カトレアのネックレス④
1311号室へ行くと、百合は達也にノートパソコンを出すように言った。
「ネットでエイデン・モーガンの絵の画像をなるべくたくさん集めて。達也は初期の方から、私は晩年の方から集めるから」
「えっ? でも、どうして?」
百合の調べたいこととは、エイデンの絵のことだったのだろうか。しかし、なぜエイデンの絵の画像をたくさん集めようと言うのだろうか。
「ちょっと、エイデン・モーガンの絵を見比べて確認したいことがあるの」
「わかった」
百合は理由を濁した。別に出し惜しみしているわけではなく、まだ仮定のことを言って自分を混乱させたくないのだろう。百合なりの優しさなのだ。
アメニティの紅茶を二人分淹れると、百合と達也は窓際のソファセットに向かい合って座る。達也は自分のノートパソコンを立ち上げた。
エイデン・モーガンは若い頃から、素人の達也でもハッとするほど絵が上手かった。上手いだけでなく、色使いや構図などが独特で美しい。明らかに人を惹きつけるものを持っている。
これが天才の描く絵というものなのか、と達也は感心した。
達也は今の状況をしばし忘れて、エイデンの絵に魅せられながら画像を集めた。
画像を集めながら、チラリと百合を見る。百合は達也などいないような無表情でパソコンの画面を見つめ、キーボードを打っている。
ふと、百合がパソコンの画面から顔を上げた。まるでエイデンの絵の続きを見ているかのように美しく見える、達也は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「作業しながら、さっき中津川さんと話してきた内容を聞いてもらいたいんだけど」
「百合、中津川さんの話をしても大丈夫なの?」
実を言うと、達也は百合が中津川とどんな会話をしてきたのか気になっていた。しかし、百合が珍しく辛そうな表情で中津川の部屋から逃げて来たのを見て、突っ込んで聞くことができないでいたのだ。
「別に、大丈夫だけど?」
百合は無表情のまま、何でもないような表情で言う。
「だったら、いいんだけど」
達也が心配そうな表情で言うのを、百合は無表情のまま眺めていた。その目はいつもよりも何かを眩しく感じているかのように細くも見えた。
「中津川さん、達也のこと訊いてきたの」
「僕が『柏木林太郎』の正体かどうかって?」
達也は言ってから思わず周りを見渡しそうになってしまった。まさか、イリーナ・ホテルの客室に中津川が盗聴器を仕掛けられるわけがないだろう。
「うん。私、ラウンジ『リリア』につけられた盗聴器のことを中津川さんに話したから」
「えっ?」
達也は思わず声を上げる。百合はあの盗聴器に関してはかなり慎重になっていた。なのに直接中津川に話をするなんて、大胆なことをしたなと思った。
「中津川さんのことだから、私が『絵の画像を見せて』と言っても出し惜しみすると思ったの。だから私も中津川さんに対抗できるものとして盗聴器のことを話したのよ。だって、盗聴器を仕掛けるなんて犯罪行為だものね。まあ、私は警察に言いはしないけど。
中津川さん、達也が言った通り、やっぱり私と達也が柏木林太郎について話した会話を盗聴していたみたい。私、ホテルの人にも警察にも中津川さんが盗聴器を仕掛けたこと言わないから、柏木林太郎の正体を誰にも言わないで、と中津川さんにお願いしたの」
なるほど、と達也は思った。百合の取引は正当だ。中津川に自分が柏木林太郎の正体だと知られたのはまずかったが、中津川だって盗聴器を仕掛けたのは悪い。
盗聴器については怒りしか感じないが、その行為を引き合いに柏木林太郎の正体をバラさないでくれと言える。
しかし、と達也は自分の不甲斐なさにため息が出る思いだった。自分は百合にどれだけのことをさせてしまったのだろうか。
「マンハッタンの少女」の絵の画像を見せてもらいに中津川と二人きりにさせただけでなく、自分が柏木林太郎の正体だと黙っているようにお願いもさせてしまうなんて。
