総支配人の依頼⑪
「覚えていればでよろしいのですが、どういうルートでロビーから『フルール・ド・コルザ』まで行かれたのか、教えてください。まず、ロビーの生け花のどの辺りにいらっしゃったか教えてください」
百合はそう言いながら取り出した赤いペンで、ロビーの生け花が飾られている部分に丸を付けた。
「はい、覚えています。私はこの辺りにいました」
美優子が指さしたのは生け花の位置からはかなり遠い場所だった。生け花を正面にすると左側だ。
その左をもっと先へ行くと、ラウンジ「リリア」がある。
百合は美優子が指さした場所に、ペンで小さな丸をつけた。
「生け花からかなり遠い場所にいらっしゃったんですね?」
「はい、実は生け花のデモンストレーションにあんなに見物する方がいらっしゃると思わなかったんです。もう少し早めに生け花のところに行けばよかったかもしれません」
美優子の言う通り、月一回の生け花のデモンストレーションの日のロビーはかなりの人で混み合う。
人がたくさんいる場所が苦手な達也は、むしろデモンストレーションの日を避けてホテルを訪れるほどだった。
「その後、『フルール・ド・コルザ』に向かったとすると、右側のエレベーター乗り場までまっすぐ行ったのでしょうか?」
百合がロビーの右側にあるエレベーター乗り場をペンで刺した。美優子は頷いた。
「はい、真ん中のエレベーターに乗りました」
百合は3つあるエレベーターの真ん中に、ペンで小さな赤い丸をつけた。
「そのまま、まっすぐに16階の『フルール・ド・コルザ』へ向かいましたか? 途中で誰かエレベーターに乗ってきましたか?」
「はい、2階で外国人の年配の宿泊客らしい方が乗ってきました。西洋人の男性でした。あと、8階で年配の日本人のご夫婦のような宿泊客らしい方も乗ってきました。
日本人の方は私と同じ16階で降りました。西洋人の方はそのままエレベーターに乗っていて、多分、最上階の17階へ行かれたのではないでしょうか。エレベーターに乗ってきたのはその3人だけです」
西洋人の男性は、多分2階の会員制のフィットネスジムかプールに行っていたのだろう、と達也は思った。
西洋人の男性は17階に行ったようだということは、このホテルのスイートルームなど上級の部屋の宿泊客だ。
イリーナ・ホテルでは一定以上のランクの部屋に宿泊すると、会員でなくてもフィットネスジムやプールを無料で使用することができる。
日本人の夫婦は一般の客室の宿泊客で、16階の「フルール・ド・コルザ」かレストランへ向かったのだろうと思われる。
イリーナ・ホテルの16階には「フルール・ド・コルザ」以外に大きなレストラン、そしてバーが入っている。バーは夜だけの開店だから、カフェかレストランだ。
「ありがとうございます。ちなみに16階でエレベーターを先に降りられたのは、そのご夫婦でしょうか?」
「はい、ご夫婦が降りて、次に私が降りました。その後はまっすぐに『フルール・ド・コルザ』へ行きました」
「『フルール・ド・コルザ』の席の並びはこうなっていますが……」
百合はイリーナ・ホテルの間取り図の余白に、黒色のペンで「フルール・ド・コルザ」の席の並びを四角で書き始めた。
百合の記憶力に慣れている達也だが、百合が躊躇なく席の並びを書き始めたことには驚いた。
「フルール・ド・コルザ」は同じ階のレストランに比べて席も少なく、こじんまりとはしている。だからと言ってこうもサクサクと席の並びを書かれてしまうと驚くしかない。
大体、百合は「フルール・ド・コルザ」に行ったことがあるのだろうか。
百合はイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」と2階のクラブフロアのバーでピアノを弾くが、その場所以外に足を運ぶのをほぼ見たことがない。
やれやれ、と達也は心の中で呟いた。百合の頭の中にはイリーナ・ホテルの間取り図だけでなく、レストランやカフェの詳しい席の配置まですっかり入ってしまっているようだ。
用意したイリーナ・ホテルの間取り図は、美優子の話を聞くため便宜上用意しただけなのだろう。
「ええと……。はい、多分、席はそんな並びだったような気がします」
すっかり正確に書かれた「フルール・ド・コルザ」の席の並びに、美優子も戸惑ったようだった。
