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ピアニスト桜井百合による謎解き小曲集  作者: 木原式部
第一章 乙女の祈り
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縮まらない距離②

 コーヒーを飲み終えて高畑にお礼を言うと、達也と百合はバーを出て行った。


 百合は楽屋でドレスを着替えるという。達也はそのままずっと着ていればいいのにと思ったが、さすがにこの露出の高いドレスのままでは、東京のビル街を通って家には帰れない。


 百合と達也がホテルの廊下を歩くと、時々すれ違う人が百合の見事なドレス姿を目で追った。


 中には連れの相手に「あの人……」と耳打ちする者までいる。


 達也は自分の方が照れてくるくらいの気持ちになったが、百合は相変わらず無表情だ。


 ふかふかのカーペットの上を、ヒールの高い靴で見事に歩いていく。


「百合、さっきすれ違った人、パトリック・エヴァンスのライブの話をしていたよ」


「そうみたいね」


「みんな、ライブ配信、見ていたのかな?」


 観客として見ていた達也は動画に映らなかっただろうが、ピアノの伴奏をしていた百合はこの美貌だし目立っただろう。


 しかも、ライブと同じドレスを着ている。見ていた人はきっと気づくはずだ。


 百合は持っていた小さなバッグからスマホを取り出すと、ちらりと画面に目をやった。


「さっきの配信ライブ、視聴回数がもうすぐ500万回を超えそう」


「500万回!?」


 達也は驚いたが、百合は相変わらずクールな無表情のままだ。


 まずい、と達也は思った。


 ラウンジ「リリア」での観客の入ったライブであれば、百合はここまで注目されなかったかもしれない。しかし、動画サイトで全世界に配信されたのであれば、話は別だ。


 いくらパトリック・エヴァンスのライブとは言え、百合が注目されるのは当然だろう。


 百合を一目見ただけで興味を持つ男は、それこそ星の数ほどいるはずだ。


「百合、あの……」


 達也は百合の後ろ姿に声をかけた。二人はいつも通り百合が前を歩き、達也が少し遅れて歩いている。


 さっき考えたプランを実行するんだ、と達也は思った。


 百合を食事に誘い、百合に告白する、あのプランだ。とりあえず、先を歩く百合を呼び止めなくては話が始まらない。


「そうだ」


 達也の呼びかけに気づいたのか気づかないのか、百合は何かを思い出したように声を上げ達也を振り返った。「私、これから家に帰るけど、一緒に来る? 昨日から久しぶりにママが帰国しているの。ママ、達也に会いたがっていたし」


「えっ? あれ? 葵さん、帰って来ているんだ」


 意外な名前の登場に、達也は自分のプランを一瞬忘れてしまった。


 百合の母親の葵は著名なピアニストだ。普段は世界中で演奏活動を行っている。日本に戻って来るのは、そう頻繁(ひんぱん)にあることではない。


 達也は百合や百合の父親の栄一ほど、葵と関わっているわけではない。しかし、葵は有名人の割には気さくな人物で、達也を気に入ってくれている。小さい頃からかわいがってくれていた。


「そう。明日、パパとママと私とでエヴァンスさんの会食に呼ばれているの。――今日、家に来るの? 来ないの?」


 百合は言いながら、達也に背を向けて再び歩き始めた。


「あっ、行くよ! 僕も久しぶりに葵さんと話したいし」


 達也は百合の後を慌てて追いかけ始めた。


 久しぶりに母親が帰ってきているのだ、百合と父親の栄一と母親の葵と一緒に家族水入らずで過ごしたいのではないだろうか。


 達也はそうも思うが、百合はこうやって葵が帰ってくるたびに達也を呼び出してくれる。


 葵がいないにしても、達也が執筆に行き詰まったり何かしらの不安の種に襲われたりしている時、百合はさりげなく「家に来る?」と言ってくれる。そして、栄一の作る夕食を食べされてくれるのだ。


 百合は達也が百合たちの家族を「よりどころ」にしていることを知っている。だから、こうやって誘ってくれるのだ。


 百合はやっぱり優しいな、と達也は思った。


 見た目はクールで無表情だが、やっぱり根は優しい。


 優しくなければ、失恋して泣いていたエミの話を聞こうともしなかっただろうし、ピアノの道よりも困っている人の役に立つ探偵業へ就こうとも思わないだろう。


 あの時だって、そうだ。


 達也が小さい頃に百合に一目ぼれして、毎日リムジンで桜井家へ通い詰めた時。


「迷惑だから毎日来ないで」


 と百合はきっぱり断ったが、「でも」と続けて言ってくれた。


「でも、毎日じゃなくて週一くらいだったら、来ても良いけど」


 達也が一週間後、意気(いき)揚々(ようよう)と桜井家へ向かったのは言うまでもない。


 それから、達也は本当に週一で桜井家に通い続けた。


 最初は百合が目的だったが、達也は百合の父親の栄一や母親の葵にも可愛がられた。


 桜井家のおかげで、達也は自分の生まれ育った環境とは違う、「一般家庭の雰囲気」を味わえたのだ。


 多感な年頃の達也の心は、百合や栄一や葵の協力でかなり救われた。



 百合は相変わらず早足だ。


 達也と百合の距離は、なかなか縮まらない。


 達也は「ちょっと、待ってよ」と小声で言いながら、百合の後を追いかけ続けた。


 さすがに、今日の百合に告白するプランは先延ばしかな、と達也が思ったその時……。


「――桜井さん」


 百合を追いかける達也の後ろから、不意に男の声が聞こえて来た。


 達也の前を歩いていた百合の歩みが止まる。


 百合が振り返る。


(――えっ?)


 振り返った百合の表情を見て、達也は驚いた。


 百合が目を大きく見開いている。百合の虹彩(こうさい)の周りの白目がはっきりと見えていた。


 この表情。


 あのほとんど感情を表に出さない百合が、驚いた時に見せる表情だ。


 百合がこの表情を見せるのは、よっぽど驚いたことがあった時だけだった。

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