耐冬花(たいとうか)④
達也は百合が「別にいいけど」と答えてすぐ、小さい頃に家族と一緒によく行っていたレストランに電話した。今、自分たちがいる場所から近いところにあるイタリアンレストランだ。確か三ツ星を何度も獲得したことがある店だった。
電話に出てくれたのは昔からホールスタッフ長をしている人物だった。達也がフルネームを言うと、「ちょうど個室が空いております。すぐにご用意いたします」と言ってくれた。
しばらく行っていなかったのに名前を憶えてくれていたことが、達也には嬉しかった。
達也と百合は店までの道を並んで歩いた。百合はなぜか達也に歩調を合わせてくれている。東京の歩道を並んで歩くなんて、まるで恋人同士みたいだなと達也は夢心地のような気分だった。
周りはもう暗くなり始めていたが、達也には通り過ぎていく風景が明るくきらきらと輝いているように見えた。
目的の店に着くと、百合はなぜか目を丸くした。ホールスタッフだけでなく料理長までが直々に挨拶しに来るもてなしを受けると、百合はますます目を丸くした。
達也は百合がどうして珍しく驚きの表情をしているのか不思議だった。達也が両親と一緒に訪れると、お店の人はいつも総出で迎えてくれる。達也にとってはこれがいつもの風景だ。
案内された個室は達也が父親や今は亡き母親とよく食事をした部屋だった。シャンデリアと暖炉があり、イタリアのヴィラをイメージしたものだ。大きな窓からは、東京の夜景が一望できる。
座り心地の良いイス、しわ一つない真っ白いテーブルクロスの上に置かれたワイングラスやさりげない生花。
達也は小さい頃に両親とよくここに訪れた時を思い出し、胸がいっぱいになった。そして、今日百合と一緒にここに来ることができて本当に良かったと思った。
(――何か行動を起こせば、いろいろなものが変わるんだな)
達也は改めてそう感じた。
パトリック・エヴァンスを狙っていた男が百合を襲おうとした時、自分は夢中になって百合の前に飛び出した。あの時、自分が思い切った行動をしなければ、百合はどうかなっていたかもしれない。
そう考えると、行動することは本当に大切なのだと思い知らされる。
「達也、この店にはよく来るの?」
席に座ると、百合が訊いてきた。
「うん。最近はあまり来ていないけど、母さんが生きていた頃はよく父さんと三人で来ていたんだ。お店の人、僕のことを覚えていてくれて嬉しかった」
「そう。確かに達也や西村のおじ様のことはよく覚えているでしょうね」
「百合、何飲む? ワインもあるけどソフトドリンクにする?」
「そうね、ワイン、少し飲もうかな」
百合がアルコールを飲むなんて珍しい。百合は母親の葵に似てアルコールには強かった。しかし、栄一が全くの下戸で百合自身もあまりアルコールが好きではないらしく、滅多に飲まない。
達也も栄一ほどではないが、アルコールには強くない。それでもせっかくだからとソムリエにおすすめのワインを選んでもらった。
ふいに胸がどきどきすることはあるにしても、達也は普段百合と一緒にいる時はそこまで緊張しない。しかし、職場でもなくラウンジ「リリア」の楽屋でもなく、初めて一緒に訪れたレストランで百合と向かい合ってみると、達也は不思議と緊張を覚えた。
こういう時、何を話せばいいのだろうか、と達也は考えた。
普段百合とは仕事の話以外はあまりしない。たまに百合が達也の小説の感想を言ってくれて、それをきっかけにお互いどんな本を読んでいるのか話すくらいだ。達也は職業柄相当な読書家だが、百合も本はよく読んでいた。
桜井家へお邪魔する時も、主に話すのは父親の栄一か母親の葵だった。特に葵はおしゃべりで、演奏活動で行った世界の国々のことをよく話してくれたものだ。
大体、百合は達也が遊びに行っても、日常のピアノの練習や勉強を欠かさず、晩餐の途中で席を外すこともよくあった。
そう考えてみると、自分は百合のことをあまり知らないのかもしれない。
普段、百合はどういう音楽を聴くのか。多分クラシックだろうが、栄一はローリング・ストーンズを含めたUKロックが好きだから、もしかするとお気に入りのアーティストがいるかもしれない。
普段はどこで買い物をするのか、休日は何をしているのか、友人関係はどうなのか、今まで好きになった男の子がいたのか。百合に関しては知らないことが多いような気がする。
今日で百合のことをすべて知るのは難しいだろう。それでも、今日をきっかけに少しずつ百合の知らない部分を知りたい、と達也は思った。
運ばれてきた料理を、百合は少しだけ美味しそうな表情で食べていた。実際、この店の料理はとびきり美味しい。普通の女性なら、もっと「美味しい!」と笑顔で言うものだろうが、普段の百合の無表情を知っている達也にとっては、これだけでも十分嬉しかった。
今日の百合はやはり普段よりも表情が豊かだ。達也と百合はその後、達也が望んでいるような仕事抜きの他愛のない話をぽつりぽつりと話した。
