マンハッタンの少女⑤
翌日。達也は栄一の事務所のシフトが入っている日だった。
新作の構想と絵の件で、達也の眠りは浅かった。朝早くから目が覚めてしまい、その勢いでいつもよりも早く栄一の「桜井探偵事務所」へ出勤してしまった。
栄一の事務所はイリーナ・ホテルと達也の住んでいるマンションほど近くないが、ホテルとマンションから歩いて行ける距離にある。達也が秋のすがすがしい朝日を浴びながら事務所へ行ってみると、百合はすでに出勤していた。
「おはよう」
百合は自分の机でノートパソコンのキーボードを叩きながら、達也にチラリと視線を向けた。
「おはよう。――百合、あの」
達也は今この場で百合に絵のことを訊こうかどうか迷ったが、すぐに訊くことにした。仕事が本格的に始まれば百合は忙しくなってしまう。タイミングを逃して訊けないままになるよりも、今訊いた方がいいだろう。
「何?」
「百合、小さい頃に僕の誕生日会に何回か来てくれたこと、覚えているよね?」
「もちろん覚えているけど、何でそんなことを訊くの?」
百合はキーボードの手を止めない。
百合の疑問も当然だ。朝出勤して小さい頃の誕生日会のことを訊くなんて、どんなに百合の洞察力が優れていても「どうしたの?」と思ってしまう。
「じゃあ、小学校4年生の誕生日会だったと思うけど、僕の母さんをモデルにした絵が盗まれたことも覚えているよね?」
達也の言葉を聞いて、百合は一瞬だけキーボードの手を止めた。そして、達也は自分の身体に静電気のようなものがピリッと走るのを感じた。
近くにいる百合に一瞬緊張が走ったのがわかる。時々起こるこの感覚。百合が何か重要なことに触れた時に出す電気のようなものだ。
達也は戸惑った。まるで百合の地雷を踏んでしまったかのようだ。しかし、おかしい。自分はただ単に「母親の絵が盗まれたことを覚えているか」と聞いただけなのに。百合はどうしてここまで緊張感を漂わせるのだろうか。
百合の緊張感は一瞬だけだった。百合は流れるようにキーボードを打ち始めると「絵? 何のこと?」と言った。
達也は百合の言葉を聞き間違えたのだろうかと思った。いや、確かに百合は今「何のこと?」と言った。
「何のことって、あの絵のことだよ。僕の父さんが僕の誕生日プレゼントに買ってくれた、エイデン・モーガンが描いた母さんの絵だよ。『マンハッタンの少女』というタイトルの。ラウンジ『リリア』に風景だけのバージョンが飾られているよね? 誕生日会で誰かが盗んで……」
「そんなこと、あったかな? 達也の誕生日会にお邪魔したことは何回かあるけど、絵が盗まれたことは知らないんだけど」
「そんなことないよ! だって百合、僕に言ってくれたじゃないか。『私が絶対に取り戻してみせるから』って」
達也は必死になって言ったが、百合は軽く首を横に振るとノートパソコンを閉じて席を立った。
「ごめんなさい、本当に知らないの。私、これから出かけるから、後はよろしく」
百合はそのまま出かける支度を始め、事務所を出て行ってしまった。
達也は百合が支度する様子をそのまま黙って見ていた。百合の腕を掴んで強引に「知らないわけがない!」と強く言うこともできたが、達也はしなかった。
多分、百合は絵のことを覚えている。何でもないような無表情をしていたが、絵の話題を出した時に一瞬緊張したのが手に取るようにわかった。本当に何も知らなければ、あんな電気みたいなものが走るわけがない。
ただ、どうして「知らない」と言うのか、理由はわからない。
百合はまるで分厚い鉄の鎧でも着てしまったかのように達也を遠ざけていた。自分がしつこく訊いたところで、鎧がもっと分厚くなるだけだ。
百合がダメなら栄一に訊こう、と達也は思った。栄一も絵が盗まれた時、誕生日会に来ている。
栄一は朝、依頼人のところへ直行し、事務所には昼前に来る予定になっている。達也は書類整理などいつもの業務をしながら栄一が来るのを待った。
栄一が出勤してきて少し仕事をし、事務所を出たのを見ると達也は後を追った。多分、栄一はこのオフィスビル内にあるドリンクコーナーへコーヒーを淹れに行ったのだ。栄一は出勤するとコーヒーを淹れに行くのが日課だった。
「栄一さん!」
達也がドリンクコーナー行って声をかけると、栄一は紙コップを手に持って事務所へ戻ろうとしているところだった。辺りにはコーヒーの香りが満ちている。
「ああ、達也君、今日はコーヒーを飲むのかい?」
栄一が珍しそうな表情をした。達也は普段あまりコーヒーを飲まないからだ。達也は首を横に振った。
「いえ、その、栄一さんに訊きたいことがあって」
「何だろう?」
そう言うと、栄一は美味しそうにコーヒーを飲み始めた。
「小さい頃の僕の誕生日会で、僕の母親をモデルにした絵が盗まれたこと、覚えていますよね?」
達也の言葉を聞いて、コーヒーを飲んでいる栄一の動きが一瞬止まる。達也は自分の身体に静電気のようなものがピリッと走るのを感じた。
この感覚、さっきの百合と同じだ。栄一も百合と同じで、何か重要なことに触れた時に電気のようなものを発することがある。
さすが親子だ、似ている、と達也は悠長なことを考えていられなかった。
栄一は紙コップから口を放すと、まったく普段と変わらないような穏やかな顔をしながら「絵とは、何のことだろう?」と言った。
あの静電気を感じた時、大体の予想はできた。栄一はやはり絵のことを知らないようだ。いや、知らない振りをしているようだと言った方が正確だろう。
絵を本当に知らなければ、なぜ絵のことを訊いた時に緊張が走るのだろうか。
百合も栄一も「絵のことは知らない」と言っている。これはどういうことなのだろう。
「覚えていないんですか? 僕と百合が小学校4年生の時ですよ。僕の父さんが母親をモデルにした絵を買って僕にプレゼントしてくれたけど、その日、誰かに盗まれて……」
「いや、そんなことあっただろうか?」
栄一は首を捻る。
「どうして栄一さんも知らないんですか? 百合も知らないと言うし……」
「百合?」
栄一は一瞬、名探偵らしくなく怪訝な表情をした。だが、すぐに普段の穏やかな表情になってしまった。
「栄一さん、本当に覚えていないんですか?」
達也はさっきの栄一の怪訝な表情が気になったが、それよりもどうして百合も栄一も「知らない」というのか、その理由が知りたかった。
「もしなら、顕に訊いてみたらどうかな? 顕が絵を買ったんだろう? それなら顕が覚えているだろうし」
栄一の言うことも一理ある。せっかく息子のために買い求めた絵を盗まれたのだ。一番の被害者は顕だと言ってよい。顕なら覚えていないわけがないだろう。
(――でも、父さんが本当のことを言うだろうか?)
おかしい、絶対におかしい。達也は心の中で繰り返した。
もしかして絵を盗まれたのは自分の空想が生み出した産物だったのだろうか、と達也は思った。自分は小さい頃から空想ばかりするような少年だった。
だからと言って、母親の絵を盗まれたような記憶を「空想」するだろうか。
しかし、今の栄一に訊いてもこれ以上の答えは得られないだろう。百合とは違う穏やかな口調で「知らない」と言われるだけだ。
「わかりました。すみません、変なことを訊いてしまって。仕事に戻ります」
達也はそのまま栄一に背を向けると、事務所へと戻って行った。




