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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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耐冬花(たいとうか)③

 達也には百合が少し笑っているように見えた。周りの空気がほんのりと柔らかくなる。


「ありがとう」


 次の瞬間、百合は意外な言葉を口に出した。


「えっ?」


「私のこと、連れ出してくれてありがとう。実はどうやって中津川さんの誘いを断ろうか考えていたの。事情があって、はっきりと断れなくて。達也が強引に連れ出してくれて助かった、ありがとう」


 百合の言葉を聞いて、達也は目の前の風景が明るくなるのを感じた。


 まるで、ショパンの幻想即興曲が流れていたのが、いきなり英雄ポロネーズに変わってしまったかのイメージだ。


 百合のこの言葉、達也が恐れていた予想をすべて覆すものだった。


 百合は中津川の誘いを断ろうとしていた。つまりは百合と中津川は恋愛関係でない。「ケンカ中」ということも考えられるが、さっきの会話からするとケンカ中とは考えにくい。


「そうなんだ。僕、てっきり百合とあの中津川という人が付き合っているか何かだと思っていた」


 達也が思わずポロリと口にすると、百合は彼女にしては珍しく慌てて首を横に振った。


「やだ、そんなことないわよ。何言っているの?」


 百合は達也から視線を反らす。その表情にはわずかながらも本当に嫌そうな気持ちが現れているように見えた。


 百合が言っている「そんなことはない」は本当で、本心らしい。


 やはり百合が言った通り、百合と中津川は恋愛関係にはないのだ。


(――じゃあ、僕だって百合と恋愛関係になれる可能性がなくはない!)


 達也は思わず、その場で飛び跳ねそうになった。


 自分の考えていたことが勘違いだったとわかっただけではない。百合は自分の行動に対して「ありがとう」「助かった」と言ってくれたではないか。


 さっき中津川から無理に百合を連れ去った行動は、百合の役に立っていたのだ。


 達也は今更ながら、あれこれ考えずに自分の思った通りに行動して本当に良かったと思った。


 でも、と達也は喜びの中に疑問を感じる。


 百合は中津川の誘いを「はっきりと断れなくて」と言っている。これはどういう意味なのだろうか。


「百合、でも『はっきり断れない』ってどういう意味?」


 百合がはっきり断れないのは珍しい。達也は百合がラウンジ「リリア」で何人もの男性から誘われているのを知っているし、その都度百合がきっぱり断っていることも知っている。


 断られた男性の中には達也も一目置くような経営者や有名人がいたにも関わらず、だ。


 中津川は世間一般に言えば「好男子」とも言える見た目だし、「絵が」と言っているから、画商か何かの仕事をしているのだろう。身なりも良さそうだから、かなり稼いでいるのかもしれない。


 しかし、百合が今まで誘いを断った男性の中から群を抜いて魅力的な人間だとは言えない。


 まさか百合は中津川の誘いを断れないような、弱みか何かをにぎられているのだろうか。


 達也の問いかけに、百合はすぐに返事をしなかった。達也に言う言葉を考えているようだ。いつもは行動力と即断力がある百合が、数秒でも答えることに戸惑うのは珍しい。百合はかなり厄介な問題を抱えているのだろうか。


「ごめんなさい。今はその理由は言えない。でも、そのうちに話せるようになると思うから。あと、中津川さんのことは誰にも言わないで、パパにも内緒にしておいて」


「えっ?」


 百合の意外な言葉に達也は思わず聞き返した。やはり百合が抱えているものは相当厄介ならしい。


「ごめんなさい、内緒にしておいて」


 百合はもう一度、念を押すように言った。

 

 二度も謝った百合は、いつもよりも弱く(はかな)いように見える。栄一の事務所で働いている時やラウンジ「リリア」でピアノを弾いている時の、堂々としている百合とは違った。


 達也にはいつもの堂々としている百合だけでなく、今の儚い百合も魅力的に見えた。


 いつもの自分は百合に頼りっぱなしだ。事務所では百合の助手みたいな仕事しかできないかもしれない。しかし、今目の前にいる百合に対して、自分は頼りがいのある男になれるかもしれない。


 いつも百合が自分を助けてくれるように、百合を助けることができるかもしれない。


 達也は百合の「ごめんなさい」の言葉に、首をゆっくりと縦に振った。


「わかった。誰にも言わない、栄一さんにも内緒にしておくよ。何か事情があるみたいだし。でも、僕で良ければいつでも相談して。百合にはいつも助けてもらってばかりだし、僕も百合を助けたいんだ」


 達也の言葉に百合は黒い瞳を見開いた。しばらく二人は黙って見つめ合っていた。


 達也は百合と見つめ合っている間、仄かに幸せな気持ちを感じていた。他の人間に比べれば無表情の部類に入るかもしれないが、今日の百合は普段と違って表情がくるくる変わるような気がする。


 もっと百合のいろいろな表情が見てみたいと思った。


「ありがとう。今日の達也はいつもと違うみたいに見える」


 先に沈黙を破ったのは百合だった。


「そうかな?」


「うん」


 百合はふと普段通りの無表情に戻ると、辺りを見渡した。「イリーナ・ホテルから結構遠い所へ来ていたみたいね、私たち」


「そうだね」


 達也も辺りを見渡した。イリーナ・ホテルを出た時は夢中になっていて気づかなかったが、この場所はホテルからかなり歩いた場所だった。国会議事堂や国会図書館の近くまで来てしまっている。


「私、国会議事堂前から地下鉄に乗って帰ろうかな? 達也は歩いて帰るでしょ?」


「あっ、うん」


 達也はこのまま百合と別れるのが惜しかった。腕時計に目を落とした百合に「あの、百合……!」と声をかけた。


「何?」


「百合って、これから特に用事ないよね?」


「ないけど」


「じゃあ、よかったら僕と一緒に、食事にでも……」


 達也は思い切って、今まで自分が百合に言いたかったことを口にしてみた。


 何とか勇気を振り絞り、なるべく大きくはっきりとした声で言おうとしたが、最後の方は弱々しい声になってしまう。


 達也は言ってしまってから、これで断られたらもう永遠に百合を誘えないし、告白なんてもっての他になるだろうと思った。ここで百合を誘ったのは、一種の賭けかもしれない。


 しかし、百合は自分にお礼を言ってくれたし、中津川と恋仲ではないとわかった。何よりも今日の百合はいつもよりも表情が豊かだ。もしかすると自分は賭けに勝てるかもしれない、と思ったのだ。


 百合は少しの間、無表情で達也を見ている。達也にはこの数秒が永遠の時間にも感じられた。


 百合はふと達也から視線を反らすと「別にいいけど」と呟くように言った。


 達也は一瞬、聞き間違えたかと思った。


「百合、今、何て言ったの?」


「『別にいいけど』って言ったんだけど」


「本当にいいの? だって、あの中津川って言う人の誘いは断ろうとしていたし、今までも何人もの人の誘いを断っていたよね?」


「達也と中津川さんは違うもの」


 達也は再びその場で飛び跳ねそうになった。

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