イリーナ・ホテル1230号室①
結局、百合は達也の部屋に泊まることになった。二人で話しているうちに終電の時間が過ぎてしまったし、週末ということで近くのビジネスホテルはすべて満室だったらしい。
絵の件は明日ゆっくり話すことにして、二人は簡単な夕食を取った。
百合は達也がキッチンに立って、成城石井の冷凍パスタを解凍するのをまじまじと見ていた。百合は相変わらず無表情だが、さも「そんなこともしているのか」と感心しているような雰囲気だった。
百合がそう思うのも仕方ない。今でこそ慣れたが達也は一人暮らしするまで、電子レンジに触ったこともほぼなかった。マンション近くの成城石井での買い物だって、最初は百合がついてきてくれたのだ。
掃除に関しては定期的に清掃スタッフを頼んでいるが、洗濯などの通常の家事は手際よくできるようになってきていた。
百合のスマホには、栄一から連絡がいくつか入っていたようだ。百合は「しばらく帰らないから」と一言だけメッセージを入れて、すべて無視していた。
さすがの名探偵も、娘の家出で仕事どころではなくなってしまうかもしれない。今回の件は栄一が悪いといえば悪いが、栄一の心中を察すと達也は栄一が気の毒になった。
遅い夕食を終えると、達也は百合に寝室やお風呂の場所を案内した。百合は遠慮してリビングのソファで寝ると言ったが、女の子にそんなことさせられない。かと言って一人暮らしの達也の部屋にベッドは一つしかなかった。
達也はベッドのカバーをすべて取り替えて、百合にベッドを譲った。百合は達也があまりにも「いいから」と言うと大人しく頷いた。
百合にお風呂の使い方を教えようとバスルームの扉を開けると、ふわりとラベンダーの良い香りが漂ってくる。達也が普段から愛用しているヤードレーの石けんの香りだ。百合は洗面台に並べておいてある石けんのパッケージに目を止めた。
「これ、達也から時々石けんの匂いがしてくるけど、これだったのね」
そう言えば、前に百合が「石けんのいい匂いがするから」と言っていたことがある。やはりこの石けんの匂いだったのかと達也は思った。
「僕の家だと家族みんなでこの石けんを使っているんだ、ハンドソープもここのだし。母さんが好きだったから。――気に入ったなら、一個あげるよ」
達也が重ねてある石けんを一つ掴んで百合に手渡そうとすると、百合は「別にいいわよ」と遠慮した。
「いいよ、たくさんあるし。百合がこの香り気に入ってくれてうれしいし」
達也の言葉に百合は素直に石けんを受け取り「ありがとう」と言った。そして、石けんを自分のスーツケースにしまっていた。
もう寝ようと電気を消そうとした時、百合は「達也」と呼び止めて来た。
「今日は本当にありがとう。あと、ごめんなさい、いろいろと黙っていて」
メイクを落とした百合はそれでも見入ってしまうほどの美しさだったが、普段より幾分か幼く見える。達也はまるで子どもをあやすように百合の頭を撫でたくなったが我慢した。
「ううん、気にしないで。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
百合が寝室に消えていくのを見て、達也は電気を消してソファに横になった。ソファとは言っても、かなり大きい。身長175センチの達也もすっぽりと収まる。実際、達也は執筆に疲れるとこのソファで仮眠することが多々あった。
百合が近くで眠っていると考えると緊張して眠れない。そう思っていたが、意外と睡魔はすぐに襲ってきた。百合はちゃんと眠れるだろうか、そんなことを考えながら達也はすぐに夢の世界へと入っていった。
翌日。
達也は誰かの叫び声で目が覚めた。叫び声と言う切迫した音を聞いても、深い眠りについていた達也はしばらく自分がどういう状況なのかわからなかった。
昨日は百合が自分の部屋に泊まった。百合に寝室のベッドを譲り、自分はリビングのソファで眠ったはずだ。ソファも寝心地は悪くないが、今自分が横になっているこの心地良さはベッドのマットレスのようだった。
あれ? と達也は目をパッチリと開けた。どうして自分はベッドで寝ているのだろうか。昨夜、自分は確かにソファで眠ったはずだ。
