耐冬花(たいとうか)⑦
――大変なことになった。
ソファに座っている達也は心の中で大きなため息をついた。
今、達也はイリーナ・ホテルの客室の一つにいる。部屋の中にいるのは達也と百合、イリーナ・ホテルの総支配人である高畑と美優子、そして友田鈴子だ。
ロビーの生け花の前で、美優子と鈴子が鉢合わせしてしまった。鈴子は例のカメリアの指輪をつけていたため、美優子は驚きのあまり、その場に倒れ込みそうになったのだ。
美優子は百合に支えられながら、「その指輪、どうしてあなたが持っているの?」と譫言ように言っていた。鈴子は気まずそうな表情をしながら、ずっと黙っている。
ロビーにいる客たちが何事かと集まりかけてきたため、達也はホテルのスタッフに総支配人の高畑を呼んでほしいと頼んだ。幸い、高畑は勤務中で自室におり、すぐに駆けつけてくれた。
事が大きくなる前に移動しましょうと、高畑は空いている客室を手配してくれた。そして、みなを速やかに部屋の中へと誘導してくれたのだ。
鈴子は客室に入っても、まだ黙ったままだった。美優子が少しは落ち着いたのを確認すると、百合はなぜか一旦客室を出た。
スマホを手に持っていたから、どこかに電話をしに行ったのだろうか。仕事の電話か何かだろうか、と達也は思った。
さすがの高畑も気まずそうな表情を隠しきれない。それもそうだろう。お得意様の奥様とその夫の愛人が鉢合わせし、しかも愛人はなぜか美優子がなくした指輪をはめているのだ。今、この客室の中で普段通りの表情をしているのは百合だけだった。
達也も自作の小説でいくつかの修羅場を書いてきたが、本当の修羅場はここまで気まずいものなのか。当事者でないにも関わらず逃げ出したいものなのだな、と思い知った。
そして、そんな場でもいつも通りの無表情でいられる百合は本当にすごい、とも思った。
美優子は高畑から渡されたコップの水をごくごくと飲み干すと、さっきよりも落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます、高畑さん。申し訳ございません、ロビーで取り乱してしまいまして。でも、あまりにも驚いてしまって。だって、この方が私の指輪をはめていたものでしたので」
「――」
鈴子はまだ黙っている。さすがに鈴子は目の前にいる女性が自分の愛人の妻だということは知っているのだろう。
達也には鈴子がなぜ黙っているのか、その理由がわからなかった。
鈴子が本当に美優子の指輪を盗んだのか、それとも他に事情があって指輪を持っているのかはわからない。ただ、事実なのは鈴子が美優子のなくした指輪を持っていて、それを左手の薬指にはめているということだけだ。
指輪は未だに美しい輝きを放ったまま、鈴子の左手にはめられたままだった。
「高畑さんは、この方をご存じでしょうか?」
いきなり美優子に話を振られて、高畑は目を見開いた。いくら高級ホテルの総支配人とはいえ、お得意様の奥様とその夫の不倫相手が鉢合わせするなんてことはそうそうないだろう。
「はい、それは……」
「ええ、高畑さんは私を知っています。でも、高畑さんは関係ないでしょう?」
鈴子が突然口を開いた。部屋中にいた人間全員が鈴子を見る。
達也は改めて鈴子の顔をまじまじと見つめた。
45歳ということで、年相応の女性には見える。化粧や服装の感じなど、あのカメリアの指輪をはめても不釣り合いにならない程度の豪華さはあった。しかし、美しさや上品さと言う面から見ると、達也には美優子の方が数倍優れているように思えた。
達也はもし自分が美優子の夫の水人だったら、と考えた。自分が水人なら、美優子に夢中になりそうなものなのだが。しかし、人の好みはそれぞれだ。鈴子には水人にしか感じられない魅力があるのだろう。
「はい、存じ上げております」
高畑は気まずそうに返事をした。鈴子はどうも理由もわからず巻き込まれてしまった高畑を助けようとして初めて口を開いたらしい。それだけ、高畑は客人に信頼と親しみを持たれているということなのだろう。
「そうなんですね、では、私の他の質問にも答えてくださいませんか? どうして、あなたが私の指輪をはめているのでしょうか?」
美優子が今にも泣きだしそうな表情で鈴子を見ながら言う。この表情はもしかすると上品な美優子が精いっぱい鈴子をにらんだ結果のものなのかもしれない。
鈴子は美優子から目を反らしたまま、「これは私の指輪です」と早口で答えた。
「そんなことないです。その指輪は私の夫がオーダーメイドで頼んだ、世界に二つとない指輪のはずです」
「そんなこと知りません。とにかく、この指輪は私の指輪なんです」
「でも、たしかにその椿のデザインは……」
「友田様! 大変申し訳ございませんが、その指輪を確認してもよろしいでしょうか? もしかすると、よく似た別のものという可能性があります」
高畑が必死の表情で言うと、鈴子は観念したような表情をし、黙って指輪を外した。
鈴子がテーブルの上に指輪を置くと、かすかにコトリという音が響く。
美優子と高畑は「失礼します」と言って指輪を手に取った。
百合はバッグの中から指輪の写真を取り出すと、指輪を確認している高畑と美優子の中に入った。
「見比べると、同じ指輪にしか見えませんね」
達也も指輪と写真を見比べたが、まったく同じものにしか見えない。細部のデザインやダイヤモンドの数まで一緒のように見える。
「やっぱり、この指輪は私の指輪です。私が落としたものをあなたが拾って盗んだのですか?」
美優子が震える声で言う。鈴子は視線を反らしたまま「この指輪は私のものです」と答えた。
「そんなことはないです。この指輪は私のものです。私が前にこのホテルのラウンジ『リリア』で指輪を持っているのを見た人がいるんです! 西村さん、そうですよね?」
突然話を振られて、達也は戸惑った。
「あっ、はい、確かにあの時の指輪と同じです」
達也は小さな声でそう答えるしかなかった。
確かにこの指輪は栄一と一緒にラウンジ「リリア」に来た時、美優子が落としたものと同じだ。
しかし、達也の中に何か飲み込めないものがあった。
何かがおかしい気がする。第一、鈴子はなぜ美優子の指輪を拾って盗んだのだろうか。しかも、その指輪を盗んだホテルに堂々とつけてくるのだろうか。
達也は誰とも目を合わせようとしない鈴子を見た。達也の勘だが、鈴子も何かを隠しているような気がする。
(――百合はどう思っているんだ?)
百合はこの展開を予想していたのだろうか。百合は達也の心の中の問いかけに気づかないように無表情のままだ。
ふと百合はバッグに手を突っ込んだ。スマホを取り出すと画面を見て小さく頷く。
「申し訳ございません。少しよろしいでしょうか」
百合の凛とした声が部屋に響くと、部屋中の人間が一斉に百合に注目した。
「はい、桜井さん、何でしょうか?」
高畑もこの状況に困っているのだろう、百合のこれからの発言に期待しているような表情をしている。
「実はこの指輪を見てもらいたい人がいるんです。今、その人が来ました」
百合はそういうと、客室の出入り口へと行ってしまった。
(――指輪を見てもらいたい人?)
達也が誰だろうと思っていると、次に現れた百合は隣に達也もお馴染みの人物を連れて来た。
百合の父親である栄一だ。




