暗い影⑨
ロビーには、美優子が指輪をなくした日に生けられた生け花が、まだ見事な状態で置かれてある。ホテルに入った客人は、まずは生け花に目を止めていた。
生け花の近くに行くと、ほんのりとカサブランカの匂いがする。
百合と達也は生け花の左側のところに立ち、水人と鈴子が来るのを待った。達也は百合の「気になることがあるの」の続きを聞きたかったが、さすがにホテルのロビーで依頼人の話はできない。
少しすると、百合が生け花の向こう側にあるロビーの壁際に視線を向けた。達也も百合と同じ方向を見る。
百合が視線を向けた先には、ギリシャ神話の月の女神アルテミスの大きな彫刻が置いてある。さっきまで彫刻の周りに人はいなかった。今視線を向けると男性が一人、アルテミスの隣に佇んでいる。
遠くてよく見えないが、男性には見覚えがあった。あれは美優子の夫の笠原水人だ。
百合の言った通り、仕事帰りなのだろう。スーツ姿でネクタイをしている。
水人は年相当の落ち着きはあるものの、どこか「青年実業家」みたいなエネルギッシュな雰囲気も感じさせる人物だった。多分、かなりやり手な人物なのだろう。ただ立っている表情も精悍で目を見張るものがある。
「あの人って」
達也は百合に「あの男性は水人さんだよね?」と訊こうとした。しかし、隣にいるはずの百合に視線を向けると、なぜか百合がいなくなっている。
(――あれっ?)
百合はなぜか後ろに下がって、達也と生け花から離れた位置にいた。達也は「どうして、百合はこんなところにいるのだろう?」と思いながら、百合のそばへ行く。
「――」
百合は達也が近づいてきても、無表情のまま水人を見ている。
そんなにジロジロ見たら、水人に気づかれてしまうのではないだろうか。達也は心配になったが、確か水人のいる位置から自分たちがいる位置は死角になっていることを思い出した。
達也も百合のいる位置から、水人とアルテミス像を見る。
「ねえ、百合、あの人って」
達也が話しかけると、百合は視線を動かさないまま小さく頷いた。
達也がアルテミス像の場所に視線を戻すと、水人は相変わらず同じ場所で佇んでいる。
しばらくすると、百合は再び生け花の近くへと戻った。
達也も慌てて百合について、生け花の近くへと戻る。
百合のこの一連の行動は何だったのだろうか。達也が百合に訊こうとすると、アルテミス像のそばにいる水人が顔を上げた。
(――あっ)
さっきまで百合のように無表情だった水人の顔に笑顔が宿る。まるでアルテミスのそばに双子の弟である太陽神アポロンでも来たのかというくらい、辺りが明るくなったように見えた。
水人は笑顔で、何かに向かって手を振っている。
水人が手を振った方向を見ると、そこには水人に手を振り返している女性の姿があった。
水人の不倫相手である、友田鈴子だ。
二人とも中年の年齢だというのに、水人も鈴子もお互いを見る表情がまるで学生か何かのように若々しく見える。
お互いの視線も熱を帯びていた。
達也は水人と鈴子の表情を見て、一瞬で二人の間に深い愛情があるのを読み取った。ここまであからさまに愛情が伝わってくるのも珍しい。二人が愛し合っているのは明確だ。
達也はしばらく複雑な思いを感じながら二人を眺めていた。
どんなに愛し合っていても、この二人の関係は不倫だ。美優子は水人にずっと裏切られている。そうは思っていても、水人と鈴子の間にあるものが愛であることに変わりはない。
水人と鈴子はアルテミス像の前で一言二言話を交わす。その後、二人は手を握り合い、右側にあるエレベーターに乗ってどこかへと行ってしまった。
エレベーターの扉が閉まった瞬間、達也はめまいを感じた。その場にしゃがみそうになる。
美優子と水人と鈴子。あの三人の関係について短時間で考え過ぎてしまい、頭が混乱してしまったらしい。
美優子の気持ちを考えると、さっきの水人と鈴子は完全な悪になる。しかし、水人と鈴子の表情を見ると、達也は完全に水人と鈴子を悪と呼ぶことができなかった。
水人と鈴子の間には明らかな愛情がある。しかも、その愛情は純粋にお互いを愛しているものだった。
自分は美優子に同情すればいいのだろうか、それとも水人と鈴子の関係に理解を示せばいいのだろうか。
わからない。
自分は三人の関係に答えを見つけなくてもいいのかもしれない。美優子の依頼はカメリアの指輪を探し出すこと。自分は百合の助手として美優子の指輪を探し出せばいい。
しかし、達也はどうしても三人の関係について、考えずにはいられなかった。きっと、作家の性なのだろう。
「達也? どうしたの? 大丈夫?」
倒れそうになった達也の身体を、百合が支えてくれる。百合は相変わらずクールな表情をしているのに、密着した彼女の身体は柔らかく、甘い匂いがした。
達也は美優子と水人と鈴子の関係を考えるのにめまいを感じながら、このままずっと百合が自分の身体を支えてくれればいいのに、と思ってしまった。中津川のことはすっかり忘れてしまっていた。
「ごめん、ちょっとめまいが……」
「とりあえず、楽屋に戻る? 歩ける?」
「うん」
名残惜しいが、達也は百合から身体を離した。人はそれほど多くないが、さすがにホテルのロビーで百合と密着しすぎるのは良くない。
前に同じシチュエーションで、西園寺エミの元カレが百合と自分が恋人同士だと誤解したことを思い出す。
幸い、めまいは改善してきている。達也はおぼつかないものの自分の足で歩くことができた。
それでも百合は心配してくれているのだろう。足取りをゆっくりにして、達也の腕を掴みながら歩いてくれた。
心なしか、自分の腕を掴んでいる百合の力が強いような気がする。
まるで、達也を支えようとしているのではなく、百合が達也にしがみついているのではないかと勘違いしてしまうほどだった。
(――百合?)
達也は歩きながら、自分の腕を掴んでいる百合を見下ろした。
百合は相変わらず無表情だった。いつもなら視線をまっすぐ前に向けているのに、今横にいる百合は少し視線を俯かせている。そのせいか、百合の表情には何かしら暗い影がかかっているように見えた。
(――気のせいなのかな?)
腕を強く掴んでいるのも、自分が大衆の面前で倒れてしまうのを防ぐためかもしれない。視線を少し俯かせているのも、自分の腕を掴んでいるから歩きづらくて足元を見ているのかもしれない。
表情に暗い影がかかっているように見えるのも、ただ単に光の加減なのかもしれない。
しかし、達也には百合が何かしらを思いつめているように見えた。




