イリーナ・ホテル1230号室④
中津川がラウンジ「リリア」を出て行った後、達也は自分も早々に「リリア」を引き上げた。
中津川の言動は気になるが、「リリア」で考えていても多分答えは出ない。とりあえず、今日のために予約した部屋へと戻った。もちろん、中津川が周りにいないか細心の注意を払いながら部屋へ向かった。
達也が取った部屋はツインの部屋だ。ゆったりとした空間に大きなベッドが二つ、ソファセットもあり、窓からは東京の風景が一望できた。達也の住んでいるマンションも隅に見える。
達也はイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」には足繁く通っているが、実際にホテルの部屋に泊まったことはほぼない。いつも寝起きし、執筆活動している自分のマンションを不思議な気持ちで見つめた。
達也はさっき中津川に会ったことを百合に報告しようかとスマホを手に取ったが、止めた。
百合は仕事の真っ最中だ。変に動揺させたくない。ただ、報告はしなくてはいけないから、夜に百合から連絡が来たらにしよう。百合は「仕事が終わってホテルに着いたら電話するから」と言っていた。
スマホをテーブルに置き、ベッドに横になった。
天井を眺めていると、様々なことが頭をよぎる。
母親の「マンハッタンの少女」の絵のこと、父親の顕や栄一が絵を「知らない」と言われたこと。そして、さっきの中津川との会話。
しかし、一番に強く頭によぎるのは今夜のことだ。高級ホテルの一室で男女が二人きりなんて、危ない想像しか浮かばない。しかも、男は女のことを口説こうとしているが、女は男を拒んでいる。
自分がこの物語を書いている作家だったら、と達也は考えた。そうしたら、自分が男女のいるホテルの一室に飛び込んで、どこかのヒーローのように女を助け出してハッピーエンドにするのに。
少し安易な話の流れになってしまっただろうか。達也が寝がえりを打つと、不意にスマホの呼び出し音がなった。誰かから電話だ。
担当編集者が小説の推敲の進捗でも聞きに来たのだろうか。達也が起き上がってスマホを見ると、それは栄一からの電話だった。
「はい」
達也は今までのこともあり、複雑な気持ちで電話に出た。
「ああ、達也君、休みの日に申し訳ない」
栄一の声は焦っていた。
名探偵が声色だけで焦っていると相手に感じさせるのは、いささか甘いように感じる。
「いえ、かまいません。どうかされましたか?」
「その、百合のことなんだが、昨日、百合と会ったり連絡が来たりしなかったかな?」
どうも栄一は百合が家出したことの探りを入れようと達也に連絡をしてきたらしい。
百合は「達也の部屋にお邪魔している」ことを栄一には口が裂けても言わないだろう。いくら幼馴染とは言え、未婚の女性が未婚の男性の部屋に泊まっているとは親に言えない。
何しろ、百合と栄一は喧嘩しているし、百合が栄一とロクに口を聞いていないことは想像できた。仕事以外のことでは百合は栄一と一切話をしていないのではないだろうか。
栄一はかなり追い詰められているな、と達也は彼に同情した。栄一も百合と同じように優しい人物だ。「娘の家出」という事情があるとはいえ、達也に「絵を知らない」という嘘をついた後に電話するのは、かなり気まずかったと思われる。
それでも電話せざるを得ないほど、栄一はよっぽど娘の百合を心配しているのだろう。
「いえ、特に連絡は来ていませんし、会っていません」
達也は栄一に申し訳ないと思いながら、精いっぱい平常心を装い返事をした。百合には「達也の部屋にいることは、絶対パパに言わないで」と釘を刺されているから、仕方ない。
「そうか……」
「あの、百合、どうかしたんですか?」
達也は勇気を出して訊いた。ここで何も訊き返さないと、反対に怪しまれそうだ。
「いや! 何でもないんだよ。急に変なこと訊いて悪かったね。じゃあ、また」
電話はそのまま切れた。達也はスマホの画面を見つめながら「栄一さん、ごめんなさい」と呟いた。
一日愛娘が家出しただけでも、栄一にはかなりの苦痛だったのだろう。百合に言わせれば「パパが悪いのよ」ということになるだろうが、達也はひたすら栄一に申し訳がなかった。
(――あーあ)
達也は再びベッドの上に横になった。そして起き上がってソファに座ってノートパソコンを開いてみたり、またベッドに寝転がってみたりを繰り返している内に、いつしか夜の帳が落ちて来た。
達也の腕時計の短針が数字の7を指そうとした時、スマホが鳴った。達也が慌ててスマホを掴むと百合からの着信だった。
「もしもし、百合?」
「達也、もう1311号室にいるの?」
百合の声は普段通りと変わらず落ち着いている。これから会いたくない男の元に行くような声色には聞こえなかった。
「うん」
「ありがとう。ちょっと遅くなっちゃった。まいてきたけど、パパに尾行されそうになったの。ねえ、パパから連絡来なかった?」
いくら娘とはいえ、日本一の名探偵の尾行をどうやってまいてきたのだろうか。達也は気になったが、今はそんなことを考えている暇はない。
「うん、来た。百合と会ってないかと言われけど、百合から連絡は来てないし会ってもいないって答えたよ。――それで、実は昼間に中津川さんと会ったんだ」
「えっ?」
百合が素で驚きの声を上げるのは珍しい。
「あっ、会ったと言っても、僕がラウンジ『リリア』にいたら、中津川さんが話しかけてきたんだけど」
「中津川さん、何て言ってた? まさか、今日、達也が1311号室に部屋を取っているとはバレていないわよね?」
「うん、それはバレていないと思う。ただ、よくわからないけど僕に話しかけて来たんだ。で、多分だけど中津川さん、僕が柏木林太郎だって勘づいている。あの盗聴器での会話、聞いていたんだと思う」
「やっぱり、そうだったんだ。ごめんなさい、私が……」
百合の声色は変わらないが、謝ってくるということは柏木林太郎について、自分に非があると思っているのだろう。達也は慌てて口を挟んだ。
「ううん、百合は悪くないよ。少なくともバレたのは中津川さんだけであって、今のところ中津川さんは誰にも柏木林太郎の正体は言っていないみたいだし」
「私も柏木林太郎のことを中津川さんにそれとなく訊いてみる。訊かなくても今日、本人から言ってきそうだけど」
百合の言うことも一理ある。中津川が柏木林太郎の正体を誰にも言っていないのは、正体をバラさない代わりに百合に何かしらの駆け引きをするためかもしれない。
中津川に二つも切り札を与えてしまった、と達也はため息を吐いた。あの「マンハッタンの少女」の画像と柏木林太郎の正体だ。
中津川は今日、百合をどうにかするつもりなのかもしれない。もしくは、他の何かを要求する可能性もある。
「私、1230号室に行ってくる。早く行かないと中津川さんから連絡が来そうだし」
達也は自分の腕時計を見た。百合と話している間に、約束の19時を過ぎてしまっている。達也はこのまま百合を中津川の元に行かせたくなかったが、「うん」と返事をした。
「百合、気を付けて。何かあったらすぐに連絡して」
「わかってる。じゃあ、行ってくる」




