耐冬花(たいとうか)⑫
「SNSで『今度の柏木林太郎の新作は初のミステリー小説』だって見たけど、本当なの?」
「うん。あまりにも『次回作はなんですか?』って周りが騒いでいるから、編集の人と相談してミステリー小説ってことだけは公表することにしたんだ。発売はもう少し先になると思うけど」
「まさか、達也がミステリー小説を書くとはね。まあ、柏木林太郎としてだけど」
「編集の人から勧められたんだ。『ミステリー小説かホラー小説を書いてみませんか?』って。さすがにホラー小説は無理だから、ミステリー小説にしたんだ。でも、次回作はデビュー作みたいな純文学系にしようと思う。誰かの一生を綴る、みたいな」
「ミステリー小説も次回の純文学の小説も、楽しみにしているわね」
「ありがとう。百合がいつも小説を読んで感想をくれるの、うれしいよ」
チョコレートをもらった上に、百合に小説を「楽しみにしている」と言われた。達也はうれしくて、また笑顔を見せる。そんな達也から百合はなぜか視線を反らした。
「私、ミステリー小説には少し厳しいかもしれないけど」
「うん、いいよ。――百合、これから用事ある?」
「別にないけど」
「じゃあ、その……、一緒に食事でも……」
達也はなるべくさりげなく切り出そうとした。
さりげなく切り出すことは成功したかもしれないが、胸がドキドキする。今書いているミステリー小説の初稿が終わったら、また百合を食事に誘おうと考えていたのだ。
とりあえず、ラウンジ「リリア」でいつものアールグレイとショートケーキを食べてから百合に連絡しようと思っていたが、偶然百合が登場したのだ。
さっきまで笑顔だった達也の表情に緊張の色が走る。
百合は視線を反らしたまま無表情で「別にいいけど」と独り言のように言った。達也は表情を明るくさせた。
「本当? よかった。じゃあ、せっかくだから、イリーナ・ホテルのお店にしようよ。僕、これから空いている場所があるか調べてみる」
達也はポケットからスマホを取り出そうとしたが、手が滑り床にスマホを落としてしまった。
慌ててスマホを拾い上げようとイスから立ち上がった達也は、はずみでイスまで床に倒してしまった。
大きな音が楽屋に響く。
倒れたイスは弾みで壁際まで滑って行ってしまった。
「達也? 大丈夫」
「うん、大丈夫。イス、ごめん。スマホも何ともないみたい」
達也はイスを元に戻そうと壁の方へ行こうとしたが、それよりも早く百合がサッと立ち上がり、イスを拾おうとする。
達也は笠原美優子がラウンジ「リリア」で指輪を落とした時、栄一が自分よりも早く機敏に動いて指輪を拾い上げた時のことを思い出した。
やはり、百合と栄一は親子だ。百合の反射神経の良さは、父親譲りなのだろう。
達也は自分が倒したイスを百合に拾わせるのは悪いと感じ、自分も倒れたイスの元へと慌てて駆け寄った。
(――あれっ?)
達也はイスを拾おうとしゃがんだ百合が、全く動かなくなったのに気付いた。
「百合?」
どうしたのだろう、と百合の顔を覗き込んだ達也は驚いて息を吸い込んだ。
百合は壁の一部を見つめたまま、目を見開いている。百合の虹彩の周りの白目がはっきりと見えた。
この表情。
あのほとんど感情を表に出さない百合が、驚いた時に見せる表情だ。
百合は一体何に驚いているのだろうか。達也が百合の視線の先を追うと、そこには壁コンセントがあった。
そして、その壁コンセントには三角タップが一つ刺さっている。
こんなところにコンセントなんてあっただろうか。達也は思ったが、この場所はちょうど達也たちがいつもいるイスと机が置いてある場所からは死角になる場所だった。
ただ、三角タップがコンセントに刺さっている、そんな何でもない光景だ。なのに、達也は三角タップを見た瞬間、寒気を覚えた。
「――」
百合は目を見開いて壁コンセントと三角タップを見つめたまま、動かない。達也は自分の寒気と相まって不安感に襲われてきた。
「百合?」
達也はもう一度百合に声をかけた。百合は視線はそのままで「達也」と声を出した。その声は百合の驚いている表情とは違い、いつものクールな百合の声だった。
「達也、じゃあ、支度も終わったし行きましょう」
「えっ?」
百合が表情とは違い、あまりにも普通に話しかけてきたので、達也は思わず声を上げた。すると、百合が達也の方を振り向き、立てた人差し指を唇に当てて「黙っていて」と合図をした。
口調は普段通りなのに、百合から発せられる気迫がすごい。百合が何かに緊張していることがわかる。達也は気迫に押されるように小さく頷いた。
百合は倒れたイスをそのままにして、達也の腕を掴んだ。そして、達也の腕を掴んだまま、楽屋を出た。
(――痛い)
自分の腕を掴んだ百合の力があまりにも強かったので、達也は少し顔をゆがめた。百合は普段無表情でクールだが、さすがに手加減は知っている。
今、百合は相当焦っているらしい。間違いない。
(――百合、どうしたんだろう?)
百合は楽屋を出て廊下を少し歩くと、立ち止まった。そして、辺りを見渡して周りに誰もいないことを確認すると、達也の腕から手を離した。
「ごめんなさい、少し、慌てていたの」
達也を見上げた百合は無表情ではあるが、確かにいつもの百合よりも慌てているように見えた。
「一体、どうしたの? 何があったの?」
「達也も見たでしょう? 楽屋のコンセントに刺さっていた三角タップ」
「うん、見た」
達也はあの三角タップを思い出して、なぜかまた寒気を覚えた。
「あの三角タップ、盗聴器よ」
「えっ!?」
達也が思わず大きな声を出すと、百合はまた周りを見渡して達也に向かって人差し指を唇に当てた。そして、「大きな声を出さないで」と小声で言う。
まさか、と達也は思ったが本業の探偵がそういうのなら確かだろう。
(――じゃあ、あの寒気も「何か」が違うという感じも)
自分が感じた異変は楽屋に盗聴器が仕掛けられているからだったのだろうか。もしそうだとすると、盗聴器はかなり前から仕掛けられていることになる。
達也はまた寒気を感じた。
「でも、一体誰が?」
達也は言いながら、一人思い当たる人物がいることを思い出した。
――ラウンジ「リリア」の楽屋にこの絵を置いたのは、中津川さんですよね?
百合を初めて食事に誘った日。
百合は中津川が勝手に楽屋に飾った絵を返そうとしていた。
(――まさか、絵を飾るのは口実で、盗聴器を仕掛けるのが目的だったのか!?)
表情で達也にも思い当たる人物がいると悟ったのか、百合は頷いた。
「うん、多分、これは中津川さんの仕業だと思う」
「でも、どうして!?」
思わず声が大きくなる。百合は辺りを見渡しながら再び人差し指を唇に当てた。
「それにしても、厄介なことになった」
「楽屋での話を聞かれたこと?」
「うん。もし、あの盗聴器が中津川さんだったら、さっきの達也との会話を中津川さんに聞かれた可能性がある」
達也は百合との会話を思い出してハッとした。
さっき、自分は百合と覆面作家のペンネームである「柏木林太郎」の話をしていた。
あの会話内容を聞いたら、誰でも達也の正体が「柏木林太郎」だとわかってしまうだろう。
(――そんな)
達也は自分の顔から血の気が引くのを感じた。




