耐冬花(たいとうか)⑥
達也には美優子が嬉しそうに感じているように見えた。そして、何かしら自信を取り戻したようにも見える。
達也は心が温かい気持ちになるのと同時に百合はやっぱりすごいな、と思った。自分は百合と同じことを感じた。美優子はそのままで十分に素晴らしい女性と思っていたのに、それを口にすることが思い浮かばなかった。
百合は思ったことを口にして、美優子をうれしい気持ちにさせた。自信も感じさせたのだ。なかなかできることではない。
「失礼いたします」
その時、ホテルの制服を着た女性スタッフがさりげなく美優子に声をかけてきた。彼女の手にはピンク色のスイートピーの花束が握られていた。
「はい?」
「笠原様、昨日は結婚記念日おめでとうございます。こちらイリーナ・ホテルからのプレゼントです」
女性スタッフがスイートピーの花束を美優子に渡すと、美優子は一瞬呆気に取られたように目を見開いた。しかし、次の瞬間、顔をゆがませて泣きそうな表情をした。
美優子は慌てて目がしらを抑えると、表情を笑顔に変える。
「ごめんなさい、突然のことでびっくりしてしまって。うれしくて泣きそうになってしまいました。ありがとうございます。スイートピー、私の一番好きな花です。覚えていてくださったんですね」
美優子が花束を受け取ると、周りの客からも「おめでとうございます」という声が聞こえてくる。
達也は戸惑った。さっき「結婚記念日おめでとうございます」と言われた時の美優子は、明らかに泣きそうな表情をしていたのだ。しかも、その表情は驚いたりうれしかったりした感情から来たものではない。
さっきの美優子は、悲しくて泣きそうになっていた。
それもそうだろう。夫の不倫を知った直後だ。本来なら祝われてうれしい結婚記念日だが、悲しくなるのも無理ない。
達也は何かを確認するように百合を見た。百合は無表情のまま首をかすかに横に振る。そして「おめでとうございます」と美優子に向かって言った。
達也も百合に習って、笑顔で「おめでとうございます」と言う。
「ありがとうございます、みなさんに祝ってもらって本当にうれしいです」
スイートピーの花束を抱きしめている美優子は、確かにうれしそうにも見えた。しかし、達也には涙を頑張ってこらえているようにも見えた。
達也がお祝いを言ったのを見ると百合は花束を渡したスタッフを手招きし、何やら小声で話しかけた。スタッフは笑顔で「はい、もちろんです」とうなずいている。
「改めて、結婚記念日おめでとうございます」
百合は美優子に向かって丁寧に頭を下げた。「私からもささやかですが、プレゼントをお送りしてもよろしいでしょうか? ――ピアノ、弾いてもいいですか?」
「まあ、うれしいです。ぜひお願いいたします」
「何かリクエストはございますか?」
「そうですね。私が桜井さんを初めてお見かけたした時にこのラウンジで弾いていた曲をお願いできますか? あの曲、確かブラームスの……」
「ブラームスの『2つのラプソディ』の第1番ですね。もちろんです」
百合は会釈をして立ち上がると、そのまままっすぐラウンジの隅にあるグランドピアノの方へと歩いて行った。
イスに座り、ピアノのフタを開ける。
普段、百合がラウンジ『リリア』でピアノを弾く時は、演奏会用の黒いロングドレスを着ている。ドレス姿の百合も美しいが、オフィスカジュアルの百合がピアノの前に座っていても、まったく違和感がない。
辺りには、これから最上の音楽を予感させるような雰囲気が漂っている。
百合がそっと鍵盤の上に指を置いた瞬間、達也は周りの空気に張り詰めたような緊張感を覚えた。
百合の手元から、「2つのラプソティ」の最初のフォルテの音が響き渡る。
雑談を楽しんでいたラウンジ中の客が静かになり、一斉に百合のいるグランドピアノへとくぎ付けになった。
百合のピアノは一瞬にしてラウンジの空気を変えてしまった。客一人一人の身体がブラームスの「2つのラプソティ」のカラーになっていくのが、達也には手に取るようにわかる。
しかし、一人だけ美優子は違っていた。
達也はピアノを弾いている百合を見る振りをしながら、美優子を見ていた。美優子はスイートピーの花束を抱きしめながら、その頬に涙を一粒流した。
誰もが百合のピアノに酔いしれていたが、美優子は何か別のことを考えているようだ。
達也はそっと美優子から目を離すと、ピアノを弾いている百合をジッと見た。
もしかすると、百合がピアノを弾こうと申し出たのは美優子に配慮してのことだったのかもしれない。
結婚記念日を祝われて注目されては、美優子は涙の一つも流せない。それなら、お祝いの振りをしてピアノを弾こう。周りはピアノに注目するだろうから、美優子への注目はなくなる。美優子は誰にも気にすることなく、涙を流すことができる。
達也は百合の演奏が終わるまで、百合がピアノを弾いている姿だけを目で追っていた。
百合の「2つのラプソティ」の演奏が終わり、アフタヌーンティーを食べ終わると、達也と百合と美優子はラウンジ「リリア」を出た。
「今日はありがとうございました」
達也と百合がお礼を言うと、美優子は笑顔で首を横に振った。
「いいえ、こちらこそ。依頼を引き受けてくださっただけでなく、ピアノの演奏までプレゼントしていただけて。ホテルの方からもこんなかわいい花束まで。本当にありがとうございました」
「依頼の件、まだ進捗がなく大変申し訳ございません。何か動きがあればご連絡します」
「いえ、本当にありがとうございます。――そうだ、生け花を見て行ってもいいでしょうか? 私、あの時じっくり見られなかったので」
さっき涙を流していた美優子はどこへ行ったのだろうか。何だか吹っ切れたような嬉しそうな表情をしている。
美優子はまるでスキップでもしそうな軽い足取りで、達也と百合の先を急いだ。イリーナ・ホテルのロビーにある生け花の方へ行こうとする。
(――あっ)
達也はなぜか嫌な予感がした。
イリーナ・ホテルのロビーはいつも通り穏やかな時間が流れている。その穏やかな空気の中に、暗い影のような何かが差し込んできたような気がした。
「笠原さん!」
達也が思わず美優子に声をかける。
今、美優子は生け花の方へ行ってはいけない。達也はなぜかそんな感じがした。
「どうしたの? 達也」
百合が声をかけて来る。
百合は達也が察知した「暗い影」を感じたというよりは、達也の何かに焦っている表情が気になったらしい。
達也は美優子を引き留めようとしたが、遅かった。次の瞬間、達也と百合よりも先に生け花にたどり着いた美優子から「あっ……」という軽い悲鳴のような声が聞こえる。
「美優子さん?」
異変に気付いた百合が美優子の元へ急ぐ。達也も百合の後を追った。
美優子のいる場所行くと、美優子の足元にはさっきプレゼントされたスイートピーの花束が落ちている。
「どうして? どうしてあなたが私の指輪をはめているの?」
目を見開いた美優子の目の前には、美優子の夫と不倫関係にある友田鈴子がいる。
そして、鈴子の左手の薬指には、あのカメリアの指輪が輝いていた。




