暗い影⑪
「あっ」
達也は声を上げた。
もちろん、美優子が生け花の近くに来るまで二人に気づかなかったという可能性はある。しかし、相手は夫だ。さすがに夫がいるのになかなか気づかないというのはあまりなさそうだ。
「まあ、夫の水人さんも美優子さんに気づかなかったのか気になるけど。あのアルテミス像の辺りは他の場所に比べて低くなっているから、水人さんのいた場所からは美優子さんの位置は死角になるの。
私、3日前に水人さんたちがいなくなってから、あのアルテミス像のところから見てみたけど、やっぱり美優子さんがいた位置にいる人は見えにくかった。美優子さんは『主人は私に気づいていない』と言っていたけど、それは本当だと思う」
「百合の言っていることを整理すると、百合は美優子さんが早く夫の存在に気づいていたにも関わらず、『生け花のデモンストレーションが始まってから気づいた』と偽りを言っているということ?」
「そうね。どうして美優子さんがそんなことをしたのかはわからないけど、やっぱり、この依頼は単に『指輪探し』というものだけではないみたい。相変わらず、指輪は見つからないけど」
「指輪、やっぱり誰かが拾って売ってしまったのかな?」
「この辺りの質屋は一通り見たけど、なかった。まあ、素人でもない限り、この近くで売る人はいないだろうけど」
百合は自分の知らないところで、ちゃんと指輪の捜査をしているようだった。
イリーナ・ホテルの近くに質屋がいくつかあるかはわからないが、一通り見るのは地道で大変な作業だろう。肉体的には百合の方がよっぽど疲れているはずなのに、自分がめまいを起こしてしまうなんて。達也は百合に申し訳ない気持ちになった。
「ごめん、百合の方が疲れているはずなのに、僕がこんなことになってしまって」
「別に気にしてないけど。人によって、体力や精神の限界には違いがあるし」
百合はそういうと、ノートパソコンを閉じた。「私、そろそろ家に帰らないと。今日、パパが出張から帰ってくるし。もしなら、友田鈴子さんの調査の結果をスマホに送るから、見ておいて。また何かお願いするかもしれないし」
「わかった」
達也は百合の「パパが出張から帰ってくる」という言葉を聞いて安堵した。今日、少なくとも百合は中津川と会わずに、このまままっすぐ家に帰るのだろう。
百合の言う通り、栄一は出張で数日事務所を開けている。次は月曜日から出勤予定になっていた。
(――今日、中津川に会わないからって、今度は会うかもしれないけど)
達也は気を紛らわせるように自分の腕時計に目を落として驚いた。自分がイリーナ・ホテルのロビーでめまいを起こしてから3時間は経過している。
眠ったせいか、頭はすっきりしていた。自分の部屋に帰って、また小説の続きを書くか。達也はイスから立ち上がった。
楽屋を出ると、ホテルは夕焼けで少し赤みを帯びている。楽屋に窓がないから気づかなかったが、もう夕闇に近い時刻だ。
心なしか、ホテルを歩く人々の表情にも哀愁が漂っているような気がする。達也はこれから百合と別れるのと相まって、なんだか寂しい気持ちになった。
百合は達也がさっきめまいを起こしたのを配慮してなのか、いつもよりも歩みを遅くしてくれている。達也も眠ったおかげで体力が回復したらしく、珍しく百合と並んで歩くことができた。
「達也、今、新作でも書いているの?」
ホテルの出入り口へと向かいながら、百合が達也を見ずに言った。
「うん」
百合をモデルにした柏木林太郎初のミステリー小説だけど。達也は心の中で続けた。
「寝不足みたいだし、徹夜でもしていたんでしょ? この間もそうだったけど、ここにくる直前にお風呂入っていたみたいだし。今日はごめんなさい、来てもらっちゃって。それと付き合ってくれてありがとう」
「ううん、気にしないで。寝不足だからめまいになったわけじゃないし。それに、徹夜だって、自分の好きでしていることだし。でも、どうしてお風呂に入ってきたってわかるの?」
美優子に指輪の詳しい話を聞こうとした時、百合はエレベーターの中で同じようなことを言っていた。
「石けんのいい匂いがするから」
そういうと、百合は少しだけ達也に近づいたような気がした。
達也は胸が高鳴るのを感じた。
そんなに百合が言いたくなるほど、自分が使っている石けんの匂いは気になるのだろうか。
確かに達也の使っている石けんは、そこら辺のドラッグストアで売っているものではない。ヤードレーというイギリスのメーカーのラベンダーの石けんだった。
西村家では達也だけでなく父親や妹も、この石けんを愛用している。亡くなった達也の母親がこのメーカーの化粧品を愛用していたからだ。
達也にとっては小さい頃から慣れ親しんでいる匂いだから、いい匂いなのだろうけど、そこまでピンとこない。
それよりも、さっき自分がめまいを起こした時に支えてくれた百合から発せられた甘い匂いの方が、よっぽどいい香りのような気がする。
達也は自分を支えてくれた時、百合が自分の腕を必要以上に掴んでいたことを思い出した。
さっきの百合の表情、何かしら暗い影がかかっているように見えた。今見下ろしている百合の表情にも、何かしら暗い影が見えるような気がする。
さっきといい今といい、今日の百合はいつもと違うのかもしれない。
そう言えば、この間会った時も彼女にしては珍しく疲れているような印象だった。何かあったのだろうか。
達也が思っていると、百合の表情から一瞬にして暗い影が消えた。
百合が何かに気づいたようだ。
達也が百合の視線の先を辿ると、そこには鈴子の姿があった。
水人の姿はない。鈴子は水人と別れて、一人で家へ帰るところなのだろうか。
水人と鈴子がエレベーターに乗ってから3時間経つ。3時間の間に二人が何をしていたのかを考えると、達也は顔が赤くなりそうだった。
少なくとも自分のようにめまいを起こしてイスで作った簡易ベッドに横になっていた、ということはないだろう。
「鈴子さんも帰るみたいね」
達也と違い、百合は無表情で顔色一つ変えない。
しかし、次の瞬間、百合がその黒い瞳を見開いた。
この表情。あの滅多に感情を表情に出さない百合が驚いた時に見せる表情だ。
百合は相変わらず鈴子を見つめている。彼女が驚くほどの「何か」が鈴子にあったのだろうか。
達也も鈴子を見つめた。何が百合を驚かせているのだろうか。そして、達也は鈴子のある部分を見て、思わず「あっ」と声を上げた。
「あれって……」
「そうね」
達也の言葉に百合が頷く。
百合も達也もその場に立ち止まり、鈴子を見送った。
鈴子は百合と達也の方に身体の左側を向けている。達也はその鈴子の手元にくぎ付けになった。
鈴子の左手の薬指には、カメリアの指輪が嵌められている。
鈴子の左手の薬指には、確かに美優子が「探してほしい」と百合に依頼したカメリアの指輪が嵌められていたのだ。
遠目で見ているから、もしかすると見間違いの可能性もある。ただ、あの指輪は特注品で特徴的なデザインをしている。達也よりも視力が良い百合も目を大きく見開いて驚いているから、見間違えというわけではないようだ。
「これって、どういうこと?」
達也は目を見開いている百合を見下ろして訊いた。百合は目を見開いたまま首を横に振った。
「わからない。でも、あれは確かに……」
百合が言っている間に、鈴子はそのままホテルを出て行ってしまった。




