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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第一章 乙女の祈り
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縮まらない距離③

(――百合、どうしてそんなに驚いているの?)


 百合はどうも、さっき「桜井さん」と声を掛けて来た相手を見て驚いているようだった。


 達也もさっき声が聞こえて来た方を振り返った。


 後ろには男が一人立っている。


 年齢は自分や百合より年上だろうか。背はそれほど高くないが体格が良く、肌の色も浅黒い。


 達也のような如何(いか)にも文学青年にいそうな「草食系」なタイプとは全然違う、体育会系な印象の男だった。


 男は達也と百合に近づいて来た。


 男が近づくと、つけている香水なのか土を思わせるほろ苦い匂いが仄かに漂って来る。


 男はまず、達也を見ると、軽く口角を上げて会釈した。


(――この男、もしかして、僕を知っているのか?)


 達也の勘が働く。しかし、達也はこの男を見たのは初めてだ。


「――中津川(なかつがわ)さん、どうしてここに?」


 近づいて来た男に対して、百合がますます目を大きく見開いた。


 男の名前は「中津川(なかつがわ)」というらしい。百合は少なくとも男と顔見知りで、名前も知っているらしかった。


 (――百合はどうしてあんなに驚いているんだろう)


 百合はあのパトリック・エヴァンスのライブで伴奏しても、緊張する気配を微塵(みじん)も見せなかったのに。


(――姿を見せただけで百合がこんなに驚くなんて、この男は一体何者なんだろう)


 中津川、と呼ばれた男は百合の前に立つと、驚いている百合とは反対にゆったりとした笑顔を見せた。


「この近くで仕事があったんです。実は今度、イリーナ・ホテルで私の店の絵を入れることになったので、その下見も兼ねて寄りました。


 ああ、パトリック・エヴァンスの動画配信、見ましたよ。いつもながらとても素晴らしい演奏でした」


「ありがとうございます」


 百合はすでに驚きの表情こそ顔から消しているが、それでもいつもの彼女とは違う。


 中津川という男を目の前にして、明らかに戸惑っている様子だった。


 達也が百合と中津川の会話に割って入った方が良いのか、それともこのまま黙っていた方が良いのか迷っていると、中津川が達也をちらりと見た。


「あちらの方は、あなたの幼馴染ですよね?」


 百合は返事をせずに、中津川から顔を背けた。


 やっぱり、この男、僕のことを知っていたんだ、と達也は思った。


「お邪魔してすみませんでした。桜井さん、ではまた」


「はい」


 中津川は達也に会釈すると、そのままどこかへと行ってしまった。


「ねえ、百合」


 中津川の姿が消えると、達也は慌てて百合に声を掛けた。「あの男、誰? 僕のことも知っているみたいだったけど」


「事務所のお客様よ」


「えっ? でも」


 いや、それは違うだろう、と達也は思った。


 本当に事務所の客だとしたら、百合はどうしてあんなに驚いた表情をしたのだろうか。


 百合が事務所の客と会って驚いたのを見たことなんて、一度もない。


 大体、探偵事務所の依頼人がひと気のある場所で探偵に会ったとしても、気軽に声をかけないような気がする。


「本当よ。達也がいない時に事務所にいらっしゃったから、達也は知らないと思うけど」


「でも……」


「何?」


 百合が達也を見上げた。


 さっき、中津川を見た時の驚いた表情はどこへ行ってしまったのだろうか。


 そこにいたのは、いつもと同じ無表情の百合だった。


 達也は思わず、言葉を飲み込んだ。


 多分、これ以上百合に何を訊いても、自分が満足する答えは得られないだろう。


「そう、なんだ」


「そうよ。じゃあ、家に帰りましょうか。パパとママが待っているし。私、とりあえず楽屋で着替えて来るから」


「うん」


 足早に歩き始めた百合の後ろを歩きながら、達也はあの中津川という男を思い出した。


(――でも、やっぱり違う。事務所の客じゃない)


 百合のあの驚いた表情。


 百合が事務所の客にあんな表情を向けるわけがない。


 じゃあ、あの中津川という男は何者なのだろうか。


 達也は考えたが、どんなに考えても答えは見つからなかった。

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