マンハッタンの少女④
中津川に「柏木林太郎の正体がバレた」かもしれない日から数日。
達也は百合にこそ言わないが、しばらくはびくびくしながら過ごしていた。そして、ネットでのエゴサーチが日課になってしまった。
SNSで「柏木林太郎 正体」と検索する。恐る恐る書かれている文章を見ると、誰もが柏木林太郎の正体に見当違いな推測をしていた。いや、自分は女性でも中学生でも犯罪者でもないのだが。中には「自分が柏木林太郎だ」という吹聴している人物まで現れていた。
達也は柏木林太郎の正体がバレていないことに安堵しつつ、世間とは好き勝手なことをいうものなのだなとため息をついた。
達也の恐れとは裏腹に、百合をモデルにしたミステリー小説の推敲はスムーズに進んでいた。元々柏木林太郎は純文学系の作家だが、エンターテイメント小説でもファンタジー小説でも何でも書く。
今回のミステリー小説はライトなもので、「百合」というモデルもいたし、そこまで気負いせずに書かなくてよかったのも幸いなのかもしれない。
達也はミステリー小説の推敲と並行して、そろそろ次回作の構想を考え始めようとした。
この間、百合に言った通り、次回作は原点に戻って純文学系にしようと思っていた。百合のことを考えると、自然と足が近所のイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」へと向いてしまう。
達也はラウンジ「リリア」の窓際の席に座ると、いつものようにアールグレイとショートケーキを注文した。
平日の昼過ぎ。百合は栄一の探偵事務所でいつも通り働いているはずだ。「リリア」の隅にあるグランドピアノは蓋がしまっていて、まるで弾きに来る誰かをひっそりと待っているようにも見えた。
達也は運ばれてきたアールグレイを一口飲むと、ラウンジ「リリア」の壁にかかっている絵に見た。
エイデン・モーガンが描いたニューヨークのマンハッタンの風景画。タイトルはそのまま「マンハッタン」とつけられていたと思う。達也が小さい頃に盗まれた桃恵の絵「マンハッタンの少女」と一緒に顕が買い求めたものだ。
桃恵の絵が盗まれた後、顕はこの風景画をラウンジ「リリア」に飾ることにした。なぜそうしたか詳しくはわからないが、多分その時ラウンジ「リリア」が改装し、その記念としてイリーナ・ホテルに寄贈したのではないかと思われる。
桃恵の絵は盗まれてしまったが、この風景画は無事だった。その後もこの風景画が盗まれることはない。イリーナ・ホテルは日本有数の高級ホテルで警備に関しては安心できる。しかも人目に付くラウンジに飾ることで、顕はこの絵が盗まれることを防止しようと思ったのかもしれない。
達也は風景画を見ながら、ふと母親の叔父の湊人を思い出した。
湊人は生涯独身だった。自分の姪の桃恵をとても可愛がっていて、自分の娘のように思っていたようだ。桃恵も叔父の湊人が大好きで、湊人がニューヨークへ行ってしまった後も、湊人が夭折するまで交流は長く続いていた。
達也は湊人に会ったことはなかったが、桃恵からよく湊人の話を聞いていた。
「達也は湊人おじさんによく似ているわね」
桃恵は何かあると達也にこう言った。桃恵曰く、達也は性格も顔つきも叔父の湊人によく似ているそうだ。前に湊人の写真を見せてもらったことがあるが、確かに自分と「親子」と言っていいくらい似ていた。
達也は父親の顕にも母親の桃恵にも似ていない。顕も桃恵も社交的で明るい性格だ。達也の妹の菜々も両親に似て活発な女の子だ。四人家族の中で、達也だけが小さい頃から気弱で繊細で感受性が高く、俗にいう「芸術家肌」な人間だった。どうもこの性格は隔世遺伝で湊人に似たらしい。
達也は絵を描く才能はなかったが、その代わり作家になれた。同じ芸術関係の仕事になることができたのも湊人に似たところなのだろうか、と思っている。
湊人はずっと売れない画家をしながら画廊で働いていた。そして、世間から日の目を見ないまま夭折してしまった。真実は本人に聞かないとわからないが、湊人も画家として注目され有名になる将来を思い描いていたのかもしれない。
そう考えると自分は恵まれている。ちゃんと自分の才能を認めてデビューさせてくれた出版社がいるし、新作を待ち望んでいるファンがたくさんいる。
(――そうだ)
達也は思いついた。自分の次回作はこの湊人を書いてみたらどうだろうか。せめて自分の小説の中で湊人を復活させて、読者に彼の存在を知ってもらおう。きっと、亡くなった母親も喜んでくれる。
達也はショートケーキを一口食べた。新しい小説のアイディアを考えながら食べると、普段から美味しいケーキがもっと美味しいように感じられた。
達也は担当編集者に母親の叔父の湊人をモデルにした小説を書こうと思っていることを伝えた。担当編集者も次回の「柏木林太郎」の小説は純文学系がよいと考えていたらしく、達也の持ち込みに賛成してくれた。
