イリーナ・ホテル1230号室⑤
電話が切れる。達也はスマホの画面をしばらく見つめていたが、そのまま肩を落としてソファに座り込んだ。
百合を中津川の元へ行かせるべきではなかったのだろうか。達也は後悔した。いくら反対しても百合は自分には内緒で中津川の元へ行ってしまうだろう。そうなるよりは、今の状況で行かせたのは、むしろよかったのかもしれない。
達也はソファに座ったものの、気持ちが落ち着かない。立ち上がって部屋の中をうろうろしたり、窓の外から東京の夜景を眺めたりしたが、何をしても頭の中に嫌な想像しか浮かんでこなかった。
想像力は創作する時には必要不可欠だが、今の達也には余計なものにしか思えない。
このまま部屋で指をくわえている状態でいても仕方ない。達也は自分がいる1311号室からそっと廊下に出た。
百合と中津川がいる1230号室と1311号室は階が違う。今からこそこそする必要もないが、達也は思わず用心してしまった。
エレベーターに乗るため、廊下を歩く。
歩きながら達也は思わず自分の胸を押さえてしまった。心臓の鼓動がひどく波打っていて、今にでも身体から飛び出してしまいそうだ。達也は心を落ち着かせるために、深い深呼吸を何回か繰り返した。
自分の心臓の音とは正反対に、廊下はひと気がなく静かだ。たまたま人がいないだけなのかもしれないが、達也はまるで自分が誰もいない世界に迷い込んでしまったのではないかという錯覚まで覚えた。
しかし、人はいる。少なくともこの下の階にある1230号室に、百合と中津川はいるのだ。
深呼吸して落ち着いたかと思ったら、次の瞬間、少し離れたエレベーターが目的階に着いたことを知らせる音が鳴る。普段なら気にもしないだろうが、静かだから余計に音が響く。達也の心臓は、その音で再び激しくどきどきとし始めた。
エレベーターのドアが開く音が聞こえ、誰かの足音が響いてくる。
――百合だ。
達也は足音の方を見るまでもなく、直感で分かった。別に百合や栄一のように足音の種類を聞き分けて、誰かわかったというわけではない。ただ、この足音は百合だ、と直感でわかった。
足音の方を見ると、やはり向こう側から百合が走ってくるのが見えた。
(――あっ)
達也は百合が珍しく慌てて走っている姿を見て、やはり百合を中津川の元へ行かせたのは間違いだったと思った。
いつもの無表情と違って百合は明らかに辛そうな表情をし、青白い顔色をしている。近くに達也がいるというのに、彼に気づく余裕もないみたいだ。
普段は軽々と持っている仕事用のバッグも、まるで錘でも入っているかのように重たそうに抱えている。
「百合!」
達也はさすがにホテルの廊下と言うこともあり、なるべく声を抑えて百合に声をかけた。
百合は達也に気づくと、青白い顔色のまま真っすぐに走ってくる。そして、達也の近くまで来ると、肩で息をしながら何かにすがるように達也の腕を掴んだ。
百合は顔を俯かせているから、今どういう表情をしているのかわからない。
ただ、百合が腕を掴んだ時、仄かに土を思わせるようなほろ苦い匂いがした。
この匂い、中津川がつけている香水の匂いだ。
普通に話しただけで、相手がつけている香水がつくなんてことはないだろう。達也は自分の顔から血の気が引くのを感じた。
百合は顔を俯かせたまま、強い力で達也の腕を掴み続けている。その手は少し震えていた。達也は自分の腕を掴んでいるのとは反対の百合の手をそっと掴んだ。
「百合、大丈夫? とりあえず部屋に行こう」
「――」
百合がうつむいたまま小さく頷く。
達也は百合の後ろを見たが、中津川は追いかけてきてはいない。達也はそのまま百合の手を掴んだまま、1311号室へと戻った。
1311号室の部屋に入るまで、誰にも会わなかった。
達也はもしかして中津川が追いかけてくるかもしれないと用心したが、その気配はない。達也は1311号室に百合を先に入れると、急いで部屋のカギを閉めた。
思わず安堵の小さなため息がもれる。さすがにこの部屋の中まで中津川は来ないだろう。
「百合、大丈夫?」
百合はさっきから一言も口を聞かない。顔も俯かせたままだ。さすがに部屋に入る時に達也から手は離したが、歩いている間はずっと達也の腕を強く掴んでいた。
百合は達也よりも背が低いから、顔を俯かせたままだとその表情がわからない。多分、さっき見たような辛い表情をしているのだろうか。もしかすると、泣いているのかもしれない。
達也は百合をここまで追い詰めた中津川のことを考えると、1230号室に飛び込んで文句の一つでも言いたい気持ちになってきた。
考えたくないが、百合と中津川の間に何があったのは明白だ。
そうでなければ、百合があんなに慌てて青白い顔色をするわけがない。百合の着衣は乱れていないが、百合の身体からは中津川の香水の匂いが仄かにした。達也は自分の身体に寒気が走るのを感じた。
達也は百合が心配だったが、百合も他人にいつもの無表情と違う表情を見せたくないのかもしれない。だから、顔を俯かせたままなのだろうか。
このままそっとしておいた方がいいのかもしれない。達也は自分が一旦部屋から出て行った方が良いのだろうかと思った。
