カトレアのネックレス⑦
「何?」
「これからどうする? この部屋」
「そうだった。今日はありがとう、助かった。この部屋の代金は私が払うから」
「えっ? いいよ。この部屋を取ったのは僕だし」
達也は慌てて首を横に振ったが、百合も首を横に振り返した。
「ううん、達也がこの部屋を取ったのは私のためだし」
「本当にいいよ! じゃあ、僕は今日、ただ自分が泊まりたくてこの部屋を予約したってことにしよう。実際、この部屋はすごく居心地がいいし、泊まれてうれしいよ」
達也は自分で言っておいて苦しい言い訳だと思った。しかし、百合はふわりと表情を歪ませると「ありがとう」と言って、サンドイッチの付け合わせのフライドポテトを口に運んだ。
さっきの百合の表情、多分彼女は笑顔を見せてくれたのだろう。達也は何か心の中が温かいものに包まれるような気持ちになった。
「こうやって達也の隣にいると、思い出すわね」
ふいに百合がぽつりと呟く。
「何を?」
「達也の誕生日会。あの『マンハッタンの少女』の絵が盗まれた時」
「ああ、あの時、百合はずっと僕の隣にいてくれたよね」
達也が小学校4年生の時の誕生日会。
誕生日会の最中に、何者かによって「マンハッタンの少女」の絵は盗まれた。
誕生日会は西村家の広間で行われていた。百合の母親の葵が桃恵の追悼のために「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾いた、あの広間だ。
誕生日会は滞りなく進んでいった。広間の壁に飾られた「マンハッタンの少女」を見るたびに、達也は自分の顔に笑みがこぼれるのを感じた。今日は大好きな百合も来てくれているし、本当に嬉しい。
しかし、その嬉しさは続かなかった。
突然、広間の明かりが消える。そして、次に明かりがついた時には、広間の壁から「マンハッタンの少女」の絵がなくなっていたのだ。
広間の奥の窓が開いて、カーテンが風に揺れていた。多分、犯人はこの窓から侵入したのではないだろうか。
部屋の片隅に忘れ去られたように置かれた「マンハッタン」――「マンハッタンの少女」の風景画のみのバージョン――の絵は無事だった。
周りがバタバタする中、達也は「マンハッタン」の絵の前で涙を流した。せっかく念願だった母親の絵を手に入れたのに。一体、誰が盗んでしまったのだろうか。達也は大好きだった母親を二回もなくしたような気持ちになった。
百合は悲しむ達也の横に座って、ずっと一緒にいてくれた。そして「パパが絵を取り戻してくれるから。パパがダメでも、私が絶対に取り戻してみせるから」と言ってくれた。
あの時から百合は無表情な少女だった。もっと言えば、初めて会った時から無表情な少女だった。
しかし、達也はなぜか百合と初めて会った時から、目の前の少女が優しい人物だとわかっていた。
あの「私が絶対に取り戻してみせるから」という言葉を聞いた時、やはり自分の思っていることは正しいとわかった。百合はずっと優しい人物だった。
「――百合」
誕生日会の時、泣いている僕の隣にずっといてくれてありがとう。そして、今も僕の隣にいてくれてありがとう。
達也はそう言おうと思ったが、ふいに自分の左腕に重みを感じて口を閉じた。
隣に座っている百合に目をやる。百合は達也の左腕にもたれかかっていた。目を閉じて、小さな寝息を立てている。
百合が眠ってしまうのも仕方ないか、と達也は思った。仕事をし、中津川から逃げ、ピアノを弾き、「マンハッタンの少女」の謎について考察を巡らせる。達也なら途中で気を失いかねないかもしれない。
百合は優しい、そして強い。しかし、今ここで眠ってしまうところをみると、やはり繊細な面もあるのだろう。
いくら心地良いイリーナ・ホテルの一室とは言え、この状態で百合を眠らせてしまっては身体が冷えてしまいそうだ。達也はそっと立ち上がると、百合をソファに横たわらせた。そして、ベッドから毛布をはがして百合の身体にかけてやった。
百合は達也の計らいにも気づかず、すやすやと眠っている。
達也は百合の向かいのソファに座ると、一人でサンドイッチの続きを食べた。
初めて見る百合の寝顔は、思った以上に幼く感じた。この表情であのテディベアを抱えていたら、さぞかわいいだろう。達也はあのテディベアを思い出し、自分の顔に笑みがこぼれるのを感じた。
結局、百合は明け方まで目を覚まさなかった。
百合に取り残された形になった達也は、百合が起きないように注意しながらお風呂に入り、そのままベッドで眠った。
明け方、物音がして達也が目を開けると、百合が自分を見下ろしているのが見えた。
「百合……」
達也は慌てて起き上がろうとしたが、百合は首を振った。
「そのまま寝てて。私、着替えて来るから。また迎えに来る」
達也は再び目を閉じ、そのまま夢の世界に引き込まれていった。
次に達也が目を覚ますと、日は登り切っていた。まだ百合は来ていない。達也は顔を洗い、念のため持ってきた服に着替えた。
