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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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耐冬花(たいとうか)⑤

 達也が百合と一緒に食事をしてから、二日経った。


 今日は美優子が百合と達也にラウンジ「リリア」のアフタヌーンティーをごちそうしてくれるという日だ。


 達也は百合と別れてからひたすら小説を書き続けた。百合と一緒に食事をしてから、達也の執筆活動は非常に調子が良かった。やはり精神的に満たされると、創作活動も(はかど)るらしい。


 百合をモデルにした柏木林太郎初のミステリー小説は、もう初稿ができあがりそうな勢いだ。もちろん、ここから編集担当と何度も推敲のやり取りをしなくてはいけない。達也は推敲が苦手だが、今なら百回推敲の戻しをもらってもやりきれるような気持ちだった。


(――これで美優子さんの指輪の依頼も解決すればいいんだけど)


 達也はイリーナ・ホテルへ出かける準備をしながら、ふと美優子を思い出した。


 美優子は夫を愛しているのに、夫には他に愛する女性がいる。自分が百合と一緒に過ごして幸せな気持ちになってみると、美優子の悲しさが身に染みてわかった。


 せめて、美優子の指輪の依頼が無事に解決して、少しは幸せな気持ちを取り戻してくれればいいのに。


 達也はそう思いながら自室を出た。



 ラウンジ「リリア」の今季のアフタヌーンティーは、「モンブランとキャラメル」をテーマにしている。


 達也と百合と美優子が座っているソファ席に、秋らしい、こっくりとした色の小さなケーキたちが運ばれてきた。


 登場したケーキを見て、一番目を輝かせたのは達也だった。普段食べているショートケーキも素晴らしいが、自分の目の前に並べられたケーキたちも非常に美しい。食べるのがもったいないくらいだが、食べるとまた違う美しさが味わえるのだろう。


「指輪を拾っていただいた時にショートケーキを食べていらっしゃったから、甘いものがお好きかなと思って西村さんもお誘いしたんです。本当にお好きなようで良かったです」


 達也の斜め向かいの席に座っている美優子が、うっとりとするような笑顔を見せながら言う。


 自分はよっぽど嬉しそうな表情をしていたようだ。達也は恥ずかしくなり、慌てて表情を引き締めた。


 美優子は今日も着物を着ている。美優子の普段着は着物のようだ。今はベージュ地に枝菊の模様の着物を着ていた。美優子の周りだけ、フィルム映画を観ているかのように趣がある。達也はまた美優子が主人公の小説の構想を思い浮かべそうになった。


 達也の隣、つまり美優子の向かいに座っている百合はケーキの登場にも無表情だ。百合は女性だが、達也や父親の栄一ほどケーキが好きというわけではない。百合も甘いものを食べはするが、彼女の好物はカカオ分の多いチョコレートだった。


「まだお話の件が片付いていないというのに、今日はありがとうございます」


 百合が会釈をすると、美優子はゆっくりと首を横に振った。


「いいえ、桜井さんにお引き受けいただけて、私、心がとても軽くなったんです。それだけでもありがたいです。どうぞ、今日はゆっくり召し上がってください」


「ありがとうございます、いただきます」


 三人はしばらく各々の好きな軽食と紅茶で場を楽しんだ。一番楽しんでいたのは、やはり達也だった。


 ラウンジ「リリア」の名物はショートケーキだが、アフタヌーンティーも有名なのだ。サンドイッチもスコーンもケーキも紅茶も、すべてが美味しい。


 達也は百合と一緒にアフタヌーンティーができるのはもちろん、美優子と一緒に食べられるのもうれしかった。達也は百合のことが特別に好きだが、芸術家らしく世の中の美しいものはすべて好きだ。


 特に美優子は着物を着ているその上品な雰囲気が、日本の近代文学を愛している達也の創作の琴線に触れる。


 美優子は百合と他愛のない話をしながら微笑んでいる。


 美優子ははた目には金銭的にも精神的にも余裕のある、どこかの裕福な家の奥様に見える。実際、美優子の家は裕福だ。プラチナの結婚指輪をはめている手が全く荒れておらず、そこまで家事をしていないことがうかがえる。


 しかし、美優子は夫に婚約指輪としてもらったカメリアの形の指輪をなくしてしまっている。夫は長い間愛人との関係に夢中になっているし、なぜかわからないがその愛人がなくした婚約指輪をはめているようなのだ。