「百合、ごめん。もし、僕がいるのが嫌だったら部屋から出ていくよ。落ち着いたら連絡くれればいいから」
達也はそのまま百合に背を向けて部屋から出て行こうとした。断腸の思いとは上手く言ったものだ。今みたいな状況を表現していることがよくわかる。
しかし、歩き出そうとした瞬間、後ろにいる百合が引き留めるように達也の腕を強く掴んだ。
達也は珍しく自分の勘が外れたのを感じた。
さっきの自分の行動を激しく後悔する。百合は一人になりたかったわけではない。自分にここにいてほしかったようだ。
「百合、ごめん」
達也は振り返るとそのまま百合のことを抱きしめた。百合は嫌がるだろうかという考えがチラリと頭をかすめたが、百合はまったく抵抗しなかった。
さっき感じた中津川の香水の匂いはすでに消えている。ただ百合から発せられる甘い匂いが微かに辺りに漂っていた。
しばらく二人はそのままでいたが、達也はふと我に返った。慌てて百合から身体を離す。
さっきは雰囲気に飲み込まれてしまったが、自分はなんてことをしたのだろうか。
百合はさっきまで、好きでもない男と会ってきて嫌な思いをしてきたのだ。そんな傷心の女性を恋人でもない自分が抱きしめるなんて。いくら自分が百合を好きだからといって、ひどいことをしてしまったのではないか。
達也は自分の顔が赤くなるのを感じた。目の前の百合をまともに見られない。それでも百合がどう思っているのかが気になり、恐る恐る百合を見下ろした。
百合はさっきよりも顔を上げているので、表情がわかった。いつもと同じ無表情だが、彼女の頬はまるで何かに恥ずかしがっている少女のように紅潮している。
「百合、ごめん。あの……」
達也は慌てて謝ったが、百合は紅潮したまま首を横に振った。
「いいの。私こそ、ごめんなさい。もう、落ち着いたから大丈夫。心配かけてごめんなさい」
百合も少し慌てているように見える。さっきの辛そうな表情といい、百合が自分の感情を表すのは珍しい。
「本当に大丈夫?」
「もう大丈夫。ありがとう。中津川さんとは何もなかったの」
「本当に?」
本当に中津川とは何もなかったのだろうか。心配になった達也がもう一度訊くと、百合は諦めたように口を開いた。
「その、中津川さんといろいろと話していたんだけど、中津川さんが急に私に抱きついてきたから、驚いて……。それで、慌てて逃げて来たの」
「全然大丈夫じゃないよ!」
達也は思わず大きな声を上げた。百合は目を大きく見開く。
「でも、本当にそれだけしかなかったの。すぐに逃げて来たし、本当に大丈夫だから」
達也は自分にしては珍しく頭に血が上っているのを感じた。
この間、父親の顕に「マンハッタンの少女」の絵の真相を訊きに行った時よりも、自分は明らかに怒っている。百合が目の前にいなければ、中津川のいる部屋に飛び込んで行ってしまったかもしれない。
本当にあの男は。いくら好きだとはいえ、恋人でもない女性に抱きつくなんて何を考えているのだろうか。
達也は両方の手のひらを握りしめたが、ふと思った。さっき自分も百合のことを抱きしめたではないか。
自分だって、中津川と同じように百合の恋人でも何でもない。
「ごめん、百合。さっき、その……。僕、中津川さんに何も言えないと思う」
達也は慌てて、再び目の前の百合に謝った。さっきから何回百合に謝っているのだろうか。自分の顔がまた赤くなってくるのがわかる。
「それは、達也は中津川さんとは違うから……」
百合はまた顔を赤くして、俯いてしまった。
しばらく、達也と百合の間には気まずいような、それでいて甘いような時間が流れていた。
「そうだ」
百合が突然、思いついたように言う。彼女の表情は今までの流れをバッサリと切るかのように、いつもの無表情に戻ってしまっていた。「中津川さんに抱きつかれてしまったけど、そのおかげでこれを持ってくることができたんだった」
百合はジャケットのポケットから茶封筒を取り出す。
「それ、何?」
「中津川さんの言っていることが正しければ、『マンハッタンの少女』の画像」
「えっ!?」
「中津川さん、ずっとポケットに入れて出し惜しみしていたけど、接近したからそのままかすめ取ることができたの」
百合は達也を手招きすると、部屋の照明が明るいところまで連れて行き、封筒の封を開ける。
百合は完全に普段の探偵事務所で働いている彼女に戻ってしまっていた。達也もさっきまでの甘い空気をしばし忘れ、百合の無表情に付き合う。
いろいろなことがあって中断してしまったが、自分たちが今日イリーナ・ホテルに来たのは、この「マンハッタンの少女」の画像を確認するためだ。
百合が封筒の中に入っていた紙を広げると、達也は懐かしさのあまりめまいに似た感覚を覚えた。
このめまいは、きっと急に時間を巻き戻したからだろう。達也は一気に小学校4年生の頃の自分に戻ったような気持ちになる。
封筒に入っていた紙には、確かに母親をモデルにした「マンハッタンの少女」の画像が印刷されていた。
ネットか何かの画像を引き延ばしたのだろうか。画質はあまりよくない。それでも、まるで自分に向かって微笑んでいるような母親の表情はしっかりと手に取るようにわかった。