「百合、ごめん。柏木林太郎のことまで中津川さんに話してくれたなんて、ありがとう」
「いいのよ。柏木林太郎のことはいつか中津川さんに確認しなくてはいけなかったし。『マンハッタンの少女』の絵の画像と一緒に言えて、むしろ良かったと思う。
それに柏木林太郎の正体が達也だとバレたら、達也は事務所でバイトができなくなるし、西村のおじ様にも迷惑がかかるもの」
百合は相変わらず淡々と答える。一応、彼女なりに達也に余計な心配をかけたくないと思っているのだろう。
「それで、中津川さんは何て言ってたの?」
「『考えておく』と言ってた。黙っておくとは言われなかったけど、少なくともしばらくはバラすことはしないと思う」
「そうか」
これはひとまず安心だと言えるのだろうか。しかし、中津川に大きなものを渡してしまったことに変わりはない。
「盗聴器の話の後、中津川さん、『この中にあの絵の画像が入っている』とスーツのポケットの中から封筒を取り出して渡そうとしてくれたの。でも、『その前にもう一つ訊きたいことがある』って」
「訊きたいこと?」
「達也との関係を訊かれた」
「えっ?」
達也はまた声を上げてしまった。中津川は昼間、自分にも「桜井さんと西村さんは幼馴染の関係ですよね?」と百合との関係を訊いてきた。
百合にも直接訊くとは、よほど気になっているのだろうか。それとも、他の意味があるのだろうか。
「私、正直に『ご存じの通り、達也とは幼馴染で今は同じ事務所で働く同僚です』と答えたの。中津川さん、何度か私と達也の関係を訊いてきて、その度に同じこと答えているのに今更なんだろうと思っていたら、『では、私とお付き合いしてください』と言われて……」
「それで? それで百合は何て答えたの?」
達也は慌てて訊いてしまった。百合がパソコンの画面から顔を上げて達也の顔をまじまじと見つめる。さも「どうしてそんなに慌てているの?」とでも言いたそうな雰囲気を出していた。
達也はしまったと思った。中津川が百合をホテルの一室に呼び出して、告白とか付き合ってほしいとかそういうことを言うのは何となく予想はつく。
しかし、実際に百合の口から「お付き合いしてくださいと言われた」と聞いてしまうと、予想していたにも関わらず百合がどう答えたのか気になって慌ててしまったのだ。
「何てと言われても、断ったに決まっているじゃない。私、中津川さんのことは何とも思っていないし、今は仕事やピアノのことで手いっぱいだし」
慌てている達也と違い、百合は無表情で答えた。達也はホッとすると同時に百合の言葉に「ああ……」とため息が出る思いだった。
「仕事やピアノのことで手いっぱいだし」と言われてしまうと、まるで自分の告白も断られてしまったような気持ちになってしまう。
まあ、そんなのわかりきっていることだ。百合は確かに探偵事務所の仕事に加えてラウンジ「リリア」のピアニストもしているし、かなり忙しい。自分との食事の誘いを断らないだけでも、ものすごくありがたいことなのだ。
「そう、だよね。百合、いろいろと忙しいし」
達也は百合の言葉に同調したが、自分でも声が少し弱々しくなっているのを感じた。
「そしたら、中津川さん、私に突然抱きついてきたの。驚いたけど、その代わり中津川さんのスーツのポケットに入っている封筒を取ることができたというわけ。本当なら、もう少し中津川さんにいろいろと聞き出したかったけど、仕方ないわね」
達也はなぜ百合がここまで詳細に中津川と会った時のことを話してくれるのだろうかと不思議だった。百合にとっては、探偵事務所でクライアントに話す「事後報告」みたいなものなのだろうか。
しかし、達也は少し淋しい気持ちになった。もし百合が自分を少しでも異性として意識していたら、中津川との出来事を詳細に話すのを嫌がるのではないか、と。




