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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第三章亡き王女のためのパヴァーヌ
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マンハッタンの少女③

 達也もさっきまで食べていた(さわら)の炭火焼きを口にする。料理はどれも上品に盛り付けされているが、どことなく家庭料理を思わせるような穏やかさも感じさせてくれる。


 家庭料理とは言っても、達也には家庭料理を食べる機会があまりなかった。達也は小さい頃に母親を病気で亡くしている。母親は料理を作ってはくれたものの、普段は使用人が料理を作ってくれていた。本当の家庭料理に触れたのは、もしかすると桜井家に出入りするようになってからかもしれない。


 桜井家ではピアノを弾く百合と母親の葵は調理をせず、(もっぱ)ら栄一が料理を作っていた。栄一はまったく料理をしたことがなかったが、葵と結婚することになり、一から頑張って料理を勉強したそうだ。達也にとって「家庭の味」は栄一が作る料理なのかもしれない。


 自分も栄一のように百合のために何かを頑張りたい、と達也は思った。


「これからどうするの? あの盗聴器とか」


 達也が言うと、百合は首を軽く横に振った。


「それもそうだけど、中津川さんに達也が『柏木林太郎』だってバレたかもしれないことが重要だと思うんだけど」


「そうだった」


 達也にとって中津川の正体や楽屋に仕掛けられた盗聴器も心配だが、自分が「柏木林太郎」だとバレた可能性の方を心配しなくてはいけない。


 自分で思うのもおかしいが、柏木林太郎の本は異様に売れすぎた。「覆面作家」というフィルターも読者を(あお)ったのだろう。本は出せばすべてが話題のベストセラーになるし、メディアでも取りざたされる。SNSにもハッシュタグと一緒に「柏木林太郎」の名前が並ぶ。


 今回、新作がミステリー小説だと発表したのも、ネットであまりにも新作の憶測がささやかれ過ぎてしまい、それを鎮静するのが目的だった。


 柏木林太郎の正体を知りたい人は日本中にたくさんいる。正体については「実は女性だ」「実は中学生だ」「実は獄中にいる」といろいろなことが言われている。さすがに誰も本当の正体が探偵事務所で雑用係をしている、日本有数の財閥の御曹司だとは当てていない。


 達也はこのまま覆面作家でいる方が気は楽だった。作家デビューする時に父親の顕と「正体は明かすな」と約束したし、達也も目立つことは好きではない。達也は小説を書いて、それをたくさんの人に読んでもらえば幸せなのだ。


 達也は「もしも柏木林太郎の正体が自分だとバレたら」どうなるだろうかと考えた。


 一個人の「西村達也」としてバレるのは問題はないだろう。だが、日本有数の西村財閥の御曹司だとバレるのはマズい。父親が心配しているようにライバル財閥から「長男がベストセラー作家なんて、西村家の未来も安泰ですね」と嫌味を言われかねない。父親や父親の周りの人間に迷惑をかけてしまうだろう。


 大体、バレてしまったら栄一の探偵事務所のアルバイトも続けられない。探偵の助手にベストセラー作家が来たら「自分のことを小説に書かれてしまうのではないか」と思われてしまう。


 達也は依頼人のことは小説には絶対書かないが、普通の人間ならそういうことを恐れるだろう。百合や栄一にも迷惑をかけてしまう。


 やはり柏木林太郎の正体をバラしてはいけない、と達也は思った。しかもあの中津川に正体を知られたかもしれないなんて。自分は今、かなりピンチな状態ではないのだろうか。


「とりあえず、中津川さんがさっきの楽屋での会話を聞いていたかどうか確認しないと」


「でも、どうやって?」


 百合が直接聞くのだろうか、と達也は思わず止めそうになった。百合が中津川と恋愛関係にないとはわかった今でも、百合が中津川と会うのは嫌だ。


 百合は中津川を迷惑がっているようだが、中津川は明らかに百合をどうにかして誘おうとしている。中津川が百合を好きなのかどうかはわからないが、下心があるのは明らかだった。


「中津川さんが達也の正体を知ったら、それを私に言ってくると思うの。だから、少し待つ。さすがに中津川さんが私に何もアクションを起こさないまま、マスコミに達也が柏木林太郎の正体だとは言わないと思う。


 ごめんなさい、私が早く盗聴器に気づけば、こんなことにはならなかったのに」


「ううん、百合は何も悪くないよ。気にしないで。第一、あんな死角になっている場所に盗聴器がしかけられていたら、絶対に気づかないと思う。それよりも、百合はまた中津川さんに会うの?」


「うん」


「でも、百合は中津川さんと会いたいわけではないよね?」


「うん、まあ」


 百合は彼女にしては珍しく言葉を(にご)した。達也が「中津川に百合を会わせたくない」と思っていることを差し置いても、百合はきっと中津川と会いたくないのだろう。


「百合、あんまり無理しないで。中津川さんに会いたくなければ合わない方がいいだろうし、柏木林太郎のことなら何とかなるだろうし」


「ありがとう。でも、柏木林太郎の会話を中津川さんに聞かれたとも限らない。盗聴器だから近くに中津川さんがいないと聞けないだろうし、少し様子を見てみようか」


 一般的な盗聴器は数十メートルから100メートル程度の距離にいないと電波を受信できない。ラウンジ「リリア」の楽屋から100メートル程度と言うとイリーナ・ホテルの敷地内だろう。たまたま中津川がホテルにいる可能性は低い。もちろん、盗聴した音声を何かで録音でもされていたら、話は別だが。


「そうだね。でも、百合、本当に無理しないで」


「うん、ありがとう」


 百合は相変わらず無表情だ。いつもと何も変わっていないように見える。しかし、達也には今目の前で食事をしている百合が少し小さいように見えた。

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