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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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耐冬花(たいとうか)⑩

 本来なら、目を反らすのは美優子のような気がする。だが、美優子は泣いた赤い目をしてはいるものの、その目はしっかりとした強い光を放っているように見えた。


 百合に計画を見破られて、美優子は気持ちが吹っ切れたのかもしれない。


 そう言えば、今日の美優子は会った時から饒舌で上機嫌のようにも感じた。「今日、鈴子を陥れる計画を実行する」とむしろ自分の思いに整理がついていたのかもしれない。


「ラウンジ『リリア』を出た後、美優子さんはロビーへ生け花のデモンストレーションを見に行きました。ロビーの出入り口から向かって左側の場所に行かれましたよね? 


 どうしてその場所に行かれたかというと、ご主人の水人さんと友田さんがいつも待ち合わせされるアルテミス像の位置から美優子さんの立っていた場所が見えないとわかっていたからではないでしょうか? 


 そして、美優子さんは水人さんと友田さんに気づいた振りをして、右側のエレベーターに乗って『フルール・ド・コルザ』へ行った。どうして水人さんと友田さんが右側にいるのに右側のエレベーターに乗ったのかが不思議でした。二人を避けるなら、左側に逃げるのが普通な気がします。


 多分、デモンストレーションを見学した後、水人さんと友田さんがエレベーターに乗る、ということを知っていて右側のエレベーターへ行ったのではないでしょうか。


 指輪はエレベーターで落とした。そして、その指輪を友田さんがエレベーター内で拾って持って行ってしまった。そういうシナリオにしたかったのでは?」


「その通りです。桜井さんはそこまでわかってらっしゃったんですね。本当にこの指輪をなくして、桜井さんに指輪探しをお願いしていたら、どんなによかったでしょう。そこまでお見通しなら、桜井さんならすぐに指輪を見つけ出していたでしょうに。


 私、こんなことをして本当にバカでした。友田さんに指輪を盗んだと罪を被せても、いずれは主人にバレてしまいます。そうしたら、私はもう今の立場にはいられないのに……。


 でも、それでも私はあの友田さんと主人に何かしてやりたかったんです。ずっと我慢していたから、最後にはそれくらいは、と。


 私のくだらない嫉妬に桜井さんだけでなく高畑さんまで巻き込んでしまって、本当に申し訳ございませんでした。今回の件ですが、もちろん、お礼はお支払いいたします」


「美優子様、私こそ申し訳ございません。私はずっと水人様と友田様のことは知っていました。美優子様がこのホテルに来られなくなったから、もしかしてとは思っていたのですが……」


 高畑が美優子に向かって頭を下げる。美優子は笑顔で首を横に振った。


「高畑さんは何も悪くありません。それよりもこんなくだらない私情に巻き込んでしまい、本当に申し訳ございませんでした。私は久々にイリーナ・ホテルに来て、高畑さんにお会いできて、それに関してはとてもうれしかったんです。


 それにこのスイートピーの花束を用意してくださったのも、高畑さんですよね? 結婚式の披露宴の打ち合わせで『好きな花はスイートピーです』と言ったこと、まだ覚えていてくださったなんて」


 美優子がソファに隅に置いてあったスイートピーの花束を拾い上げ、高畑に笑顔を向ける。


 美優子の言葉に、高畑はますます頭を下げた。


 美優子と高畑の様子を見ていた百合は、ふと座っていたソファから立ち上がった。そして、美優子の隣に座った。


 突然隣にやってきた百合に、美優子は不思議そうな表情を見せる。


「美優子さん、指輪は無事に見つかりました。同じような指輪を身に着けていらっしゃる方を見て勘違いしてしまったようですが、指輪はエレベーターの隅に落ちていたんです。


 ご主人にバレてしまうことを恐れていたようですが、ご主人にも内緒で見つかって良かったです」


 百合はそう言うと、テーブルの上で静かに輝いている指輪を手に取り、美優子の手のひらに乗せた。


 美優子は手のひらに乗せられた指輪と百合の顔を交互に見た。そして、高畑を見て栄一と達也を見た。


 部屋の中にいる人間は、誰一人として百合の「指輪は無事に見つかりました」という言葉に異論を言わない。


「ありがとうございます」


 美優子は指輪を握りしめると、頬にまた一筋の涙を流した。


 達也と百合と栄一は、美優子と高畑とは客室の前で別れた。美優子と高畑は何度も三人にお辞儀とお礼を繰り返していた。


「パパ、急に呼んだにも関わらず、すぐに来てくれてありがとう」


 美優子と高畑の姿が見えなくなると、百合が栄一を見上げながら言った。娘の感謝の言葉に栄一は目元を緩める。


「ああ、百合の依頼の解決の役に立って良かったよ。百合、お前はよくやったな。真実を見つけ出すことは誰にでもできる。でも、真実を見つけ出すことだけが俺たちの仕事ではない。その真実を依頼人のためにどう活かすかが大切なんだ。さっきみたいに、いつもそれを考えるんだぞ」


「うん、わかってる」


 栄一の言葉に百合は頷いた。滅多に笑顔を見せない百合だが、父親の言葉に口角を少し上げ、目を細めている。


 達也は百合の笑顔から目が離せなかった。


 百合が笑顔を見せるのは、大体父親の栄一か母親の葵と一緒にいる時くらいだった。それでも百合は滅多に笑顔を見せない。今は大好きな父親の栄一に手放しに褒められて、さすがの彼女も、それこそ最上級に嬉しかったのだろう。