腕時計をはめた時、部屋のドアが開き、百合が入ってくる。
百合はいつも通りの無表情だった。昨日の寝顔のような幼さは微塵も感じさせない。達也はあの百合の寝顔は自分の夢だったのだろうかとぼんやりと考えた。
「もう、出られる? これからラウンジ『リリア』に行こうと思っているんだけど」
「出られるけど、でも、まだ『リリア』は開店前だよね?」
達也は腕時計に目を落とした。ラウンジ「リリア」の開店まで、まだ一時間以上もある。
「総支配人の高畑さんにお願いして、開けてもらうことにしたの」
百合はそう言うと、達也に背を向けて部屋を出て行こうとする。達也も慌てて百合の後を追った。
ラウンジ「リリア」へ行ってみると、入り口に総支配人の高畑が立っている。相変わらず人の良さそうな笑顔で「おはようございます」と言うと、丁寧に頭を下げてくれた。
「高畑さん、ありがとうございます。お願いを聞いてくださって」
百合の言葉に高畑は軽く首を横に振った。
「いいえ、かまいません。さあ、どうぞ」
高畑がラウンジ「リリア」の扉を開けると、そこには達也がいつも行き慣れている穏やかな空間が広がっていた。しかし、一つ違うのはまったく人がいないということだ。
達也は「リリア」の中を歩きながら、高畑は父親の顕から何かしらの「口止め」をされていないのだろうかと考えた。
ただ、百合の「『リリア』を見せてほしい」というお願いを素直に聞き入れてくれたところを見ると、何も言われてはいないのかもしれない。
ラウンジ「リリア」の奥の壁に、エイデン・モーガンの「マンハッタン」の絵が飾られている。
絵はかなり高い位置に飾られていた。まるで「誰も触れてはならぬ」とでも言っているかのようだ。
百合は絵の近くまで行き、首を上にして「マンハッタン」の絵をジッと見つめた。達也も絵を見上げる。
母親が描かれていないだけで、この「マンハッタン」の絵もとても素晴らしい。
「あの風景画はずっとここに飾られているんですか?」
百合が訊くと、高畑は頷いた。
「はい、このラウンジ『リリア』が改装オープンした時に、そのお祝いにと西村財閥の方からプレゼントしていただきました。その時にここに飾ったきり、動かしていないと思います。
この絵、有名な画家の方の作品のようです。どの方の作品とまでは聞いておりませんが、とても素晴らしい絵ですね」
高畑の言葉を聞くと、彼は「この絵がプレゼントされたもの」ということ以外、何も知らないようだ。
百合は絵を真上から眺めてみたり、右や左から眺めてみたり、いろいろな方向から眺めていた。こうやって百合がウロウロしている姿は、古典の推理小説の探偵が地道に事件を解決する様を思わせる。
百合はどこから持ってきたのか、バッグから双眼鏡を取り出して絵を眺め始めた。達也は絵にエイデン・モーガンのサインが本当にないのかを確かめているのだろうと思った。
しかし、百合は絵自体を見るというよりも、絵の左右の側面を熱心に眺めているように見える。
達也は百合の行動に疑問を感じたが、高畑は特に気にしていない様子でニコニコしていた。
やがて百合は双眼鏡から目を離すと、達也に双眼鏡を渡した。
「達也もこれで絵を見てみて」
「えっ? うん」
達也は言われるまま、双眼鏡で「マンハッタン」の絵を見てみる。
達也は最初、絵の右下を見た。確かにそこにはエイデン・モーガンのサインがない。そして、絵の全体を見る。やはり中津川が持っていた「マンハッタンの少女」の画像の背景とまったく同じだ。
絵の大きさは「マンハッタンの少女」と同じなのだろうか。本当にあの「マンハッタンの少女」から母親の桃恵を除いた風景画のようだった。
達也は絵をじっくりと眺めたが、その絵が改めて素晴らしい絵であること以外に発見がなかった。
ただ、あえて言うなら、絵が入っている額縁が豪華だなと言う印象はある。豪華というかかなり重厚な作りの額縁だ。
達也は絵のことは何も知らないし、もちろん額縁のこともよく知らない。そういう達也でも、その額縁がしっかりとがっしりしているものなのはわかった。
多分、特注品なのではないだろうか。達也が横から絵を見てみると、かなり厚みがあった。まあ、プレゼントしたのが自分の父親なら、額縁を特注品にするくらい、なんて事はないだろう。
「どう?」
百合に声をかけられて、達也は双眼鏡から目を離した。
「素晴らしい絵だと思う。でも、それ以外は特に。ただ、額縁がすごいしっかりしているよね? 特注品かな? 厚みもしっかりしているし」
達也が素直な感想を言うと、百合は満足したように軽く頷いた。
「高畑さん、今日はありがとうございました。それで申し訳ないのですが、もう一つ私のお願いを聞いてもらえないでしょうか?」
「はい、なんでしょうか?」
高畑が百合に笑顔を向ける。
「もう一度、開店前のラウンジ『リリア』をお借りしてもよろしいでしょうか? 演奏会を開きたいんです」
「演奏会、ですか?」
「はい。あの『マンハッタン』の絵が関わっている案件の報告をしたいんです」




