イリーナ・ホテル1230号室③
結局、達也は1230号室とは階が違うが1311号室の部屋を取ることができた。
翌日、百合は「残っている仕事があるから」と休みにも関わらず昼前に達也の部屋から出勤して行った。
百合は仕事が終わったらそのままイリーナ・ホテルへ行き、中津川と会う予定だ。
百合も栄一も休みの日に出勤することは時々ある。百合は休日のガランとした事務所で父親と鉢合わせしたくないのか、栄一のスケジュールを念入りに確認していた。まだ父親に対して怒っているようだ。
イリーナ・ホテルの客室のチェックインは14時。達也は百合と中津川が待ち合わせする19時に行けばよかったものの、14時ちょうどにチェックインしてしまった。自室で百合をモデルにしたミステリー小説を推敲しようと思ったが落ち着かず、結局早々にホテルへ来てしまったのだ。
ホテルに来たところで何もすることがない。部屋の中にいたら今夜の百合と中津川について嫌な想像をしてしまいそうだ。達也はエレベーターで1階に降り、いつものようにラウンジ「リリア」のドアを潜った。
ラウンジ「リリア」には相変わらず穏やかな時間が流れている。達也は少し心が癒されるような気持ちになった。しかし、いつものようにショートケーキを食べるような気分になれない。アールグレイだけをオーダーした。
達也は「リリア」にもノートパソコンを持参していた。「リリア」に行けば、小説の推敲ができるのではないかと思ったが、考えが甘かったようだ。
仕方なく、検索エンジンの検索窓に「エイデン・モーガン」と打ち込む。次回作のために、あの破天荒な絵描きの情報を集める作業をした。エイデンの信じられないようなエピソードを見ていると、少しは気が紛れる感じもする。
「――こんにちは」
ふいに頭上から声をかけられる。
達也はその声を聞いて、寒気を覚えた。今、一番聞きたくない声かもしれない。
顔を上げて、声のする方向を見る。そこにはあの中津川が口元に優しそうな笑みを浮かべて立っていた。
(――こいつ)
達也は自分にしては珍しく、心の中で中津川を罵るような感情が渦巻いた。親しそうな笑顔を見せているのも気に食わない。達也はもしかすると初めて誰かのことをここまで嫌悪したのではないかと思った。
「こんにちは」
達也は百合を見習い、精いっぱいの無表情を装った。中津川のように笑みの一つでも浮かべたかったが、そこまでの余裕がない。
「失礼、お仕事をされていましたか?」
中津川の言葉に、達也の胸が跳ね返る。
達也は慌てて自分に言い聞かせた。待て、普段自分がパソコンで小説を執筆しているからと言って、中津川が「小説を書いているのか?」と訊いているわけではない。今の世の中、ノートパソコンで作業をする仕事なんて、それこそ星の数ほどある。
「ええ、まあ」
達也はわざと忙しそうにキーボードで何かしらを叩き始めた。このまま中津川が立ち去ってくれることを願ったが、中津川はその場から動かない。
それどころか、中津川は達也の向かいのソファに座り始めた。
達也は中津川がソファに座るのを見て、図々しい男だなと思うと同時に、案外これはチャンスなのかもしれないと思った。
今夜、何とか中津川と百合が会うのを止められないものだろうか。
しかし、どうやって? 自分が小説の悪役なら中津川を拘束して監禁できるかもしれない。だが、達也にはそれができるような度胸はないし、いくら相手が嫌な相手でも、そこまでするのは良心が痛む。第一、そんなことをしたら百合の今日の決意を無駄にしてしまう。
やはり自分には無理だ。達也は心の中でため息をついた。
せめて、中津川に自分が覆面作家「柏木林太郎」の正体を知られているかどうかだけでも、聞き出せないものだろうか。
「西村さんは今、桜井さんの事務所で働いているんですよね? 今日はお休みですか?」
「今日は事務所へは行かない日なんです」
達也ははっきりと「今日は休みだ」と答えなかった。さっき中津川に「仕事か?」と訊かれて「まあ」と答えたからだ。
「そうですか。てっきり別のお仕事をされているのかと思いました」
達也は思わず中津川の方を見てしまった。中津川はまるで達也がこっちを向くのを予想していたかのように、余裕そうな笑みを浮かべている。
