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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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暗い影⑧

 百合のピアノの出番が終わると、達也は少し時間をおいてから楽屋を尋ねた。


 楽屋のドアをノックして中に入ると、百合はすでに演奏用のドレスから普段着に着替えていた。


「今日はどうしたの? やっぱり美優子さんの件?」


 達也が訊くと、百合は頷いて無表情のままバッグからノートパソコンを取り出した。


「あの人について調べてきたの」


「あの人って?」


「笠原水人さんの不倫相手」


「えっ? でも、何で? 指輪を探すのに必要ないような気がするけど」


 美優子にとって夫の水人の不倫は確かに大事件だ。しかし、今回の「指輪探し」とは直接関係がない。達也はもしかして百合が美優子に別途不倫調査の依頼でもされたのだろうか、と思った。


「何が必要か必要じゃないかは、調べてみないとわからないじゃない。あの女性が気になったの。これ見て」


 百合はノートパソコンの画面を達也に指さした。


 達也がのぞき込むと、そこには水人の不倫相手を調べた結果が打ち込まれていた。


 達也はこの間のように百合がスマホに水人の不倫相手のデータを送ってこなくてよかった、と胸をなでおろした。執筆に次ぐ執筆で達也の頭はかなりパンパンになっており、不倫相手のデータを短時間で入れるほど頭の中に余裕がない。


 水人の不倫相手の名前は「友田鈴子(ともだすずこ)」と言うらしい。


 百合が調べた結果には、美優子にとってかなり残酷なことが書かれてある。


 友田鈴子は美優子の夫の水人よりも5歳年上の45歳だった。


 鈴子は結婚していて、子どもが2人いる。鈴子の夫もイリーナ・ホテルのお得意様だった。鈴子も美優子と同じように専業主婦をしながら悠々自適に暮らしているようだ。


 水人と鈴子は昔からの知り合いで、水人が美優子とお見合いする前からの関係らしい。最近の逢引きはこのイリーナ・ホテルで行われているらしかった。


「水人さんと友田鈴子さんはお互い結婚したいと思っていたようね。でも、家の関係でそれぞれ別の人と結婚しなくてはいけなかった。


 鈴子さんの旦那さんにも愛人がいるようだし、水人さんと鈴子さんはもう夫婦公認の不倫関係みたい。この関係を知らないのは、美優子さんだけだったようね」


 百合がまるで探偵事務所の報告書を読むかのように言う。


 いや、実際にこれは報告書だ。百合はこういった調査報告に慣れているから、いつも通りの無表情で読み上げられるのだろう。


 達也だって事務所の雑用でこういった不倫関係の仕事には慣れているつもりだ。しかし、自分が思った以上にショックを受けているのに気付いた。


 ――これ、主人からのプレゼントなんです。


 ラウンジ「リリア」で栄一が拾った指輪を渡した時、美優子は恥ずかしそうに言っていた。


 その時の百合子は恥ずかしそうだったが、嬉しそうな表情にも見えた。婚約時代に夫からプレゼントされた指輪が未だに嬉しい、そんな表情に見えたのだ。


 なのに、夫はずっと不倫をしている。そして、美優子はこのイリーナ・ホテルで夫が愛人と一緒にいるところを目撃するまで、その事実に気づいていなかったのだ。


 美優子の気持ちを考えると切ない。胸が締め付けられそうだ。


「達也」


 百合の呼びかけに達也は我に返った。自分はどうも「美優子の悲しみ」という想像のぬかるみにはまっていたようだった。


「あっ、ごめん」


 達也はまだ片足をぬかるみに取られているような、戸惑った表情をしている。百合は達也の表情を見ると、首を軽く横に振った。


「小説を書いている時とか音楽を聴いている時とかはいいけど、今は自分と美優子さんのことは分けて考えて。確かに、美優子さんの気持ちを考えると悲しくなるけど」


「うん、わかった」


 達也はぎこちなく頷いた。


 時々、こうやって百合に注意される。達也は感受性や共感性が強すぎるため、すぐに他人の感情を自分のように(とら)えてしまうのだ。


 ここが達也のよいところかもしれない。他人の気持ちが手に取るようにわかるから、相手の立場に立つことができる。それが小説の執筆に活きる。


 ただ、探偵事務所で案件を処理している時はやっかいだ。最近はかなり慣れたが、事務所でバイトし始めた時は依頼人の気持ちに入りすぎて体調が悪くなったこともあった。


 百合はやっぱり優しいな、と達也は思った。百合は達也のように他人の気持ちに引っ張られるほどではない。それでも、達也の感受性と共感性に理解を示してくれる。


 達也が他人の感情に引きずり込まれそうな時は、「達也」と呼び止めてくれる。


 百合は少しの間黙っていた。達也の感情が完全にぬかるみから這い出たのを表情から察したのか、続きを話し始めた。


「とにかく、水人さんと鈴子さんはこのイリーナ・ホテルで会っているの。かなり頻繁に。総支配人の高畑さんも知っているでしょうね」


「そう、だよね」


 達也は悲しい気持ちになった。別に不倫を見て見ぬふりをしている高畑に失望した、というわけではない。


 あんなに人がよさそうな高畑も、客のためには不倫の事実に目を伏せなくてはいけない。何だかやるせない気持ちになった。


 世の中は自分が切望しているような、きれいごとばかりが通るというわけではない。


「で、今日、水人さんと鈴子さんはこのイリーナ・ホテルで会うの」


「どうして、そんなことわかるの?」


「水人さんの会社がこのイリーナ・ホテルの近くにあるの。週末も水人さんはちょくちょく会社に出かけているみたい。鈴子さんはこのイリーナ・ホテルの近くにある華道教室に週2回通っている。今日はその華道教室の日。そうなると、イリーナ・ホテルで会う可能性が高くない?」


「なるほど」


 達也は百合の考えに感嘆したが、同時にまた悲しみの感情がわいてきた。


 美優子は平日も週末も夫の水人に相手にされていないのだろうか。「夫は仕事が忙しいから」と寂しさを我慢しているのかもしれない、と思うと悲しい。


「鈴子さんの華道教室、もうそろそろ終わる時間ね」


 百合は腕時計にチラリと目を落とすと、イスから立ち上がった。


「どこへ行くの?」


「ロビー。水人さんと鈴子さんが来るのを待ち伏せするの」


「えっ? どうして? もしかして、美優子さんから二人の調査も依頼されたの?」


 達也はてっきり美優子から不倫調査の依頼でもされたのかと思ったが、百合は首を横に振った。


「ううん、美優子さんからは指輪探しの依頼しかされてない」


「じゃあ、どうして水人さんと鈴子さんを待ち伏せするの?」


「気になることがあるの。とりあえず、ついてきて」


 達也は頭に疑問符を浮かべながら、百合の言う通り彼女の後に続いて楽屋を出た。

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