 一見、幸せそうに見える美優子の裏には、これほどの真実が隠されている。自分と百合以外、このラウンジ「リリア」にいる人間にはわからないだろう。


 達也はキャラメルソースのかかったケーキを食べる手を思わず止めた。


 世の中、このケーキのように甘くとろけるような感情や体験だけだったら、どんなに良いだろう。


 しかし、キャラメルの味は甘さだけでできているわけでない。キャラメルソースは焦がして香ばしさを出すからこそ、甘さが引き立たって独特の風味になる。


 自分だって、もし百合の前に中津川という男が現れなかったら、「もっと百合にふさわしい男になりたい」と強く思わなかったかもしれない。


 世の中は甘いだけではない。複雑な味が絡み合っているからこそ成り立っている。その複雑な味の中には残酷なものも含まれているが、時には人を奮い立たせるものもあるのだ。


「大学は音大だったんですね。でも、どうして今のお仕事を選ばれたんですか?」


 美優子はこの間よりも饒舌(じょうぜつ)だ。百合とおしゃべりを楽しんでいるようだった。百合は相変わらず無表情だが、同じ女性同士ということもあるのか、それなりに話は盛り上がっている。


「はい、父親が仕事をしている姿を小さい頃から見ていて、やりがいのありそうな仕事だなとずっと興味を持っていました。困っている人を助けられる仕事でもありますし。もちろん、音楽も人を助けますが、もっと直接的に誰かの役に立てる仕事をやってみたいと思い、今の仕事を選びました」


 百合が淡々と語ると、美優子は「まあ……」と感嘆の声を上げた。


 百合の言った通り、音楽は人の精神的な助けになるし、探偵業はもっと直接的に人を助ける。


 百合の言葉はまるで就活生の面接での模範解答のようにも聞こえた。しかし、達也はこの言葉が百合の本心であると知っている。百合は意外と誰かの役に立つことが好きなのだ。


 百合は小さい頃から演奏活動で家を留守にする葵に変わって家事を率先してやり、栄一を助けていた。ピアノ演奏に考慮して指をケガをしそうな料理はしなかったが、それ以外の家事はほとんどやっていただろう。


「桜井さん、本当に素晴らしいですわ。私は特に何もできることがなくて」


 達也は美優子の言葉が気になった。


 美優子は以前も同じような言葉を言ったような気がする。なくした指輪の詳細を聞きに、イリーナ・ホテルのスイートルームへ行った時だ。


 美優子の表情には嘘偽りはない。本当に百合を「素晴らしい」と褒め称えているのだろう。


 ただ、それに美優子自身を重ねているのが気になる。百合と比べて「私は特に何もできることがなくて」とは言わなくてもいいのではないだろうか。


 美優子は達也の目から見て、そのままで十分に素晴らしい女性だ。話をしていても知的だと感じるし、相手に配慮する対応もできる。なによりも、とても美しい。


 百合も素晴らしい女性だが、人にはそれぞれの個性がある。


 個性は優劣ではなくその人それぞれの特徴だ。優劣はつけられないのではないだろうか、と達也は思う。


「そんなことありません」


 百合は相変わらず無表情のままで首を横に振った。


「いいえ、桜井さんは本当に素晴らしいです」


「いいえ、私は『美優子さんはそんなことがない』という意味で言ったんです」


「えっ?」


 美優子が口元に運びかけた紅茶の動きを止めた。


「私を褒めてくださるのは光栄です。でも、私は美優子さんもとても素晴らしい方だと思います。『特に何もできることがなくて』というほど、何もできないとは思えません」


 達也は思わず百合を見た。百合は仕事の依頼の報告をしたかのような当たり前の表情で紅茶を一口飲んだ。


 達也が美優子を見ると、美優子ははっとした表情で百合を見つめていた。


「そんな……。でも、私、本当に何もできないし、何もやってこなかったんです。大学を卒業してすぐ結婚しましたから、まともに仕事をしたこともありませんでしたし」


「ご趣味とかはないのでしょうか?」


「趣味でしょうか? そうですね、私、英語が好きで大学もそちらの方面へ行きました。今でも英語の勉強はしていますの。大学の頃は通訳か翻訳家になるのが夢でした」


 達也は百合が調べた美優子の調査結果を思い出した。美優子は確かに名門の女子大の英米文学科を出ている。美しい着物姿が印象的な美優子にしては意外だな、と感じていた。


 百合は美優子の返答に少し表情を緩ませた。これが百合の笑顔だということを達也は知っている。その表情は満足げにも見えた。


「ずっと英語の勉強を続けられているなんて、本当にお好きなんですね。好きでも続けるということは難しいです。美優子さんはやはり素晴らしいと思います」


「ありがとうございます」


 美優子は恥ずかしそうに顔を俯かせた。

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