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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
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マンハッタンの少女⑧

 翌日、達也は上着のポケットに自分のアイディアの成果を忍ばせて、イリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」へと急いだ。


 今日の夜、百合はラウンジ「リリア」でピアノを弾く。もう終わっている時間だ。楽屋に百合を訪ねて、直接「成果」を見せよう。


 今自分が持っている成果を見せれば、さすがの百合も真実を話してくれるかもしれない。栄一や顕は無理でも百合ならきっと、という想いが達也にはあった。


 いや、待てよ、と達也は歩みを止めた。百合の楽屋には、まだあの中津川が仕掛けた盗聴器がある。


 百合は「いきなり外すと、盗聴器を見つかったことが中津川さんにバレてしまうから」としばらくはそのままにしておくと言っていた。


 自分が今から話すことが中津川に聞かれるとまずいわけではないが、中津川に百合と自分の会話は聞かれたくない。


 達也は個人的には一刻も早く盗聴器を外したかった。百合と自分の会話を中津川に聞かれるのは嫌だし、百合が楽屋内を歩いたり着替えたりしている音を中津川に聞かれているかと思うと寒気がするほどだ。しかし、百合は「仕方ないもの」と言っている。


 百合とはどこで話せばいいのだろうか。イリーナ・ホテル内のレストランの個室でもいいが、この間のようにたまたま個室が空いているとも限らない。


 とりあえず、楽屋には行って百合に会おう、と達也が再び歩き始めようとした時、前から百合が歩いて来るのが見えた。百合はいつも持っている仕事用のバッグとは別に、大きなスーツケースを引きずっている。


 百合はスーツケースに気を取られているのか、達也に気づかない。達也が「百合!」と声をかけながら近寄ると、百合はやっと普段通りの無表情でこちらに顔を向けた。


「どうしたの? その荷物。出張でも行くの?」


 百合が出張に行く予定なんて、あっただろうか。少なくとも達也の知る限りはない。急に決まったのだろうか。しかも明日は栄一の事務所は休日なのに。


 達也が考えていると、百合は無表情のまましばらく口を閉じていた。やがて、黙っていても仕方ないという感じで口を開く。


「家出してきたの」


「えっ!? 家出?」


 達也があまりにも意外な言葉に驚き、大きな声を上げると、百合は人差し指を唇に当て、辺りを見渡した。幸いなことに、達也の大声に気づいている人間はいないようだ。


「ちょっと、大きな声出さないで」


「だって、驚くよ。家出って本当? 栄一さんと喧嘩でもしたの?」


 今度は百合だけに聞こえるような小声で訊く。


 まさか、栄一と喧嘩なんて、そんなことないだろう。達也は自分で言っておきながら心の中で思ったが、百合は意外にも頷いた。


「そう」


 百合はいつもの無表情よりは不機嫌そうな表情を見せている。どうやら、本当に栄一と喧嘩したらしい。


「何で? 何があったの?」


 百合と栄一が喧嘩するなんて、信じられない。栄一は百合を溺愛しているし、百合も普段はクールだが、栄一が大好きなのだ。


 達也は小さい頃からかなり頻繁に桜井家に出入りしているが、あの家族はとても仲が良い。自分の知る限り、喧嘩をしているところなんて見たことないし聞いたこともない。


「喧嘩の内容は話せないけど、だってパパが……」


 百合の言葉を聞く限り、喧嘩の原因は栄一らしい。百合が家出するとは、栄一は何をしたというのだろうか。


「百合、これからどうするの? このままイリーナ・ホテルに泊まるの?」


「ここの近くのビジネスホテルにでも泊まろうと思う。さすがにイリーナ・ホテルには何日も泊まれないから。当分、家には帰らないつもり」


 百合は栄一との喧嘩を思い出したのか、その無表情を少しだけゆがめ目を潤ませた。


 達也は目の前の光景が信じられなかった。


 自分は夢でも見ているのだろうか。今までの人生で百合が涙で目元を潤ませているなんてこと、あっただろうか。


 百合は栄一と喧嘩して、相当ショックを受けているのだろう。達也は百合の悲しみを考えると、何とか自分が彼女の助けになれないかと考えた。


「百合、僕の部屋に来ればいいよ!」


 達也は気づくと百合のスーツケースの持ち手を掴みながら、無意識のうちに言っていた。


「えっ!?」


 突然の言葉に、百合はまだ潤んでいる目を見開いた。


「だって、僕の部屋ならイリーナ・ホテルからも事務所からも近いし、一人で住むには広すぎるくらいだから百合がいても全然気にならないし」


 達也はスーツケースを持って歩き出そうとしたが、百合は達也の腕を掴んでそれを制した。


「達也、待って! そんなこと急に言われても……」

 

 百合に引き留められて、達也は我に返った。


 自分の顔が赤くなってくるのがわかる。さっきは夢中だった。百合を自分の部屋に泊まらせればいいなんて、よいアイディアだと思っていた。


 しかし、よく考えてみると恋人でもない年頃の女性を自分の部屋に泊まるように誘うなんて、自分は何と大それたことを言ったのだろう。「百合の助けになりたい」という気持ちが自分を突き動かしたのは真実だが、下心があると思われても仕方ない。


「あっ、ごめん。でも、百合にはいつも世話になっているし、今度は僕が百合を助けたいんだ。どんな事情があるかわからないけど、百合、悲しそうだったし、一人にさせておけないと思って。百合さえよければ、本当に僕の部屋に来てもいいよ。別にやましいことは考えてないし」


「そんなの当たり前じゃない!」


 百合は彼女らしくなくムキになって反論した。百合も達也に下心があるかないかを気にしていたらしい。


 達也はこんな状況にも関わらず百合がムキになっている姿を見て、ふと笑みがこぼれそうになった。


 自分が見下ろしている女性は普段は精神年齢が遥かに高く見えるのに、今はいつもより幼く見える。その黒い瞳にはまだ涙を潤ませていた。


 やはり、今の彼女を一人にさせておくことはできない。いや、させておきたくない。


「百合、とにかく一旦僕の部屋に来なよ。ここで立ち話しているのもあれだし」


 さっきの一連のやり取りに気づいたホテルの客の何人かが達也と百合に注目し始めていた。普段なら、楽屋に行くところだが、楽屋にはまだ盗聴器が仕掛けられている。


 百合は達也から目を反らすと、「わかった」と小さな声で言った。

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