カトレアのネックレス⑤
「百合、話してくれてありがとう。後、絵の画像を持ってきてくれてありがとう」
達也は素直に百合に礼を言い、頭を下げた。百合は首を横に振ったが、その表情は彼女にしては珍しく、少し恥ずかしそうだった。
「私も達也にこういうのを話すのは気が引けるんだけど、でも、達也が心配してくれたから。こっちこそ、12階まで来てくれてありがとう。部屋から逃げて出て来た時、達也の姿見て、すごく安心した」
百合が一瞬だがふわりと笑顔を見せたような気がした。達也はまるで周り一面に春が来て、桜の花びらが舞い散るかのような幻想を見てしまった。
もしかすると、今部屋のカーテンを開けたら昼間で、本当にイリーナ・ホテルの周りは桜が満開なのかもしれない。
しかし、その春のような温かい雰囲気もすぐに終わってしまった。百合は無表情になると、「ところで、エイデン・モーガンの画像は集まった?」と催促してきた。
さっきは桜が満開だったのに、一瞬にして現実に引き戻されてしまう。確かに今は秋で、現実に桜などどこにも咲いてはいないのだが。百合の口調もいつも事務所で自分に仕事を振る時と同じものになってしまった。
達也が百合に自分のノートパソコンの画面を見せようとすると、百合は手招きして自分の隣に座るように指図した。
今、百合は二人掛けのソファに座っているが、達也の部屋にあるソファよりはコンパクトだ。達也は指図の通り百合の隣に座ったが、百合との距離が思ったよりも近い。
達也はさっき百合を抱きしめたことを思い出し、自分の顔が赤くなりそうになった。
達也の心中など知らず、百合は探偵らしい鋭い目つきでエイデンの絵の画像を見比べている。
この百合の目つき、栄一が仕事の資料を見ている時と全く同じだ。百合は顔や体形は母親の葵に似ているが、何かを考えたり見たりする時の目の鋭さは栄一とそっくりだった。
達也も百合が眺めているものと同じ画面を見た。
百合がエイデン・モーガンの絵のどの部分を見ているかはわからない。達也はパソコンの画面に並んでいるエイデンの絵のすばらしさに、感嘆の気持ちしか湧かなかった。
しかし、百合の目は鋭いままだ。百合も普段ならエイデンの絵に感動の気持ちも芽生えるのだろうが、今は調査として絵を見ている。百合はやはり自分とは違う。その時によって気持ちを切り替えるのが抜群に上手い。
百合は集めた画像を一通り見終わると、中津川から奪い取った「マンハッタンの少女」の画像を見た。そして、小さく頷く。
百合は何かを掴んだのだろうか。
「達也」
さっきまでは、まるで自分がいないのかのように絵に集中していたのに、百合が突然話しかけてきた。
「何?」
「この3枚の絵を見比べて、何か気づくことはない? 何でもいいから感想を聞かせて」
そう言うと、百合は達也に3枚のエイデンの絵を指さした。
1枚目はエイデン・モーガンが若い頃に描いたという風景画。絵の隅にエッフェル塔が見えるから、パリの風景だろう。
2枚目はエイデン・モーガンが中年期に書いた人物画。猫を頭に乗せている男性を描いたものだ。
そして、3枚目は「マンハッタンの少女」。
3枚目の「マンハッタンの少女」はエイデンの遺作だと言われていたような気がする。エイデンが亡くなった後に発見されたものだ。百合はちょうど3枚の絵をエイデンが描いた年代順に指さしたことになる。
1枚目は百合に頼まれた調査で達也が見つけたものだ。2枚目はエイデン・モーガンの代表作で、有名なロックスターを模写したもの。創作のためにエイデン・モーガンを調べるとよく出て来た絵だから知っている。
達也はゆっくりと3枚の絵を見比べてみた。
どれも素晴らしい絵だが、自分の母親が描かれているというのを抜きにしても、一番心惹かれるのは「マンハッタンの少女」だな、と達也は思った。
よく見てみると、1枚目の絵と2枚目3枚目の絵は少しテイストが違うような気がする。
風景画と人物画の違いかもしれないが、エイデンは中年期に少し絵の雰囲気が変わったというのを何かで見たような気がした。確か、事故に遭ってから変わったと書いてあった。
「ええと……。どれも素晴らしい絵だと思うけど、僕は個人的に一番『マンハッタンの少女』の絵がすごいと思う。母さんが描いてあるというのを抜きにしても、とにかく絵がキラキラしていて一番惹きつけられる」
「それは私も思う。私も『マンハッタンの少女』の絵が一番素晴らしいと思う。他は?」
百合も「マンハッタンの少女」が一番素晴らしいと思っているのか、と達也は思った。それだけこの絵は人を惹きつける魅力を持っているのだ。
ふと達也は父親の顕は、この絵の素晴らしさを隠すために絵を存在しないことにしているのではないか、と思った。つまり、自分が愛した妻がたくさんの人の目に触れるのを恐れたのではないかと。
しかし、顕が桃恵を愛していたのは確かだとはいえ、顕はむやみに他人へ嫉妬するような人間ではない。