さすがに編集者には絵が盗まれてしまったことは言えなかった。小さい頃のことだから詳しく覚えていないが、達也の父親がエイデン・モーガンの絵を2枚も買い取ったことはちょっとしたニュースになっていた。絵が盗まれたこともニュースになっていたはずだ。
達也は盗まれた絵のことは伏せ、「湊人はエイデン・モーガンが出入りしていた画廊で働いていた人物」とさらりと伝えた。
担当編集者は意外にも、この「エイデン・モーガン」という人物に興味を持った。
「エイデン・モーガンって、あのエイデン・モーガンですよね? 生前も亡くなった後もかなり話題になった人物じゃないですか」
そうなのか、と頭に疑問符を浮かべる達也に、担当編集者は「エイデン・モーガンのこと、調べてみるのも面白いですよ」と伝えた。
達也は文学に関しては専門家以上の知識を持っているが、絵画に関しては疎い。エイデン・モーガンも有名な画家だというくらいで、彼の詳しい情報は知らなかった。
達也は自分の部屋に戻ると、早速小説の構想を考え始めた。エイデン・モーガンについては元々調べるつもりだったが、担当編集者に「面白いですよ」と言われると余計気になる。達也はまず、エイデン・モーガンについて調べることにした。
調べてみると、この有名な画家がとんでもない人物だとわかった。
エイデンは小さい頃からずば抜けた絵の才能があり、周りから「天才」「神童」と散々持ち上げられて育ったらしい。そのせいか、いつも自分が一番なのが当たり前で、そうでないと気に食わない性格になった。
一番でいるために努力もしたが、他の人間が自分を出し抜こうものなら相手にいやがらせをするのは日常茶飯事だったらしい。
女性関係も派手だった。エイデンはなかなかの好男子で、常に恋人と呼ぶ女性がたくさんいた。自分の恋人たちがエイデンのことで争うのを見ても、何とも思わないような人物だったようだ。
達也はエイデンを調べ始めて数分で、パソコンをそっと閉じたくなった。次回作のためにも必要なのでそのまま調べ続けはしたが、自分とはまったく違う人間なのだな、と思った。
達也も自分の小説の中にエイデン並みに恋愛に対して奔放な人間を登場させている。作家だから自分に似た人物も自分と全く違う人物も登場させるが、エイデンみたいな「恋人が何人もいる」みたいな人物の気持ちはよくわからない。そして、これからも自分とは接点がないだろうと思っている。
実際、達也は一人の恋人――百合のことだが――を得るのにも非常に苦心していた。
しかし、エイデンという人物は小説の題材としては非常に魅力的だ。達也は担当編集者が「面白いですよ」と言った理由がわかった。
達也は次の小説で湊人をメインにするのはそのままで、エイデンみたいな人物を絡ませるのも面白いのではないかと思った。例えば、湊人とエイデンが恋のライバルだった、美術学校でエイデンを負かした唯一の人間が湊人だった、などだ。
達也は小説の構造を考えながら、ふとエイデンが描いた母親の絵が盗まれた時の報道を見たくなってきた。
この間、絵が盗まれた時の夢を見た。偶然だが、その直後にエイデンと関係ある湊人の小説を書こうと考えたのに、達也は何かしらの縁を感じたのだ。
検索エンジンの検索窓に「西村財閥 エイデン・モーガン」と入力してみる。
顕がエイデン・モーガンの絵を2枚も買い取ったことも家から絵が盗まれたことも、当時報道されていた気がする。母親の絵が盗まれてから何年も経つが、何かしらの情報がヒットするだろう。
達也はそう思っていたが、検索しても西村財閥とエイデン・モーガンに関することは何もヒットしなかった。
かろうじて、エイデン・モーガンの生前未発表だった風景画がラウンジ「リリア」に飾ってある、と誰かが書いたブログがヒットしただけだ。
達也は検索のキーワードをいろいろと変えて入力してみた。
しかし、どんなに探してみても、エイデンの母親の絵と西村財閥の関係性、その絵が西村家から盗まれた事実は出てこない。
それだけでない。エイデンの生前未発表だった作品の中に母親をモデルにした「マンハッタンの少女」の絵があった、という事実もどこにもなかった。「マンハッタンの少女」と言う絵をエイデンが描いた、という事実も出てこない。
(――おかしいな)
普通なら「昔の話だからヒットしないだけだろう」と思うかもしれない。しかし、達也は母親の絵がネット上から消えていることが妙に気になった。いつもの達也の勘だが、何だか心がざわざわする。
(――百合や栄一さんなら、覚えているはずだ)
百合は絵が盗まれた時、自分に「パパが絵を取り戻してくれるから。パパがダメでも、私が絶対に取り戻してみせるから」と言ってくれた。栄一も絵が盗まれた時、あの場にいたはずだ。
達也は百合と栄一に母親の絵のことを訊いてみることにした。




