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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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耐冬花(たいとうか)⑪

 数日後。


 百合をモデルにしたミステリー小説の初稿を脱稿した達也は、久々にイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」を訪れた。


 外はきれいな秋晴れだった。達也はすでに懐かしさすら感じる下界の眩しさに、しばらくは目を細めていた。達也の自室からも太陽の光は差し込んでくるが、実際に外に出て浴びる日光はやはり違う。


 達也がイリーナ・ホテルに入ろうとすると、百合が年上の女性とロビーを歩いているのが見えた。


 隣にいるのは誰だろう。達也は女性の顔を見て、思わず「あっ」と声を上げそうになった。


 百合の隣にいた女性は、笠原美優子だった。


 達也が最初に美優子と気づかなかったのも無理ない。美優子は黒かった髪を明るく染めて、ベージュの柔らかな素材のひざ丈ワンピースを着ている。口紅も明るいピンク色のものを付けていた。


 今まで会った美優子はいつも着物を着ていた。着物の美優子も美しかったが、今の美優子もまた別の美しさがある。


 達也は最後に会った美優子が結婚記念日のプレゼントでスイートピーの花束をもらっていたのを思い出した。今日の美優子はあのスイートピーに似ている。


「達也」


 百合が達也に気づき、美優子と一緒に近づいてくる。


 美優子は達也に向かって、「この間は申し訳ございませんでした、ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をした。


「あっ、いえ、こちらこそ」


 達也はあまりの美優子の変わりようにドギマギした。近くで見ても美優子はこの間の人物とはまったく別人のように見える。


 美優子は柔らかく微笑むと、百合に「今日はありがとうございました」と言い、再び達也と百合にお辞儀をして、イリーナ・ホテルを出て行った。


「美優子さん、どうしたの? 別人みたいになっていて驚いたんだけど」


 達也が訊くと、百合は美優子の後ろ姿を見つめながら言った。


「美優子さん、もう着物を着るのをやめたんですって。ラウンジ『リリア』のアフタヌーンティーで美優子さんが『大学の頃は通訳か翻訳家になるのが夢でした』と言ったの、覚えている?」


「覚えているよ」


 ラウンジ『リリア』で百合が「ご趣味とかはないのでしょうか?」と訊いた時、美優子は「英語が好きで、大学の頃は通訳か翻訳家になるのが夢だった」と語っていた。


「結婚する時、その夢は捨ててしまったそうなの。英語の勉強は続けていたけれど、夢を捨てた自分へのけじめのために、外出する時はずっと着物を着ていたそうよ。


 でも、この間の出来事をきっかけに、もう一度夢を叶えようと思ったんですって。今の結婚生活は続けるけど、『私は私で好きに生きます』と言っていた。大学時代の同級生から翻訳の仕事をもらって、今取り組んでいるそう。着物はもう着ないって」


「そうなんだ」


 達也も美優子の後ろ姿を見た。イリーナ・ホテルを堂々とした足取りで去って行く美優子は、この間よりも美しく、そして強くなったように見える。


 多分、美優子の悲しみはこれからも続くだろう。美優子が「私は私で好きに生きます」とは言っても、結末がハッピーエンドになるかというと、そうではない。水人はずっと鈴子を愛しているだろうし、美優子に振り向くことはないだろう。


 しかし、美優子には今までよりは充実した人生が待っている、そんな気がした。冬を耐える「耐冬花」と呼ばれる椿ではなく、それこそ冬を乗り越えた春に咲き誇るスイートピーのように。


「美優子さん、この間よりも笑顔が増えていたし、楽しそうだった」


「うん、そうみたいだね。――百合、今日はピアノがない日だよね? 美優子さんに会うためにイリーナ・ホテルに来たの?」


「そう、あと高畑さんにも会ってきたの。そうだ、達也、一緒に楽屋に来てくれる?」


 百合に言われて、達也はラウンジ「リリア」の楽屋へ行った。


 楽屋に入った瞬間、達也は「あれっ?」と何かを感じた。


 この感じ、この間と同じだ。達也は楽屋の上下左右をゆっくりと見渡したが、どこからどう見てもいつもと同じラウンジ「リリア」の楽屋だった。


 しかし、達也には「何か」が違うような気がしてならなかった。


「達也、どうしたの?」


 百合に声をかけられて、達也は我に返った。


「ううん、何でもない」


 達也は楽屋に入ってイスに座った。座ったのはいいが、何か心がざわざわして落ち着かない。


 この感じ、何なのだろうか。


「これ、今回の依頼のお礼にって高畑さんから」


 百合が「イリーナ・ホテル」のロゴが印刷されている紙袋を差し出す。達也が中に入っている箱を出してみると、チョコレートの詰め合わせが出てきた。イリーナ・ホテルのECサイトで大人気の、毎回発売後数分で完売してしまうオリジナルチョコレートだ


「あっ、これ!」


 突然のチョコレートの登場に達也は目を輝かせた。さっきまでの心のざわざわも一瞬で吹き飛んでしまう。


「達也、もしかして、このチョコレートの詰め合わせ、食べたことなかった? 西村のおじ様にもらったことないの?」


 百合は無表情のまま達也をまじまじと見ていた。達也は一応、このイリーナ・ホテルを傘下にしている人物の息子だ。達也の反応を意外に思ったらしい。


「ううん、一回か二回食べたことはあるけど、その時は自分で買ったよ。父さんからもらったことなんてない」


「そうなの? 私のパパ、時々西村のおじ様にこのチョコレートもらっているみたいだけど」


 そんなの初耳だ。確かに達也の父親と栄一は大学時代からの親友で非常に仲が良い。しかし、息子よりも親友にチョコレートをあげるとは。達也は少しだけ栄一をうらやましく感じだ。


「そうだったんだ。でも、うれしいよ。このチョコレート大好きだし、今日、ちょうど新しい小説の初稿を書き終わったんだ。そのお祝いみたい」


 達也がニコニコしながら嬉しそうに言う。百合は無表情のまま達也を見ていたが、その目は何かを眩しく見つめるように細くなっているようにも見えた。

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