「1枚目の絵と2枚目3枚目の絵はテイストが少し違う。1枚目の絵の方が細かく書き込まれていて、2枚目3枚目はもっとラフな感じがする。
でも、2枚目と3枚目の絵の方が技術的には優れているんじゃないのかな? 細かく書き込むことも大切だけど、少ない線で表現したいものを表現し尽くすには技術がいる。これは文章も同じような気がする」
「そうね。達也らしい感想だと思う。他には?」
「他は……」
百合に促されて、達也は再び3枚の絵を見た。そして、重要なことに気づく。
1枚目と2枚目の絵には右下に「Aiden Morgan」とエイデンのサインが書いてある。しかし、3枚目の「マンハッタンの少女」の絵には、サインが書いてないのだ。
達也は「マンハッタンの少女」の絵の画像を手に取ると、目を近づけてよく見てみた。どんなに探してもエイデンのサインがどこにもない。
ただの書き忘れだろうか。達也は単純に思ったが、自分の身体に寒気が走るのを感じた。この感覚、もしかすると、自分は何か重大なことに気づいてしまったのではないだろうか。
「達也も気づいたのね」
百合は達也が持っている「マンハッタンの少女」の絵の右下を指さした。「この『マンハッタンの少女』の絵には、エイデン・モーガンのサインがないの。ちなみにラウンジ『リリア』に飾られている風景画にもサインがない」
「えっ? そうなんだ」
「もっと言うと、エイデン・モーガンが亡くなった後に見つかった遺作の全てには、サインが書かれていないの」
百合は自分のパソコンの画面を達也に見せた。
エイデン・モーガンの遺作、つまりエイデンが亡くなってから見つかった絵の全てには、サインが書かれていなかった。「マンハッタンの少女」やラウンジ「リリア」に飾ってある風景画はもちろん、他の絵にもエイデンのサインはない。
「これはどういうことなの?」
「調べてみたけど、この件を問題にしている専門家はほぼいなかったの。エイデンが生前に発表しなかったから、エイデンが失敗作だと思ってサインを書かなかったのではないか、くらいサラリと言っている人がいる程度。
実際、エイデンはかなりの見栄っ張りで、自分の失敗作を人に見せることはなかった、と言われているし。
でも、本当にエイデンは失敗作だと思ってサインを書かなかったのかな? 他の絵はどうかわからないけど、この『マンハッタンの少女』の絵は素晴らしいもの。
達也の言う通りキラキラしていて、ものすごく惹きつけられる。エイデンが力を入れて描いたことが手に取るようにわかるもの」
「そう、だよね」
達也はもう一度「マンハッタンの少女」の絵の画像を見た。自分もそう思うが、百合の言う通り、この「マンハッタンの少女」は傑作だと言える。
芸術品だから好き嫌いはあるかもしれないが、好き嫌い問わずこれだけの絵を失敗作だと言う人はいないような気がする。
「考えられるのは、何かしらの理由があって、この絵にはサインが書かれなかったということ。――で、達也、あの湊人さんのことだけど」
「湊人さん?」
達也は思わず聞き返した。どうしてここに達也の母親の叔父の湊人の名前が出て来るのだろうか。
まあ、確かに湊人はニューヨークのエイデン・モーガンの絵を扱っていた画廊で働いていた。しかし、湊人は故人でエイデン・モーガンのことを訊き出すことはできない。
「その湊人さんについて、知っていることを全部教えてもらってもいい? どんな些細なことでもいいから」
「でも、僕も湊人さんについては詳しくわからないんだ。父さんなら、僕より知っているかもしれないけど。
湊人さんは母さんの母方の叔父さんで、苗字は澤田。小さい頃から絵を描くのが上手くて、ずっと絵ばかり描いていたらしい。
ものすごく繊細な人で人混みが苦手だったし、何か悩み事があると具合が悪くなったこともよくあったみたい」
「まるで達也みたいね」
百合の言葉に達也は頷くしかなかった。
「うん、母さんの家系は基本的に母さんみたいに明るい性格の人が多いけど、時々湊人さんや僕みたいな人がいたみたい。母さんのひいおじいさんは繊細に人だったらしい。湊人さんはひいおじいさん似だったんだろうね。
僕は知らなかったけど、湊人さんは中津川さんのお父さんと同い年なんだよね? 大学も一緒だったみたいだし。確か、大学はM美大の油絵学科だったと思う。
ずっと画家になるのが夢で、かなり早い段階から海外へ行っていたみたい。結局は母さんが20歳くらいの時にニューヨークに定住したみたいなんだけど、大成はしなかったと聞いてる」
百合に説明しながら、達也は湊人について知っていることが少ないと実感した。
湊人は夭折しているし、母親も達也が小さい頃に亡くなっている。もっと言えば、母方の祖父母もすでに鬼籍に入っているので交流がない。
もしかすると、母方の家系は短命なのだろうか。これでは母方の親戚に中津川がいても気づかないはずだ。




