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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
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カトレアのネックレス③

 イリーナ・ホテルのミュージックルームは、5階の隅にひっそりと存在していた。


 達也はミュージックルームのある5階へ行くまで、そわそわとして落ち着かなかった。中津川とどこかでばったり出くわすのを恐れたからだ。


 無意識のうちに百合を守ろうと、彼女と距離を縮めて歩くために早足になる。5階に行く頃には、達也の息が切れ気味になってしまっていた。


 達也はミュージックルームに入ったことはなかったが、百合は何度か利用したことがあるのかもしれない。特に迷うこともなくドアを開けて中に入っていく。達也も百合の後に続いた。


 ミュージックルームの広さは、さっきまで達也と百合がいたツインルームの2倍の広さはあった。


 ソファセットや大型のスピーカーとモニターもあり、窓にはえんじ色の重厚なカーテンがかかっている。壁にはサインが書かれている写真が何枚か額縁に入れられて飾られていた。


 多分、この部屋を使った人物が残したものだろう。中には音楽の教科書で見るような音楽家もいる。


 そして、部屋の奥にはグランドピアノが置かれていた。


 百合はまるで達也がいないかのようにまっすぐピアノへと歩いて行く。達也はソファに座り、百合がピアノのフタを大事そうに開けるのを見ていた。


 どこにいても百合は美しいが、やはりピアノの傍にいる百合は特に美しいと思う。彼女の白い肌と黒いピアノのコントラストは格別だし、一番は百合がピアノを愛しているからなのだろう。


 百合はピアノを弾く時も無表情だが、その音を聞けばピアノを深く愛していることはよくわかる。


 百合はピアノの鍵盤を一つだけ鳴らしてみた。ポーンという高い音が響く。次にもう一つの鍵盤を押すと、今度は足元で震えるような低い音が響く。


 音を聞いた百合は微かに頷いた。もしかすると、調律を確かめていたのかもしれない。百合は無表情のままだが、その音は百合を納得させるものだったらしい。


 百合は静かにピアノの前のイスに座ると、柔らかいタッチで最初の音を奏でた。


 ああ、この曲は。


 達也は思わず声を上げそうになった。


 モーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」だ。


 この曲は達也にとって思い出深い曲だった。あの「マンハッタンの少女」のモデルである母親の桃恵が亡くなった時、百合の母親の葵が桃恵へ手向けるために演奏した曲だ。


 桃恵のお葬式の後。西村家の広間にあるピアノで葵は「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾いた。


 達也も父親の顕も泣いていた。栄一や参列者のほとんどが、桃恵の早すぎる死に涙を浮かべていた。


 ピアノを弾いた葵も、見事な演奏を披露しながら白い頬に一筋の涙を流していた。


 その時、百合はお葬式には来ていなかった。この曲を今ここで弾いているのは偶然なのだろうか。偶然でも必然でも良い。今回の母親の絵の件が良い方向へ行ってくれればいいのだが。達也はそう願いながら軽く瞼を閉じた。



「――達也」


 ふいに甘い匂いがしたかと思うと、肩を叩かれる。


 達也が瞼を開けると、百合が自分の顔を覗き込んでいるのがわかった。


 達也は慌てて身体を起こした。自分はどうやら百合のピアノを聴きながら眠ってしまっていたらしい。


 中津川との対峙、百合との1311号室での出来事。いろいろなことがあった今日この場で、なぜ自分は眠ってしまったのだろう。いや、今日だからこそ眠ってしまったのかもしれない。


 今日はいろいろなことがありすぎた、普段から疲れやすい自分だが、今日は特に疲れてしまったのかもしれない。


 腕時計を見ると、このミュージックルームに入ってから1時間近くは経っている。


 自分が眠る前に百合が弾いていた「亡き王女のためのパヴァーヌ」は7分もない曲だ。自分の目が覚めなかったということは、百合は気を利かせて静かな曲ばかり弾いてくれていたのかもしれない。


「ごめん、百合。百合が真面目に絵のことについて考えているのに、僕、寝てしまって」


「いいのよ。それよりも、もう大丈夫? このミュージックルーム、1時間しか借りられなかったから、もう行かないと」


「あっ、ごめん」


 達也は慌てて立ち上がった。


「1311号室に戻ったら、ちょっと調べたいことがあるの。手伝ってくれる?」


 百合は相変わらず無表情だが、この口振りからすると、考えをまとめてしまったのかもしれない。


 百合の雰囲気も何となくすっきりしているような気がする。百合はピアノを弾くことによって考えをまとめただけでなく、さっきの中津川との一件も多少は吹っ切ることができたのだろうか。


「うん、もちろん。――百合、何か思いついたこと、あるの?」


「そうね。まだ証拠がないから詳しく話せないけど」


「そうなんだ」


 百合は相変わらずすごいな、と達也は思った。自分にもいろいろあったが、今日は百合にもいろいろとあった。しかも、百合は昼間きっちりフルタイムで探偵事務所の仕事をこなしている。


 達也だって、決して自分のことを卑下しているわけではないが、百合の行動を見ていると、どうしても超えられない壁みたいなものを感じてしまう。


「百合、さっき、最初に弾いた曲って」


 廊下に出ると、達也は普段通りの早足で自分の少し前を歩く百合に声を掛けた。


「ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だけど」


「うん、知っているよ。あの曲、葵さんが僕の母さんのお葬式の時に弾いてくれた曲なんだ。知っていた?」


「そうだったの。私、お葬式には行かなかったから、知らなかった。今日、あの曲を弾いたのは偶然」


「うん、驚いた。改めて聞いたけど、すごくきれいな曲だね」


「そうよね。ラヴェル、晩年はひどい記憶障害になってしまったらしいけど、あの曲を聞いたら『すごくきれいな曲だね。誰の作った曲なの?』と言ったそうよ」


「そうなんだ」


「あの曲はラヴェルが好きな曲調だったのかもしれない。自分が作る曲だもの、自分の好きなものを入れるわよね。ラヴェルは曲の中に自分の好きな部分を見つけて、それに反応したのかも」


「そう、なんだ」


 何気ない会話だ。百合だって、自分のラヴェルの知識を何の理由もなくサラリと言ったのかもしれない。しかし、達也は百合の言った言葉が何かしら引っ掛かった。


 ――ラヴェルは曲の中に自分の好きな部分を見つけて、それに反応したのかもしれない。


 達也も「柏木林太郎」として小説を書く時、なるべく自分と言うものを出さないようにしている。しかし、どこかに「西村達也」という人物を匂わせるものが出てしまう。実際に出版された小説を読んで見つけてしまうこともしばしばだ。


 まあ、だからと言って、自分の正体がバレてしまうほどのことではない。芸術家ならどんなに繕ったとしても、そういうほころびは出てしまうものだ。


 もしかすると、百合はラヴェルと自分を重ねて「ラヴェルは曲に中に自分の好きな部分を見つけて」なんて発言をしたのだろうか。


 達也が考えている内に、廊下を歩いている百合との距離が離れて行ってしまう。達也は慌てて歩調を速めた。

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