総支配人の依頼⑤
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――やっぱり、達也は中津川さんのことが気になっているんだ。
ラウンジ「リリア」の楽屋の前で達也と別れた後、百合は歩きながら心の中で呟いた。
パトリック・エヴァンスのライブが終わった後、偶然とは言え、達也と中津川が出会ってしまったのはまずかった。
とっさに「事務所のお客様」とうそを言ってしまったが、もっと上手いうそを考えて言うべきだった。今更ながら後悔してしまう。
達也と中津川さんは会わせたくなかった。あの時は突然のことで慌ててしまったが、自分らしくない。浅はかな行動だった。
達也と一緒にいると、「自分らしくない」と思うことが多い。父親の栄一や母親の葵といる時は、こんな風にはならないのに。
達也は自分の唯一の弱点なのかもしれない。
そう、弱点だから、自分は中津川とたびたび会っているのだ。
百合は後ろを振り返った。さっき自分が達也と別れたイリーナ・ホテルが遠くに見える。
達也の姿はどこにもいない。
百合はまた前を向くと、そのまま歩き続けた。
しばらく歩き続けると、百合は小さなバーの前にたどり着いた。百合は何の躊躇もせず、そのバーの扉を開けた。
カラン、とドアベルの音が気持ちよく響く。
ドアベルの音に、カウンターの隅に座っていた男が入り口の方を向く。中津川だった。
浅黒い健康そうな顔立ちに人の良さそうな笑顔を浮かべて、百合に軽く会釈した。
百合は無表情で会釈を返すと、中津川の隣のイスに座る。
中津川の前にはウイスキーのグラスが置かれている。量を見ると彼もこの店に来たばかりのようだった。
「こんばんは、桜井さん。何を飲まれますか?」
中津川は笑顔で百合にメニュー表を渡した。百合はメニュー表にチラリと視線を落とすと「グレープフルーツジュースを」と言った。
「お酒は飲まれないんですか?」
「明日仕事がありますし、お話を聞いたらすぐ帰りますので」
百合が中津川の方を向かずに答えると、中津川は笑顔のまま首を横に振った。
「少しくらいいいじゃないですか。お酒が飲めないわけではないですよね? このバー、桜井さんがピアノを弾いているイリーナ・ホテルの総支配人が若い頃に働いていたそうです。私がおすすめのカクテルを頼みますね」
中津川はバーのスタッフを呼び止めると勝手に注文し始めた。百合は中津川を止めることなく、黙っていた。
中津川の言う通り、百合は酒が飲めないわけではない。父親の栄一は酒が全く飲めないが、百合は母親の葵に似て酒には強かった。しかし、酒が好きかというとそうではなく、普段はまったく飲まなかった。
やがて、百合の前に運ばれてきたのは真っ青な色をした美しいカクテルだった。一口飲んでみると、ライチとグレープフルーツの味がする。アルコール度数は低いようだ。
中津川は百合がカクテルを飲む様子を、にこにこしながら眺めていた。
「今日はどういった用事ですか?」
百合が早速本題に入ろうとすると、中津川はまるで何かを出し惜しみするかのように、ゆっくりとウイスキーを一口飲んだ。
「用事がなければ、誘ってはいけなかったでしょうか?」
百合は無表情のまま中津川の方にチラリと視線を向けた。
「用事がなければ、帰ります」
百合はほとんど残っているカクテルに見向きもせず、席を立った。カバンから財布を出そうとすると、その腕を中津川が掴んだ。
百合が黒い瞳を見開く。
普段無表情の百合が驚く様を見て、中津川はますますその顔に笑顔を浮かべた。
「いいじゃないですか。たまには、普段以外の話もしましょう。桜井さんのことをいろいろと知りたいですし、もっとあなたと打ち解けたいんです。この間、あなたの幼馴染の西村さんともご挨拶しましたしね」
達也の苗字を聞くと、百合はそのままイスに座りなおした。
「わかりました、もう少しいます。だから、手を放してください」
中津川は大人しく百合から手を離すと、満足そうな表情をしながらウイスキーを一口飲んだ。
百合も心を落ち着かせるようにカクテルを一口飲んだ。
中津川が腕を掴んだせいなのか、彼のつけている香水のほろ苦い匂いが仄かに漂った。
男らしい、普通の女性なら心を躍らせる匂いなのだろう。しかし、百合は何回この匂いをかいでも、違和感みたいなものしか覚えない。
百合は隣にいる中津川の話に適当に相槌を打ちながら、ふと達也のことを考えた。
達也のそばにいると時々、石けんのように清純な匂いがしてくることがある。
あの達也が香水をつけているとは考えられない。彼の使っている石けんか柔軟剤の匂いなのだろう。それとも、育ちのよい雰囲気がそんな匂いを漂わせてしまうのだろうか。
百合が達也のことを考えているとは知らず、中津川は楽しそうに話し続けていた。