「そうだ、達也。美優子さんのことだけど」
デザートが運ばれてスタッフが個室を後にすると、百合が思いついたように言った。
そうだった、今日は美優子の依頼で進展があったどうか訊くつもりだったのだ。百合もその件について何か言いたそうな雰囲気だった。
「今日、それを訊こうと思っていたんだ、忘れていた」
念願の二人きりの食事の願いが叶って、達也は自分の真の目的が何だったのかがすっかり忘れていた。
「達也、明後日は時間ある? 美優子さんが依頼を引き受けてくれたお礼に、ラウンジ『リリア』で私と達也にアフタヌーンティーをごちそうしたいそうよ」
「アフタヌーンティー? 明後日は特に用事はないけど、どうして?」
普通、お礼といったら依頼が成功してからではないだろうか。今回の場合はあのカメリアの指輪が見つかってからが相応しいはずだ。達也は当然ともいえる疑問を感じた。
「そうよね。私も『依頼が解決したら』とお伝えしたんだけど、美優子さんがどうしてもとおっしゃるの。だから、達也も明後日に『リリア』に来てほしいの」
「もちろんいいよ。ちなみに指輪探しの方はどうなったの? どうしてあの友田鈴子さんが美優子さんの指輪をつけているかとか、何かわかったことはある?」
「何もない」
何もない、と言いながら百合は相変わらずの無表情だ。達也にはこの百合の無表情が今回の依頼に勝算があるのか、それとも望みがないのか、どちらなのかわからなかった。
「友田さん、どうして美優子さんの指輪をはめていたんだろう? あの指輪、オーダーメイドで同じものはないと聞いていたけど。大体、水人さんは友田さんが指輪を持っていると知っているの?」
「わからない。でも、私が一人で水人さんと友田さんを待ち伏せした時、あの指輪ははめていなかったと思う。まあ、水人さんに隠れて見えていなかった可能性もあるけど」
「ちなみに百合は今回の依頼、どう思う? 何か解決に向けてヒントとか掴んでいるの?」
「少しはね」
「えっ? そうなの?」
やはり、百合はあの指輪について何かを掴んでいるようだ。
「でも、今は確信がないの。ただ、友田鈴子さんがあのカメリアの指輪をつけているのを見て、何となくどういうことなのかはわかってきた」
「そうなんだ。僕は混乱しかなかったけど」
「とりあえず、明後日のアフタヌーンティーに来て。もしかすると、そこで進展があるかもしれない」
「わかった」
達也と百合は食事を終えると、店を後にした。帰る時もお店のスタッフが総出でお見送りしてくれた。
達也は久しぶりにワインを飲み、自分の頬が赤くなっているのを感じた。
ものすごく気分が良い。
百合は何か厄介ごとを抱えているみたいだし、美優子の指輪の真相もまだわからない。そんな時に「気分が良い」なんて感じるのは不謹慎かもしれないが、気分が良いのは本当だ。
イリーナ・ホテルのロビーで中津川が現れた時は自分でも珍しくイライラしたが、その感情が吹っ飛ぶくらい、今の達也は気分が良かった。
達也は百合を店の近くの地下鉄の入り口まで送った。百合は達也よりも遥かにワインを飲んでいたが、顔は赤くないし足取りも普段とまったく変わらなかった。
「今日はありがとう。料理もワインもとても美味しかった」
百合は地下鉄の入り口で達也を振り返った。
「ううん。僕こそありがとう。僕も久しぶりにあのお店に行けて嬉しかったよ。百合と一緒に行けて良かった」
「じゃあ、また明後日」
百合は達也に背を向けると、地下鉄の階段を降りようとした。
「百合!」
達也は百合の背中に声をかけた。百合が再び振り返る。
「何?」
「あの……」
達也は口から出かけた言葉を一旦ひっこめたが、さっき自分が感じた「行動することは大切」という言葉を思い出した。「あの、また、その内に一緒に食事に行こうよ。百合の、その、時間のある時で構わないから……」
達也は言ってから「言ってしまった」と、ワインを飲んで赤くなった顔をさらに赤面させる。
達也と違い、百合は無表情のままだ。そして、達也から視線を反らすと「いいけど」と呟くように言った。
「えっ? いいの?」
「うん、別にいいけど。じゃあ、また明後日」
百合はもしかすると地下鉄がもう来るとわかっていたのかもしれない。そのまま達也に背を向けて、地下鉄に吸い込まれるように行ってしまった。
達也は一人、地下鉄の入り口に残された。
いつも百合が自分の元を去る時、ちょっとしたさみしさを感じる。今日はさみしさが強かった。さっきまで自分の思い出の店で百合と一緒に過ごしていたのに、今は一人になってしまったからだ。
しかし、同時に幸せな気持ちも強かった。
達也はそのまま彼にしては珍しく、軽い足取りで帰路についた。
体力のない自分だが、今なら地球を一周するくらいのことができるのではないだろうか、そんな気持ちだった。




