耐冬花(たいとうか)①
(――どうして、友田鈴子の指にあのカメリアの指輪が?)
達也はキーボードを打つ手を止めて、自室の天井を見上げた。
昨日の夜に見た、鈴子が歩いている光景が未だに信じられない。
さすがの百合もあの光景には動揺しているようだった。しかし、達也よりも素早く気持ちを切り替えると、「詳しく調べるまでは、美優子さんにこのことは黙っておきましょう」と言い、栄一が帰ってくる予定の自宅へと帰って行った。
残された達也もそのまま自室へ帰った。それからずっと小説の執筆をしているが、一日経った今でも、時々天井を見上げて鈴子のことを考えてしまう。
あのカメリアの指輪はオーダーメイドで、同じものは2つとないと聞いている。鈴子がたまたま同じ指輪を持っているとは考えられない。
(――そうすると、もしかして鈴子が落ちている指輪を拾って盗んだとか?)
しかし、鈴子ほど資産に余裕のある人間が指輪を盗むとは考えにくい。万が一盗んだとしても、拾ったホテルに堂々と指輪をつけてくるだろうか。
大体、水人は鈴子があの指輪をはめていることを知っているのかも気になる。達也も百合も水人と鈴子が一緒にいる時、鈴子が指輪をしているかどうか見ていない。エレベーターに乗っていく時、鈴子の左手は水人に隠れて見えなかったのだ。
達也の頭では、いくら考えても答えは出てこなかった。
――もしかすると百合は何かつかんだのだろうか。
今日、百合はイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」でピアノを弾く予定だ。達也はパソコンの画面の隅の時刻を見た。百合はちょうど今、ピアノを弾いている最中だ。今、スマホに連絡しても気づかないだろう。
イリーナ・ホテルへ行って百合の出番が終わったら、直接美優子の件を聞いてみようか。
達也はノートパソコンの電源を切ると、身支度を始めた。
意外と身支度に時間がかかってしまった。達也がイリーナ・ホテルの入り口をくぐったのは、百合のピアノの出番が終わってしまってからだった。
達也はロビーの例のアルテミス像を見ながら、今日は百合のピアノが聴けなかったなと残念に思った。
別に百合は明日以降もラウンジ「リリア」でピアノを弾く。今日を逃したからといって、近いうちに彼女のピアノを聴くことはできる。
なにせ自分はこのイリーナ・ホテルを見下ろせる位置の高層ビルに住んでいるのだ。イリーナ・ホテルに来ようと思えばすぐに来られる。
イリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」でアールグレイとショートケーキを楽しみながら百合のピアノを聴くのは、自分の日常になっている。
しかし、その日常はいつまで続くのだろうか、と達也はふと思った。
日常は穏やかで当たり前のように思われるが、永遠に続くものではない。
そんな日はすぐに訪れないだろうが、いつか百合はラウンジ「リリア」でピアノを弾かなくなるだろう。もっと言うと、栄一の探偵事務所からいなくなるかもしれない。
自分の目の前からも、いなくなってしまうかもしれない。
達也は急に言いようのない不安に駆られた。
むしろ、自分が栄一の事務所で働く前までは良かったのかもしれない。栄一の事務所で働く前から百合のことは好きだったが、お互いに違う学校に行っていて距離があった。
達也の大学時代は作家になるための執筆活動に必死だったし、百合は百合で音楽大学の勉強とピアノの練習で忙しかった。お互い会う余裕はほぼなかったし、達也は百合のことを考える余裕もあまりなかった。
しかし、やがて二人が大学を卒業すると、状況が変わってくる。
著名な文学賞を取った達也は、「作家柏木林太郎」としてのペースが出来上がった。百合はピアノの道よりも「父親の後を継ぐ」と探偵になった。お互いに忙しいながらも必死になるほどではなくなると、達也はまた百合のことを考えるようになった。
小学校の時に百合に一目ぼれして以来、それこそ毎日桜井家へ通っていた日々の想いが蘇ってきたようだった。
その上、達也は父親から「少しは世間を勉強しろ」と栄一の事務所で働くようになり、百合と頻繁に会うことになってしまう。
百合は小さい頃から美しい少女だったが、ますます美しい女性として達也の前に現れた。その惚れ惚れするようなクールな表情を週に何回も達也に見せて来るのだ。これでは百合に惚れ直して、百合のことを考えてしまうのは仕方ない。
そして、あの中津川が現れてしまった今、「もし、百合がいなくなったら」と不安に駆られ始めるのも無理はない。
もしかすると、あの中津川は百合を自分の知らない場所へ連れ去ってしまうかもしれないのだ。
仕方ない、と達也は出そうになったため息を飲み込んだ。自分は決めたのだ。百合のことは好きだが、今は待つ。百合と中津川が恋愛関係にあったとしても、自分にまったくチャンスがないとは限らない。それまでは、百合に頼ってもらえるような男になるために頑張ると。
(――まあ、そうはいっても早速昨日はめまいを起こしてしまったけど)
一度は飲み込んだため息が、達也から漏れる。
とりあえず、今は百合に美優子の指輪の件を訊くのだ。達也がラウンジ「リリア」の楽屋へ行こうとすると、前から百合が歩いて来るのが見えた。
達也は何となくホッとした気持ちになる。さっきは「もし、百合がいなくなったら」と思ったが、少なくとも今日は自分の前に姿を現してくれた。
百合はいつも通りの無表情で姿勢よく廊下を歩いている。紺色のテーパードパンツに薄い色のカーディガンを羽織っていた。右肩に仕事でも使っている大きめのカバンを担ぎ、左手には紙袋を下げている。
百合は達也に気づくと、歩調を少し早めて近づいてきた。
「達也、どうしたの?」
「うん、ちょっと」
達也はさっきまで自分が考えていた百合に対する感情を思い出し、百合と上手く目を合わせられなかった。「あの件って、何か進展があったのかなって」
達也は周りに人がいることを配慮して、美優子の指輪探しの件を「あの件」と濁した。
「ああ、あのこと? それだけど……」
百合は達也のあいまいな言葉で察したらしい。何か言いかけたが、後ろから「桜井さん」と呼ぶ声が聞こえた途端、その黒い瞳を大きく見開いた。
達也の心臓が跳ね上がる。
この声、聞き覚えがある。もしかすると、今の達也が一番聞きたくない声だったかもしれない。
達也が声のする方向を見ると、浅黒い男性が口元に人の良さそうな笑みを浮かべている。
中津川だった。




