総支配人の依頼⑦
翌日。
達也は百合に呼び出されて、イリーナ・ホテルに足を運んだ。
あのカメリアの指輪を探してほしいという笠原美優子の話を聞くから、一緒に来てほしいということだった。
前日、達也は百合をモデルにしたミステリー小説の設定を考えることに没頭していた。編集担当者からも「いいですね!」と言われたので、早速執筆活動に取り掛かったのだ。
夜遅く、というよりも夜明け近くまで小説の設定を考えていた達也だったが、さすがに脳が疲れ切ってベッドに倒れ込んだ。食事もせずお風呂にも入らず、そのまま深い眠りについた。
夢も見ないような熟睡の波の中を漂っていると、突然スマホの呼び出し音が鳴って目が覚めた。
出てみると、百合からだった。「あの指輪を探してほしい笠原美優子と会うから来て」とのことだ。
そして、「笠原美優子のことを調べておいたから、事前に目を通しておいて」とスマホに大量のデータが送られてきた。
達也はシャワーを浴びると、身支度を整えながら慌てて笠原美優子のデータに目を通した。
達也がイリーナ・ホテルのロビーに行くと、百合はすでに来ていた。
イリーナ・ホテルのメインロビーには毎月有名な華道家が生け花を生けるが、その見事な生け花をバックに立っている。
生け花と一緒に見る百合も美しい。いつものことなのに、達也は百合に見とれてしまった。
百合は仕事を抜け出してきたのだろう。普段、栄一の事務所で仕事している時と同じ、シンプルなブラウスとテーパードパンツ、ヒールの低いパンプスといういで立ちだ。
達也が「百合」と声をかけると、百合は達也の方を見た。
達也は百合の表情にちょっとした違和感を覚えた。もしかして、疲れているのだろうか。百合の無表情からは、どうして疲れているのかという詳しい情報は読み取れない。
「百合、どうかした?」
達也が尋ねると、百合は達也を見上げて「何が?」と無表情のまま言った。
「うん、何か疲れているんじゃないかと思って」
「別に、疲れてなんかいないけど」
百合が達也から視線を反らしながら答える。
自分の予感通り、百合は疲れているのだろう。しかし、その理由は自分には言いたくないようだった。
(――まあ、百合が僕に疲れている理由を話したとして、それで百合の疲れが癒されるわけではないし)
自分が百合にそこまで頼りにされていないことは知っている。特に精神面では百合よりも自分の方がはるかに脆くて弱い。百合に支えられる方が多い。
本当は百合にもっと頼ってほしいと思っているが、今の自分では無理だろう。
(――もし、百合とあの中津川が恋愛関係なら、中津川には疲れている理由は話すのかな?)
達也は自分の胸がチクリと痛むのを感じた。
「あの方は、ホテルの客室でお待ちなの。行きましょう」
あの方とは、指輪を探してほしいと依頼をしてきた美優子のことだろう。百合はさっさとエレベーターに向かって歩いて行く。
達也は慌てて百合の後を追った。
百合と達也がエレベーターに乗り、扉が閉まると百合は達也を見上げてきた。
「何?」
いやに百合はじろじろ見て来るな、と達也は不思議に思った。
「達也、お風呂に入ってきたの?」
「あっ、うん、昨日の夜、寝たのが遅かったから、さっきシャワーを浴びてきたけど」
百合は何でこんなことを訊くのだろうか。
もしかすると、さっきシャワーを浴びた時に使った石けんの匂いでもしたのだろうか。
「そう」
百合はそれ以上何も訊いて来なかった。代わりに達也は自分が疑問に思っていたことを訊いた。
「でも、これから本人に詳しい話を聞くのに、どうして事前に相手のことを調べたの?」
達也は百合から送られてきた美優子に関する大量のデータを思い出しながら言った。
何か聞きたいことがあれば、美優子本人に直接聞けばいいのに、と思ったからだ。
「本人から話すのとこっちで調べるのでは違うの」
「違う?」
「そう、違うの」
やがて、エレベーターはイリーナ・ホテルの17階、最上階で止まった。
重厚な作りのエレベーターの扉が開くと、百合は一寸の迷いもなく廊下へと歩き始めた。
百合はすでに依頼人の美優子がいる部屋がどこにあるのか知っているのだろう。
達也が黙って百合の後をついていくと、百合は一番奥の部屋の前で立ち止まり、呼び鈴を押した。
小さな「はい」という女性の声が聞こえるとドアが開いた。お香のようなしっとりとした匂いが微かに流れ込んでくる。女性がつけている香水の匂いなのだろうか。
ドアから顔を覗かせたのは、数日前に達也がラウンジ「リリア」で見かけた、あの美優子だ。
美優子は初めてラウンジ「リリア」で見かけた時と同じように、和服を着ていた。
今日は控えめな桐の文様が入った訪問着だ。シンプルな着物だが、美優子の美しさをより引き立てている。
「初めまして。総支配人の高畑さんから紹介されました、桜井探偵事務所の桜井百合と申します。あと、こちらは……」
達也の姿が見えると、美優子は「まあ」と声を上げた。
「この間、指輪を拾ってくださった方と一緒にいた方ではありませんか!?」
「西村達也と申します」
達也はいつも事務所の客と接する時のように、苗字から名乗り会釈した。
美優子はホテルのスタッフではないし、苗字を言ってもまさかイリーナ・ホテルを傘下にしている人物の息子とは気づかないだろう。
百合は達也の挨拶が済むと、再び口を開いた。
「彼は事務所のスタッフです。事務所の人間以外にお話を口外することは絶対にありませんし、私に話すことは何でも彼に話して下さって結構です。
ちなみに昨日西村と一緒にいて、指輪を拾ったのは弊社の所長の桜井栄一です」
「そうだったんですね。何と言う偶然なんでしょう。――さあ、どうぞ、お入りください」
「失礼いたします」
美優子が待っていた部屋は、イリーナ・ホテルでも有名な和を基調としたスイートルームだった。
窓には障子がはめ込まれていて、穏やかな光が差し込んでいる。部屋の隅には畳のコーナーもある。如何にも外国の客人が好みそうな部屋だ。
先日イリーナ・ホテルに来たパトリック・エヴァンスが泊まったのは、ここなのかもしれない。
和服の似合う美優子にぴったりな部屋だ。美優子を主人公にした、大正ロマンの長編小説が思い浮かびそうになる。
奥のソファセットのテーブルには、すでに三人分の紅茶が並べられていた。
達也と百合は美優子に名刺を手渡すと、客室の奥のソファに座った。
あらゆる高級品に慣れている財閥の御曹司の達也でも、ソファの座り心地には思わず目を見張ってしまう。
美優子も達也と百合の向かいのソファに座ると、口を開いた。




