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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
78/100

マンハッタンの少女⑩

 *


(――どうして、達也のお母さんの絵の情報が消えてしまっているの?)


 百合はラウンジ「リリア」の壁にかかっている風景画を見上げながら、心の中で呟いた。


 あの風景画はアメリカの有名な画家エイデン・モーガンがニューヨークのマンハッタンを描いたものだ。


 この風景画と一緒に達也の父親は達也の母親をモデルにした絵を購入し、息子の誕生日にプレゼントした。


 そして、母親をモデルにした絵は、達也の誕生日会の途中で何者かに盗まれる。


 百合はそのことを今でもはっきりと覚えている。達也に「パパが絵を取り戻してくれるから。パパがダメでも、私が絶対に取り戻してみせるから」と言ったことも覚えている。


 なのに、ネットでそのことをいくら探しても出てこない。栄一に「絵のことを覚えているか?」と訊いても「知らない、覚えていない」と繰り返すだけだ。


 百合は父親の栄一を信用している。そんな父親が自分にいい加減なことを言うわけがない。


 何か事情があるはずだ。


 百合はそれ以上、栄一にしつこく訊くことはやめた。その代わり国立国会図書館へ行き、絵が盗まれた当時の新聞記事を探した。


 やはり、新聞記事は見つかった。記事には達也の父親の顕がエイデン・モーガンの絵を2枚も買ったこと、その絵の内の1枚が盗まれたことがちゃんと記載されてある。


(――ネットの情報がすべて消えているなんて、西村のおじ様が絡んでいるに違いない)


 西村財閥のトップにいる人物なら、ネットの情報を消すことは可能だろう。しかし、さすがの顕も国で保管している新聞記事までは消すことができなかったらしい。まさか、新聞記事まで調べるとは思っていなかったのかもしれないが。


 ここまで大掛かりに達也の母親の絵の情報を消すなんて、何か相当な事情があるはずだ。


 百合は栄一に新聞記事を突き出して、もう一度真相を訊こうとしたがやめた。何かしらの事情があるなら、少し様子を見てからの方がいいかもしれないと思ったからだ。


「――美しい絵ですね」


 風景画を見つめている百合の背後から、声が聞こえてきた。


 百合が振り返ると、そこには一人の男が立っている。年齢は自分や達也より年上だろうか。背はそれほど高くないが体格が良く、肌の色も浅黒い。


 達也のような如何(いか)にも文学青年にいそうな「草食系」なタイプとは全然違う、体育会系な印象の男だった。


 この男、見たことない。百合は自分の記憶力には自信があった。雰囲気を見ると、普通のサラリーマンではないだろう。接客業であることはわかる。


「そうですね」


 百合は無表情のまま答えた。知り合いでもない男に声をかけられて無視しても良かったが、今の自分は一応ホテルで働いている人間だ。ホテル内で誰かに話しかけられたら、多少は愛想良くしておいた方がいい。


「この絵、エイデン・モーガンと言うアメリカの画家の作品なんです。モーガンの遺作の内の一枚です。その遺作の中には、そうですね、日本人女性をモデルにした絵もありましたね。『マンハッタンの少女』というタイトルの」


 百合は目を見開いて男を見上げた。多分、今の自分は傍目にも驚いているように見えるだろう。


 この男、達也の母親の絵を知っているのだろうか。ネットでいくら調べても出てこないのに。まさか、たまたま国会図書館へ行って昔の新聞に載っている絵の記事を見たとは考えられない。


 百合の驚いている表情を見ると、男は満足そうな笑みを浮かべた。


「あなたはここのラウンジのピアニスト、桜井百合さんですよね?」


「そうです」


 百合は慌てて無表情を装ったが、内心はかなり動揺していた。


「西村顕さんのご子息の西村達也さんは、あなたの幼馴染ですよね?」


 男の口から達也と達也の父親の名前を聞いて、百合はますます動揺した。


(――どうして、この人、そんなことを知っているの?)


 達也と自分が幼馴染だなんて、知っている人間はごく少数だ。そのごく少数だって、誰かに闇雲に「百合はあの西村財閥の御曹司の幼馴染だ」という人間はいない。


 この男、何者なのだろうか。百合の心臓の鼓動がまるで何かの警告音のように鳴り響く。


 多分、男の目に百合は普段通りの無表情には映っている。それでもかなりのダメージを与えられたと察したのか、男はまた余裕そうな笑みを浮かべた。


「失礼、申し遅れました。私は中津川(なかつがわ)(たかし)と言います。銀座の画商の者です。もし宜しければ、エイデン・モーガンの絵について詳しくお話ししませんか? ご興味がおありのようですし」


 中津川の誘いに百合は頷くしかなかった。



 中津川が働いている画商はイリーナ・ホテルから東京駅を挟んで少し離れた場所にあった。


 看板には「ギャラリー五月(さつき)」と掲げてある。百合はイリーナ・ホテルや桜井探偵事務所付近の店に関しては熟知しているが、このギャラリー五月も知っていた。かなり老舗の画廊だ。