達也は背中に汗が伝わるのを感じた。この表情、中津川はやはり楽屋での柏木林太郎の会話を聞いたのだろうか。
まずい、と達也は思ったが、ここで中津川に焦っている心中を悟られてはいけない。達也は中津川の言葉に対して何も気にしていないような表情をしながら、再びパソコンのキーボードを叩き続けた。
「中津川さんは? 今日はお仕事ですか?」
達也は精いっぱい頭を働かせて、何とか一つ中津川に質問をした。話題を反らせば、自分が焦っていることを悟られないのではないかと考えたのだ。
「ええ、仕事もありますが、今日の夜、桜井さんと会う約束をしているんです。このイリーナ・ホテルの客室で」
達也はもう我慢できなくなり、キーボードの手を止めて中津川の方を再び見てしまった。
さすがに百合のことを持ち出されてしまったら、自分の感情を抑えきれない。
多分、自分は目の前で微笑んでいる中津川とは真逆の表情をしているだろう。中津川はそんな自分の表情を楽しむかのように、ますます穏やかな笑みを浮かべる。
「そう、ですか」
何とか出てきた声は震えている。達也は自分の気の弱さを悔やんだ。中津川は余裕そうな表情なのに、自分の動揺の酷さはどうだ。
達也はふと、百合には自分よりも中津川の方がお似合いではないのか、とまで思った。
中津川は気に食わない男だが、少なくとも自分よりは何事にも動じない人間なのだろう。百合のために何かをしたいという気持ちは中津川より勝っている自信はあるが、それ伴う精神力が自分にはない。
「はい。桜井さんと西村さんは幼馴染の関係ですよね? 別に私が桜井さんをお誘いしてもかまわないでしょう?」
中津川の言う通りだ。自分と百合はただの幼馴染、今は同じ事務所で働くただの同僚。百合は中津川の誘いを嫌がってはいるが、自分には中津川が百合を誘うのを止める権利はない。
達也は中津川にわからないように、手のひらを強く握りしめた。
「どうして、中津川さんは百合を誘うんですか?」
達也は思わず口から出た言葉に、自分でも驚いた。気弱な自分がこんなストレートな質問を言うのは珍しい。
中津川が百合を誘う理由を知りたいのは本当だ。もし、本当に中津川が百合を好きで誘っているのであれば、それはまだ許せると思ったのかもしれない。
ただ、中津川はあの「マンハッタンの少女」の絵の秘密を知りたいから、行方不明の父親の行方を知りたいから、百合に必要以上に近づいている可能性もある。それなら自分は中津川を永遠に許せないだろう。
はたして、中津川はどの理由で百合を誘っているのだろうか。達也は自分の胸の鼓動が耳元でうるさく音を立てるのを聞きながら、中津川の言葉を待った。
「それはもちろん、私は桜井さんが好きだからです」
達也は中津川がさっきと変わらない笑みを浮かべながら言うのを聞いて、心の中で首を捻った
(――本当なのか?)
百合は美しいし、中津川が百合を女性として魅力的だと思っているのは本当だろう。しかし、自分が思っているのと同じ感情で百合を見ているのだろうか。
「本当ですか?」
達也は中津川をまっすぐに見ながら言った。
まだ自分の鼓動がうるさい。しかし、達也は勇気を出して中津川に自分の疑問を問いかけてみた。
「ええ、本当です。あなたに桜井さんは渡しません」
中津川の穏やかなまなざしに、一瞬鋭い光が宿る。
しかし、その光は一瞬だった。中津川は再び笑みを浮かべると、そのままソファから立ち上がり、ラウンジ「リリア」を出て行った。
達也は去って行く中津川の背中に顔をしかめながら、最後に中津川が言った言葉を心の中で復唱した。
(――僕に百合は渡さない?)
中津川が本当に百合のことが好きなら、確かに同じ女性を好きな達也はライバルだ。しかも自分は「幼馴染」という、百合と非常に近しい関係にある。相手にとってはかなり手ごわいライバルだろう。
しかし、達也は中津川の「あなたには渡しません」という言葉が妙に引っ掛かった。
あの言い方、まるで百合を手に入れたいというよりも、「達也に百合を渡さない」のが本来の目的のような感じがする。
まるで、自分にいやがらせでもしたいような言い方のように聞こえた。




