暗い影③
「さすがに栄一さんは美優子さんの旦那さんのあのことは知らなかったよね?」
達也は百合と二人きりで誰も話を聞いていないというのに、「不倫」という言葉を濁した。
達也だって自分の小説で浮気とか不倫とかそういう題材は書いたことがあるし、栄一の事務所でもそういう案件を取り扱ったことがある。しかし、実際に口に出すのは何となく憚ってしまう。
「確かに、それについては何も書いてなかった。でも、あの話を聞いて、この部分がきになったの」
百合はパソコンの画面の端を指さした。
達也が百合の指さした部分を見ると、「子どもなし」と書かれている。
美優子は35歳、水人は40歳。結婚して10年以上経つが、二人の間に子どもはいなかった。
「でも、今時、子どもがいない夫婦なんて珍しくないよね?」
達也がさも当たり前のことを言ったが、百合は無表情のまま軽く首を横に振った。
「旦那さんのお家が、これだけの資産家なのよ。しかも、大学を卒業してすぐに政略結婚みたいな形で嫁いでいる。子ども、というか跡継ぎを期待されるのが普通じゃない?」
「そうなの?」
百合の言う通り、跡継ぎを期待する家もあるかもしれない。達也の好きな日本近代文学の小説にも当たり前のように出て来る題材だ。しかし、達也にはあまりピンとこなかった。
達也は西村財閥のトップにいる自分の父親を思い浮かべた。達也は経済界にまったく興味がないが、父親の長男だから一応は西村財閥の跡継ぎと言う立場になる。
達也は自分の父親から「跡継ぎだから期待している」とか「跡継ぎだからしっかりしろ」とか言われたことがない。
まあ、達也があまりにも精神的にか弱くて、跡継ぎどうこうよりも「人間としてしっかりしろ」というレベルだからかもしれないが。父親にも「もうちょっと強くなれ」とは言われたことがある。
「あのね、私のパパやママ、達也のお父さんや亡くなったお母さんは恋愛結婚だったかもしれないけど、今の世の中だって家同士のつながりで結婚する人はたくさんいるの。そういう人たちは大体、跡取りを期待されるはず」
確かに百合の父親の栄一と葵、達也の父親と亡くなった母親は大恋愛の末に結婚した。
達也には年の離れた妹がいて、妹が生まれたばかりの頃に母親が亡くなった。その時、達也は相当悲しんだが、あの父親がもっと悲嘆に暮れていたのを未だにはっきりと覚えている。
「じゃあ、物理的に子どもを作るのが難しかった、とか?」
もしくは、美優子か水人のどちらかが子ども嫌いなのかもしれない。美優子は子どもが嫌いには見えなかったから、水人のほうだろうか。
百合はいくつかの可能性を考えている達也を無表情のままジッと見ていたが、やがて口を開いた。
「とりあえず、美優子さんに関しての調査は続けるとして、それと並行して、もう一度指輪を洗いざらい探すから手伝って」
「洗いざらい?」
「そう、洗いざらい」
百合は当たり前のように頷いた。
その日の夜。
達也と百合はイリーナ・ホテルの16階にあるカフェ「フルール・ド・コルザ」を訪れた。店はもう閉店している。二人の目的は笠原美優子の指輪を「洗いざらい」探すためだ。
何時間後振りに会った百合は、昼間会った時のような疲れた表情は見せていなかった。
あの表情は自分の気のせいだったのだろうか。もしくは、この何時間の間に仮眠を取って疲れを癒したのかもしれない。
達也も実は仮眠を取ろうとした。しかし、一度寝ると起きられないような気がして、結局は執筆の続きをして時間をつぶしてしまった。
達也と百合はエレベーターに乗って「フルール・ド・コルザ」へ向かった。店長らしい人物に事情を話すと、「はい、支配人から話は聞いています」と人の良さそうな笑顔を向けられる。
総支配人の高畑といい、フロントスタッフの西園寺エミといい、このイリーナ・ホテルの従業員は誰もが人柄の良さそうな人ばかりだ。
「でも、一回スタッフの人が探しているんだよね? それでももう一度探すの?」
達也が不思議そうに言う。高畑のことだから、それこそ百合の言う通りすでに洗いざらい探しつくしたはずだ。それでも指輪が見つからなかったとすると、すでに指輪は誰かに持ち去られてしまっている可能性が高い。
達也の疑問に百合は「もちろん」と大きく頷いた。
「当たり前じゃない。探し物があったら『探す』のが基本でしょ? 高畑さんが隅から隅まで探したとしても、依頼された私たちも探さないと」
なるほど、確かに百合の言う通りだ。
これは今書いている百合をモデルにしたミステリー小説のためにメモしておいた方がいいだろうか。
「わかった。とりあえず、どこから探そうか?」
「達也はお店の表の方から探して。私は美優子さんが座っていた奥の席の方から探すから」
百合はやっぱり優しい。「フルール・ド・コルザ」は奥の方へ行くほど座席があったり厨房があったりして複雑な構成になっている。体力のない達也を考慮して、探しやすい方を譲ったのだろう。
達也は女性に楽な方を譲られる自分を情けなく思ったが、百合よりも体力がないのは本当だ。ここは百合の足手まといにならないよう、大人しく表の方から探し始めた。
店内の観葉植物やテーブルを動かしながら、指輪を探していく。
指輪を探し始めて少しも経たない内に、達也はもう疲れてしまった。額の汗を手の甲でぬぐってチラリと百合を見る。百合は相変わらずの無表情で達也よりも遥かにテキパキと指輪探しをしている。
イスや棚を動かす仕草などは、まるでベテラン清掃スタッフのように手際が良い。
自分も頑張らないと。達也は気持ちを奮い立たせて、再び指輪探しを始めた。
幸いなことに「フルール・ド・コルザ」はこぢんまりとしたカフェだ。店内すべてを探しても、それほど時間はかからなかった。
結局、指輪はどこにも見当たらなかった。
へとへとに疲れた達也に比べ、百合はまるで何もしていないかのように平然とした表情をしている。
「ありがとう。――じゃあ、次」
「えっ? 次?」
達也は思わず大きな声を上げた。
「そう。次はエレベーター内を探して、その後はロビーを探すから」
百合の言葉が達也の疲労した体に突き刺さる。
しかし、ここで弱音を見せてはいけない。指輪を探すくらいで根を上げては、百合にあきれられてしまう。
いや、すでに自分の体力のなさは、百合にあきれられているかもしれないが。
それでも、少しは頑張っている姿を見せれば、百合も自分を見直してくれるかもしれない。
「わかった、じゃあ、次はエレベーター行こう」
達也の言葉に頷いた百合は、そのままさっさとエレベーターへと歩き始めた。達也は慌てて百合の後を追った。