そうだ、と達也は思い出した。自分はソファで眠っていたが、喉が渇いて一回目が覚めたのだ。その後、寝ぼけていた自分は普段の癖で寝室のベッドで横になった。
達也は慌てて身体を起こすと、悲鳴の聞こえた方を見た。
そこにはパジャマを着た百合が、目を見開いた状態で身体を起こしていた。かわいらしいテディベアを抱きしめたまま、固まっている。
「ごめん、百合。僕、昨日の夜に目が覚めて、いつもの癖でベッドに……」
達也は慌てて弁解しようと百合に近づいたが、百合はまた小さな悲鳴を上げた。
その後、百合が落ち着くまでかなりの時間がかかってしまった。
百合はしばらくの間テディベアを抱きしめたまま、青い顔色で動揺していた。普段無表情でクールな百合がここまで動揺するのに達也は驚いたが、朝起きて隣に男が寝ていたら普通は驚くだろう。
達也は夜中に目が覚めて水を飲み、そのまま寝ぼけて寝室のベッドに寝てしまったこと。百合の悲鳴が聞こえるまで熟睡していて何もなかったことを根気よく説明した。
最初は顔色を青くしていた百合だったが、着ていたパジャマが乱れていなかったし、身体に何かしらの覚えがないことを理解したのだろう。やがて落ち着き、普段通りの無表情を取り戻した。
百合が身支度を整えてリビングに出てきた頃には、日はすっかり空の真ん中に登り切っていた。
百合が普段通りの無表情を見せてくれて、達也はほっとした。このことに関しては自分に圧倒的な非がある。今夜からは絶対に同じ過ちを繰り返してはいけない、と自分に言い聞かせた。
「ごめん、百合」
達也がもう一度謝ると、百合は無表情のまま首を横に振った。
「ううん、私も取り乱してごめんなさい。考えてみると、達也はそんなことしないものね」
達也は百合が落ち着きを取り戻したのはよかったが、「そんなことしない」という言葉が引っ掛かった。
やはり百合は自分のことを「ただの幼馴染」としか思っていないのだろう。だったら、自分が隣で寝ていても平然としていそうだが、それとこれとでは話が違うのかもしれない。
百合はソファに座ると、テディベアを抱きしめた。百合が寝室で持っていた、あのテディベアだ。
達也は百合があまりにも自然にテディベアを連れて来たものだから、最初は何も感じなかった。しかし、やはり気になってくる。百合のひざの上で大人しく座っているテディベアを見つめてしまった。
百合は自分がやっとテディベアを持っていることに気づくと、顔を赤くした。
「やだ」
百合は慌ててテディベアを抱いたまま立ち上がったが、達也は首を横に振った。
「百合、テディベアと一緒にいたければ、そのままでいいよ。僕、別に気にしないし。家出に連れて来るなんて、よっぽど大切にしているんだよね?」
百合は気まずい表情を見せると、そのままソファに座り直した。
達也は百合の様子を見て、思わず笑みがこぼれてしまった。最近の百合は感情を表に出してくれるけど、昨日と今日は一段と表情が豊かだ。
百合はしばらく自分の部屋にいる。このまま百合と一緒にいれば、彼女のいろんな一面がもっと見られるだろう。そう思うとワクワクする。まず、彼女がテディベアを大切にしていて、夜抱いて寝ているというのはすごい発見だ。
百合は父親の栄一と喧嘩して家出しているのだから、こういう気持ちは不謹慎かもしれない。しかし、百合が自分に見せたことのない表情を見せてくれるのは、達也にとってはうれしかった。
「このテディベア、私が小さい頃にママがドイツで買ってきてくれたの。それ以来、その、ずっと一緒にいるの」
百合が恥ずかしそうに言うのを見ながら、達也は「なるほど」と思った。
このテディベアは百合にとって母親がいない時の母親代わりだったのだろう。小さい頃からずっと一緒にいる割には、テディベアはかなりきれいな状態だ。きっと本当に大切にしているのだろう。
もしかすると、このテディベアは自分が知らない百合のいろいろな面を見ているのかもしれない。それこそ、百合が父親や母親にも見せていない部分も知っているかもしれない。そう思うと、何だかうらやましいような気もした。
「そうなんだ、やっぱり大切にしているものなんだね」
達也は笑顔でそう答えると、それ以上はテディベアについて何も言わなかった。テディベアは達也と百合が朝食を食べている間も、そのまま百合の隣に座っていた。