 百合は中津川に案内されて、まるでピエト・モンドリアンの描く現代アートのような線を模した白いビルの中に入る。


 画廊の中には誰もいなかった。もしかすると、今日は休館日なのかもしれない。ビルの外観と同じ白い壁に、いくつかの絵が飾られている。どの絵も素晴らしい作品なのかもしれないが、今の百合の心には何も響かなかった。


 この中津川と言う男、どうして自分と達也の関係を知っているのだろうか。


 達也がラウンジ「リリア」を訪れた時に話をすることはあるから、それを見たとも考えられる。ただ、達也が西村財閥の御曹司で自分と幼馴染だと知っているのはどうしてだろうか。


 用心しなくては、と百合は無表情のまま自分に言い聞かせた。


 百合の心中を知っているのか、中津川は始終余裕そうな笑顔を浮かべている。中津川は画廊の奥の応接室に百合を通した。


 お得意様に絵を見せるための場所なのだろうか。応接室と言うには広い空間に、座り心地の良さそうなソファとテーブルが置いてある。まるでこの空間自体がシンプルな現代アートのようにも見えた。


 百合をソファに座らせた中津川は、笑顔のまま百合の前にコーヒーを置く。香ばしい匂いが辺りに漂ったが、百合は何か飲む気にはなれなかった。


「さて、何から話しましょうか?」


 中津川は百合の向かいに座ると、相変わらず笑顔のままのんきな口調で言った。


「中津川さんはどこまでご存じなのでしょうか?」


 百合が無表情のまま口を開くと、中津川はますます笑顔を見せた。


「どこまで知っていると思いますか?」


「私がイリーナ・ホテルのラウンジのピアニストだということはご存じですよね? あとは達也が私の幼馴染ということも。それ以外にも何をご存じなんですか?」


「桜井さんがあの日本一の名探偵と言われる桜井栄一さんと有名なピアニストの桜井葵さんの一人娘だということは知っています。


 今、ラウンジのピアニストをやりながらお父様の事務所で働いていることも。いえ、事務所のお仕事の方が本業ですよね?」


「おっしゃる通りです」


 自分の素性くらい、少しくらい調べればわかる。実際、百合の写真は出さないまでも葵は娘の百合の話をインタビューなどで話題にすることはある。栄一にとっても葵にとっても、百合は自慢の娘だった。


 自分が父親の栄一の事務所で働いていることも、今のネット社会なら情報はいくらでも拾えるだろう。


 しかし、達也との関係はどうだろう。いくらラウンジで話しているとはいえ、幼馴染と言うことまでわかるだろうか。栄一と達也の父親の顕が同い年で、同じ大学出身なのは調べられるかもしれないが、だからと言って同い年の自分と達也が幼馴染になるとは限らない。


 しかも、達也の母親の絵はネットでいくら調べても情報が出てこない状態だ。


「表情にはお出しになっていませんが、多分、どうして私が西村さんのことや絵のことを知っているか不思議に思っているんでしょうね?」


 百合は無表情を装っていたが、内心思っている通りのことを言われて少し動揺した。この男、やっぱり用心しなくてはいけない。


「はい、達也と私の関係や絵については、調べてもなかなかわかることではありませんから」


「お近づきの印に、私の知っていることを少しだけお話しましょう。まあ、私もすべてを知っているというわけではないのですが。私は西村家と少し関係がある人間なんです」


「だから、絵のことについてもご存じなんですね?」


 百合は言いながら、中津川と言う苗字と西村家の関係について、自分の記憶を猛スピードで辿った。しかし、自分の知る限りこの二つに共通点は見当たらなかった。


「はい」


 中津川は返事をすると、ふいに立ち上がってゆっくりと百合の隣に座った。


 百合は突然の中津川の行動に驚いたが、平然をよそっていた。中津川が近くに来ると、彼のつけている香水なのか、土を思わせるほろ苦い匂いが仄かに漂って来る。


 男性らしい良い香りのはずなのに、百合は反射的に顔をそむけたい気持ちになった。


「私とあの絵の秘密を調べませんか?」


「調べる?」


 百合が思わず中津川の方を見ると、彼との距離が非常に近かった。父親の栄一や達也以外の男とここまで近くで接したことはほぼない。百合は逃げ出したい気持ちになったが、堪えた。


 この男は達也と約束したあの絵の情報を知っている。


 今、自分がここで逃げ出したら、永遠にあの絵を取り戻すことはできないかもしれない。我慢するんだ。自分が我慢すれば、達也との約束を果たせる。


「ええ、そうです。私にはあなたが必要なんです。一緒に調べましょう」


「はい」


 百合は頷いた。まるで中津川の催眠術にかかったかのようだったが、もしかすると自分で自分に暗示をかけたのかもしれない。

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