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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第二章 2つのラプソディ
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暗い影⑦

 それから数日、達也は百合と会わなかった。それどころか、ほぼ誰とも会わず誰とも口をきかなかった。


 栄一の事務所のバイトのシフトも入れていなかった。本業である「柏木林太郎」の作家業に没頭していたのだ。


 達也は小説を書き始めるまで時間はかかるが、書く内容が決まると書き上げるまでが早かった。集中して書くため、気づくと何時間も何日も経っているとかまったく食事をしないとかはよくあった。


 百合をモデルにしたミステリー小説の進みはよい。


 百合はいつも達也の新刊を欠かさずに読んでくれる。もし百合をそのままモデルにしてミステリー小説を書いたら、明らかにバレてしまうだろう。


 今書いている小説の主人公は、百合に似たイメージのクールな青年探偵にした。青年の助手は密かに彼に恋心を抱いている、年下の可憐なイメージの女性だ。


 その設定と簡単なプロットが決まってから、ずっと初稿を書き続けている。


 今日もふと気づくと明け方になっていた。一体どれくらいぶっ通しで小説を書いていたのだろうか。


 達也は我を忘れてキーボードで物語を紡ぐ時、自分は作家になれて本当に良かったと思う。


 小説を書いている時だけは、いろいろなことを忘れることができる。


 自分は生きていくことに向いていない人間だと心底思う。打たれ弱いし怖がりだし、器用な人間でもない。世の中の辛いニュースを見たり聞いたりするだけで、世の中が嫌になり厭世的になってしまう。


 達也は小説を書いている時だけは、生きている時に感じる辛さを忘れることができた。有名な作家の中には、厭世的な考えに飲み込まれて早く亡くなってしまった人も多い。


 しかし、達也は小説を書いている限りはそういう気持ちにはならなかった。このまま永遠に生きていても大丈夫なのではないか、と思えてくる。永遠に生きて小説を書いていたいという気持ちが湧いてくる。


 小説を書いている時は、百合と中津川の関係も忘れられた。


 もちろん、ふと我に返るとその瞬間に胸が締め付けられるような気持ちにはなるが。


 だからと言って、さっきまでの自分は働き過ぎだ。少し眠ろうか。そう思いながら、達也はソファに置き去りになっているスマホの画面を見た。


 何時間か前に、百合からメッセージが入っている。スマホの通知にも気づかないくらい、集中して小説を書いていたらしい。


 ――明日の昼過ぎにラウンジ「リリア」に来て。


 カレンダーの日付を見ると、ラウンジ「リリア」で栄一が美優子の指輪を拾ってから、もう一週間経っていた。


 百合が「明日の昼過ぎに来て」と言うことは、昨日の時点での明日、つまり今日の昼過ぎに来てほしい、ということだ。


 百合が自分を呼び出すということは、美優子の指輪の件で何か進展でもあったのだろうか。


 達也は眠い目をこすりながら、スマホのアラームを昼前にセットした。そしてベッドに倒れ込むと、そのまま深い眠りについた。


 達也がスマホのアラームで起こされると、世の中はすでにお昼前になっていた。それなりの時間は寝たはずなのに、まるで10分くらいしか経っていないような気がする。まだ眠いが百合との約束がある、でかけないと。


 達也はシャワーを浴びると身支度を整え、イリーナ・ホテルへ向かうため部屋を出た。


 達也がイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」に入ると、百合がいつもの黒いドレスを着てピアノを弾いている。


 達也にとっては週末のいつもの光景だ。


 百合はブラームスの「2つのラプソディ」の第2番を弾いている。


 この間、栄一と来た時は第1番を弾いていた。あの時は次にローリング・ストーンズの「悲しみのアンジー」を弾いたから、今日は第2番を弾いているのだろう。


 ブラームスの「2つのラプソディ」は有名な曲だが、比較的第1番の方が知名度は高い。第2番も素晴らしい曲だが、第1番に比べると低音域が多く少し暗いイメージがある。


 達也は第2番のこの暗さが好きだった。暗いが情熱的でまるで自分が小説を書くことに苦悩している時のような印象を持っている。


 暗いという言葉を頭に思い浮かべ、達也はふと百合との会話を思い出した。美優子からあの指輪をなくした時の話を聞き、百合にその印象を尋ねられた時のことだ。


 ――何かしら暗い影みたいなものが見えるような気がした。


 今考えてみると、あの暗い影のイメージはこのブラームスの「2つのラプソディ」第2番に似ているような気もする。


 もしかすると、百合も第2番に「暗い影」のようなイメージを持っているのかもしれない。


 この「2つのラプソディ」第2番の終わりは意外とはっきり、きっぱりと終わる。


 今回の依頼も第2番の終わりのように、指輪が見つかってきっぱりと終わればいいのだが。


 美優子は偶然夫の不倫現場を目撃して、悲しんだだろう。せめて、指輪が見つかって多少は彼女の励みになってほしい。


 達也はオーダーを聞きに来たスタッフにいつものアールグレイとショートケーキを頼んだ。百合のピアノは「2つのラプソディ」を弾き終わり、次の曲へと移っていた。


 プロコル・ハルムの「青い影」だ。


 達也はプロコル・ハルムの「青い影」の歌詞を思い出した。


 確か、イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーの「カンタベリー物語」の「粉屋の物語」がモチーフになっている。


 そして、この話は粉屋の主人が若い妻を寝取られるという、つまりは不倫の話だった。


 百合がこの曲を選ぶとは、やっぱり百合は美優子の話をしたいと思って自分を呼び出したようだ。

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