津川の次の言葉を待った。


「ご存じかもしれませんが、私の父親は私が高校生の時に行方不明になったんです。まあ、その前から私の家庭環境はあまり良くはなかったですが。


 少なくとも、西村さんや桜井さんのようにラウンジ『リリア』へ頻繁に通えるような状況ではありませんでした」


「そうなんですね」


 達也は一瞬、中津川が自分や百合の恵まれた環境に嫌味を言っているのだろうかとも思った。


 財閥のトップの息子である自分はもちろんだが、百合も父親は日本一の名探偵だし、母親は世界的に有名なピアニストだ。家庭環境は平均より上になる。中津川はそのことについて嫌味を言っているのかと思ったのだ。


 しかし、中津川の表情には相変わらず(かげ)りが見えた。嫌味を言う人間がこんな翳りを見せないような気がする。


「私は自分がラウンジ『リリア』に当たり前に出入りできるような人間になれば、望んだものは手に入れられると思っていました。実際、今ではたくさんのものを手に入れられるようになりましたよ。


 でも、自分が頑張っても手に入れられないものはあるんですね」


「それって……」


 達也が言いかけた時、ラウンジ「リリア」の入り口から足音が聞こえた。

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