しかし、美優子は百合が「フルール・ド・コルザ」にほぼ行ったことがないことを知らない。ラウンジでピアニストをやっているから、「フルール・ド・コルザ」にもそれなりに行ったことがあるのだろう、席にも詳しいのだろうと思っているのかもしれない。
まあ、それなりに行っていても、ここまで正確に席の配置を書けるのはすごいと思っているかもしれないが。
百合は達也と美優子の態度にも、始終当たり前のような無表情をしていた。
「奥の席というと、ここの席でしょうか?」
百合は「フルール・ド・コルザ」の席の配置図の一番奥の場所をペンで指した。
達也は何度か「フルール・ド・コルザ」に行ったことがあるから、奥の席は何となくわかった。
その奥の席は入り口からはまったく見えない場所にある。「すぐに家へ帰る気になれなくて……」と思ってカフェへ来た美優子が、身を潜めるにはぴったりな席だ。
「はい、そうです。カフェは少し混んでいたのですが、ちょうどその奥の席が空いていて助かりました。あまり人目に付きたくなかったので」
百合は「フルール・ド・コルザ」の一番奥の席に赤いペンで小さな丸を付けた。
「生け花のデモンストレーションが始まったは14時からでしたよね? どれくらい生け花の場所にいらっしゃいましたか?」
「はい、10分ほどでしょうか? 結構すぐ夫がいるのに気付いてしまって、デモンストレーションはほぼ見ていません」
百合は頷いただけで、それ以上は聞かなかった。達也なら「ロビーから『フルール・ド・コルザ』までどれくらいの時間でつきましたか?」と訊くところかもしれないが、百合にそれは無用なのだろう。
カフェの席の配置を正確に覚えている百合のことだ。美優子に聞かなくても、ロビーのこの位置からエレベーターに乗ってどれくらいで「フルール・ド・コルザ」にたどり着けるか、計算できるのだろう。
「ありがとうございます。『フルール・ド・コルザ』のお店のスタッフに指輪のことはお聞きになっているとは思いますが、もう一度私から訊いてみます」
「ありがとうございます」
「今現在、私からお聞きしたいことは以上です。お時間いただきありがとうございました」
百合が会釈したので、達也も百合に少し遅れて会釈した。美優子も上品そうなお辞儀を返した。
達也は会釈しながら、ふと妙な感覚が自分の中に残っていることを感じた。
風邪を引いてもいないのに何かを詰まらせているわけでもないのに、喉のあたりに何かしらが痞えているような、そんな感覚だった。
何かを飲み込もうと思っているのに、なかなか飲み込めない、そんなイメージだ。
どうしてだろう、と達也は思った。確かに美優子が夫の不倫現場を目撃したというショッキングな事実を聞いてしまったが、それが痞えの原因ではないようだった。
もしかすると、これも自分の一種の勘なのだろうか、と達也は思った。
達也は総支配人の高畑が美優子の件を依頼して来た時、百合が「この話、何かありそうな気がする」と言っていたことを思い出した。
この美優子の指輪探しの話、百合の言う通り「何かある」のだろうか。
「いえ、こちらこそありがとうございます。途中、少し取り乱してしまい、申し訳ございませんでした」
美優子は気を取り戻したのか、笑顔になっている。達也は美優子の笑顔に安心したが、あの何かしらが痞えているような感覚は消えなかった。
「今、お話したことは事務所の人間以外には口外しませんので、ご安心ください。事務所の人間が他者に話すこともございません。
ただ、このお話を依頼されたのは総支配人の高畑さんです。高畑さんには事後報告はしないといけません。指輪が見つかりましたら、その経緯と見つかった場所などを高畑さんにお話ししてもよろしいでしょうか? もちろん、旦那様の件に関しては触れません」
「はい、もちろんです。よろしくお願いいたします。高畑さん、とても親身になってくださって、ご自分でも指輪を探してくださったんです。本当に申し訳なくて……」
美優子はそういうと、目を伏し目がちにした。
達也は美優子の表情に翳りのようなものを感じた。夫のことが出たからだろうか。
「では、私たちはこれで失礼します。経緯はご報告しますし、何か追加で訊きたいことがありましたら、ご連絡させていただきます。笠原さんも何かお気づきの点がありましたら、名刺の連絡先に何でもご連絡ください」
「わかりました、ありがとうございました。指輪の件、何卒よろしくお願いいたします」
美優子に見送られて、達也と百合はスイートルームを出た。