 百合の笑顔がまぶしい。はたして、自分にもその笑顔を見せてくれる日は来るのだろうか。


 百合が笑顔を見せてくれるような人間になるには、それこそ父親の栄一や母親の葵のようになればいいのだろうか。そんなことを言っても、栄一は日本一の名探偵と呼ばれているし、葵は世界的に有名なピアニスト。あの有名なミュージシャンのパトリック・エヴァンスも葵のファンだった。


 いや、そんな名声だけではないだろう。名声だけ言えば、達也だって日本の文学界で一目置かれている覆面作家の正体だ。


 百合が笑顔を向ける相手は、百合からそれ相当の「信頼」と「信用」を得ている人間なのだろう。百合は父親の栄一も母親の葵も大好きだし、信頼も信用もしている。


 自分も百合に信頼や信用される人間になりたい。


 百合の笑顔を見たいからという単純な理由だけではない。自分は百合が好きだし、百合の支えになれるような人間になりたいのだ。いつも無表情の彼女が感情を出して気持ちを緩めてくれるような人間になりたい。


 これは自分の勘だが、百合には信頼も信用もしている栄一や葵にも見せていない違う面があるのではないのだろうか。それこそ、美優子に感じた「暗い影」のような違う一面が。百合がそういう一面を見せてくれるような人間に自分はなりたい。


「じゃあ、俺は仕事に戻るよ。――達也君、百合に付き合ってくれてありがとう。今回の件が解決したのは、達也君の活躍もあってのことだよ」


「そんな、僕は何も……」


 栄一の言葉に達也は遠慮したが、栄一は首を横に振った。


「いや、達也君が頑張ってくれたからだよ。本当にありがとう、これからもよろしく。じゃあ」


 爽やかな笑顔を残して、名探偵は達也と百合の前から去って行った。


 栄一の姿が見えなくなると、百合は「達也」と声をかけて来る。


「パパの言う通りよ。今回の件、達也が手伝ってくれたから解決できたの。本当にありがとう」


 その瞬間、無表情だった百合が、仄かに口角を上げて目じりを下げたような気がした。


 百合が自分に笑顔を向けている。


 こんなこと、今までの人生であっただろうか。百合が小さい頃はあったかもしれないが、達也が記憶している限りなかったような気がする。


 まるで、目の前の景色がいきなり変わったかのように、心に温かい光が差してくる。雪ばかりの風景を、一気に桜の咲く季節まで早送りしたかのようだ。


 もしかすると、この笑顔は百合にすれば何でもないことなのかもしれない。しかし、達也にとって百合のその表情は自分の人生では画期的な出来事だった。


 達也は笑顔を見せている百合の目をまっすぐに見降ろした。


「僕の百合の役に立てて嬉しいよ」


 達也は笑顔で百合に答えた。百合は達也の笑顔を見ると、それが何かのスイッチだったかのように普段通りの無表情に戻ってしまった。達也はもっと百合の笑顔を見ていたかったのに、と残念な気持ちになった。


 冬に逆戻りしてしまったようだが、笑顔を見せていない百合が平常モードなのだから仕方ない。


「とにかく今回は本当にありがとう。依頼もとりあえず解決したし、今日はもう帰ろうか? 私、ちょっと楽屋に荷物を取りに行かないといけないから」


「あっ、じゃあ、僕も一緒に行くよ!」


 さっさと前を歩き始めた百合の後を達也は慌てて追う。別に百合について楽屋に行く必要はない。ただ、少しでも百合と一緒にいたかった。


 もしかすると、今の彼女ならもう一度笑顔を見せてくれるかもしれない。そんな淡い期待があった。


 相変わらず、百合が少し前を歩いて、達也が少し後ろを歩くという構図のまま、二人はラウンジ「リリア」の楽屋へと向かった。


 百合は相変わらず早足だ。達也と百合の距離は、やはりなかなか縮まらない。


 しかし、あの百合の笑顔。そして、百合は自分の「食事に行こう」という誘いにYesと言ってくれた。


 前に比べると、二人の距離は確実に近づいている。そんな気がする。


(――このまま、もっと距離が近くなれば、いずれは)


 達也はこれからの自分と百合の未来を考えながら、百合に続いてラウンジ「リリア」の楽屋に入った。


(――あれっ?)


 達也は何かが気になり、楽屋の入り口で立ち止まった。


 楽屋を上下左右ゆっくりと見渡す。


 そこにあるのは、いつもと同じラウンジ「リリア」の楽屋だ。しかし、達也は「何か」が違うような気がした。


 もう一度、ゆっくりと楽屋を見渡す。イスの位置は前と少し違うが、それ以外は何も変わったところがない。


 自分の気のせいだろうか。


「どうしたの? 達也」


 百合が入り口で立ち止まっている達也に呼び掛けた。


「あっ、いや、何でもない」


「そう。私、少し荷物を整理するから、そこに座っていれば?」


「うん、ありがとう」


 達也はイスに座ったが、何だか落ち着かない気分だった。達也は荷物を整理している百合を見ながら、この気分は何だろうと考えていた。


(――まあ、気のせいだろう)


 しかし、自分の「気のせい」は案外気のせいで終わらない。そんなことも考えていた。

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