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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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耐冬花(たいとうか)②

「こんにちは、桜井さん。ピアノのお仕事の帰りですか?」


 中津川はまるで達也と百合の間に割ってくるように近づいてくる。


 中津川は達也に「どうも」というような会釈をしたが、達也は何かしらのアクションを返すことができなかった。中津川は「達也の態度など気にしない」というような感じで、さらに百合に近づく。


 中津川と百合の距離は妙に近い。達也は彼にしては珍しく、不快な気持ちを感じた。


 百合は手に提げていた紙袋の中から何かを取り出した。それは小さな額縁に入った、花瓶に生けてある花束を描いた水彩画だった。


「ラウンジ『リリア』の楽屋にこの絵を置いたのは、中津川さんですよね?」


 百合の問いに中津川は頷いた。


「ええ、そうです。今日、私の画廊の絵をイリーナ・ホテルに運んだのですが、そのついでに『リリア』の楽屋にもと思いまして。いつも桜井さんには仲良くしてもらっていますから、ほんのお礼です」


 達也は中津川の「仲良く」という言葉に、自分の身体がびくりと反応したのを感じた。


「お気持ちはうれしいですが、お返しいたします」


 百合は絵を紙袋に入れて中津川に返そうとした。かろうじて無表情を保っているが、達也には百合が相当動揺していることがわかった。


 百合とは反対に、中津川は柔らかい笑みを浮かべたまま首を横に振る。


「いえ、ぜひ楽屋においてください。――そうだ、今日この後食事に行きませんか? この間話したレストランはどうでしょうか?」


「仲良く」といい「この間」といい、中津川の言葉から彼と百合が定期的に会っているのは明白だ。


 達也の胸がざわざわし始めた。


 百合と幼馴染の自分が食事に誘えずに四苦八苦しているのに、中津川はいとも簡単に百合を誘っている。中津川に対する嫉妬が達也の心を逆なでする。


 中津川は達也など眼中にないように、余裕な笑みを浮かべている。


 この男、もしかして僕が近くにいるとわかっていてわざとやっているのだろうか。達也にはそうにしか思えなかった。中津川の言葉は百合を密かに想っている達也の心を的確にえぐるようなものばかりだ。


「――」


 中津川の誘いに、百合は彼女にしては珍しく口ごもっている。


 達也は百合の態度に引っ掛かるものを感じた。百合の表情は無表情だが、その雰囲気は中津川の誘いを迷惑がっている、そんな風に見えなくもない。


(――百合、この中津川と恋愛関係じゃないのか?)


 達也はここ数日自分の胸を痛め続けていた「百合と中津川が恋愛関係なのではないか?」という自分の予想に疑念を抱いた。


 もし、百合と中津川が恋愛関係なら、百合はこんな迷惑がっている態度はとらないはずだ。


 しかし、おかしい、とも達也は思った。普段の百合なら、誘われて嫌なら「お断りします」ときっぱり断るはずだ。


 ラウンジ「リリア」で百合に惚れた男たちが何人も誘ってきたが、百合はどれもきっぱりと断っている。


 どうして、百合は中津川を断らないのだろうか。


(――もしかすると、この男を断れない理由があるのか?)


 達也が考えている間も、中津川は百合に「行きましょう」と言ってくる。百合との距離もさっきよりもさらに縮まった。


 達也は普段穏やかでめったなことでは怒らないが、中津川の態度を見て自分でもはっきりとわかるくらいイライラしてきた。


 中津川にイライラしているのはもちろん、自分に対して一番イライラする。


 今の自分は明らかに中津川に嫉妬していた。それは中津川が自分にできないことをやっているからだ。自分だって、中津川みたいに強引に百合を誘いたいのにできない。


 それができる中津川は、自分より男としては上なのだろう。


「じゃあ、行きましょう」


 百合の返事を聞かずに、中津川は言い切る。そして、中津川は百合の腕に手をかけようとした。


 達也は中津川が百合の腕を取ろうとした瞬間、中津川の腕を反射的につかんだ。


 百合の黒い瞳だけでなく、中津川も驚いて瞳を見開く。


 達也は夢中だった。まるで自分の心臓が十倍に膨れ上がったかのように鼓動が体中をかけめぐっている。達也は緊張でカラカラになった口を何とか開けると、精いっぱいはっきりとした声を出した。


「やめてもらえますか? 僕が百合を先に誘っているんで」


 中津川は達也の意外な反撃にひるんだようだった。何も言ってこない。達也は自分の鼓動の音だけが駆け巡っている頭の中で「この男は僕がどういう人間か知っているんだろうか」と思っていた。


 普段の達也なら、ほぼ知らない人間の腕を掴んで反撃するなんてことはしない。達也の父親だって、今の彼を見たら驚いて目を丸くするだろう。


 達也は中津川の腕を握っていた手を離すと、今度は百合の腕を掴んだ。


「百合、行こう」


「えっ?」


 百合は珍しく戸惑っていた。達也の態度に戸惑うなんて、今まで会ったうちに何回もなかっただろう。


 達也は百合の腕を掴んだまま、小走りに歩き始めた。まるで「振り返ったら百合を中津川に返さなくてはいけない」と決められているかのように、しばらくの間後ろを振り返らなかった。


 振り返らなかったというよりは、振り返ることができなかったのかもしれない。中津川に反撃はしたものの、達也は内心身体を震わせていた。


 イリーナ・ホテルを出て、ホテルの庭を抜けると、日本の中枢の場所らしく巨大なビル群が間近に見えてくる。


 人通りが多くなった場所で、達也は急に息切れを感じて立ち止まった。


 どれくらい百合の腕をひっぱりながら歩いただろうか。達也はここでやっと後ろを振り返った。


 百合は相変わらずの無表情で達也の後ろにいる。達也と違い、まったく呼吸が乱れていない。


 達也は百合と目が合って、今更ながら自分がしたことに顔を赤くした。そして、慌てて百合から腕を離した。


 周りの人々は達也と百合がいるのに気付かないかのように、どんどん通り過ぎている。達也はまるで自分と百合だけが時間の流れに取り残されているかのような感じがした。


 達也は百合と向かい合いながら、もしかすると間違ったことをしてしまったのかもしれないと思っていた。


 達也は「百合が中津川の誘いを嫌がっている」と感じたが、百合は嫌がっていなかったのかもしれない。


 百合はそんな人間ではないけど、本当は中津川の誘いが嬉しかったが、達也の前で恥ずかしく感じて、黙り込んでいたのかもしれない。百合らしくないが、人間は恋愛において人が変わることは多々ある。


「ごめん、百合」


 達也は百合と目を合わせられず、百合の周りにそびえ立つビルの壁ばかり見ていた。


「何が?」


 百合の表情はよく見えないが、声はいつも通りだ。多分、表情もいつも通りのクールなものなのだろう。


「だって、いきなりホテルから連れ出してしまったし。僕、百合が中津川という人の誘いを嫌がっているのかな、と思ったんだ。だから、僕『百合を先に誘っているんで』なんてウソ言ってここまで連れてきてしまったんだよ。でも、本当は百合が嫌がっていなかったら、悪いなと思って」


 達也は恐る恐る百合の顔を見た。百合は相変わらず無表情だったが、達也と目が合うと、その顔に仄かな歪みを見せた。

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